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(証拠資料)「2016年4月5日、当時東京高検検事長であった西川克行氏に宛てて、井上莉絵瑠とMが連名で送付した嘆願書の一部抜粋(P6、L8~P9、L18)」に関する一考察

2019年5月7日 M作成

 徹底的に捜査を行おうとするが余りに、無意識の内に法的手続に違反してしまい捜査対象とされた人物に計り知れない損害を発生させる捜査機関と、徹底的に捜査を行わないことを目的として意識的にあらゆる法的手続きを省略し、犯罪被害者に計り知れない損害を発生させる捜査機関はどちらが怖ろしいだろうか。

 徹底的な捜査を行い刑事事件の全容解明を目指そうとする意思が暴走し、時として捜査における適正手続を逸脱し、最悪の結果である冤罪を生み出すという可能性を決して排除できないという意味において、検察庁を初めとする捜査機関は極めて大きな危険性を包含している。

 ある人間が自分と同じ人間を、「より高い位置」から取り調べ求刑するという本来的には不可能な行為(自分は自分が取り調べようとしている人間よりもマシであると完全に論証できる人物は一人として存在しない)が、検察庁には独占的に保証されている。先験的に法に宿っているとされる超越性に依拠して、時に、捜査対象とされた人物に対して違法な取り調べを行うことがいつの時代も繰り返されてきている。しかしながら、捜査機関が依拠する法自体に、先験的に超越性が宿り、法が首尾一貫性を帯びているとする前提は全て幻想に過ぎない。

 そもそも、原初において何一つ存在していない空間に、法が適用される空間(あらゆる共同体の領域)を開くという原初の侵犯行為を行わずしては、法が存在することは根本的に不可能である。何一つ存在していない空間に、法が適用される空間を開くという原初の侵犯行為を行わずしては、法が法となり得ない以上、法が先験的に無辜の概念であり、超越性を帯びた首尾一貫した完璧な概念装置である等という幻想には、徹底的に懐疑的でなければならない。いかなる法も原初の侵犯行為の際に浴びた返り血を、その身に帯びているどころか、その原初の侵犯行為という血塗られた暴力こそが法を法たらしめる絶対条件であるということは、『暴力批判論』の中で、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンが喝破している通りである。また法と罪の関係性についての根源的考察については以下の引用が非常に参考になる。「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。」(『新約聖書』、ローマ人への手紙7章7:7)

 単なる人間に過ぎない者が、自分は法的超越性を身に帯びた検察官であるという観念を実体化し、自分が自分以上の存在になったと誤認したその瞬間に、冤罪が生み出される条件が完全に整うことになる。この「思い上がり」に一致した瞬間に、検察官と暴力団を分け隔てる境界は完全に消滅し、両者の暴力を区別する判断基準は全ての意味を喪失する。それでも、検察官達が、捜査機関の一員として捜査を行い刑事事件の全容解明を果たそうとする意思をわずかでも維持している限りにおいては、多くの危険性を内包しながらも、検察官が検察官の枠組みそれ自体から完全に逸脱することはないと言える。

 元検察官の弁護士達、その他の弁護士達、各方面のジャーナリスト達、そして多くの市民が、捜査対象とされた方々から膨大な年月を奪い、修復不可能な損害を発生させる冤罪を生み出す検察庁に対して、様々な方向から強い批判を差し向けている。ところが、それらの批判の意味内容を吟味してみると、検察が時に「暴走」し、違法手続が行われてしまう危険性を減少させていくためには、絶えざる「批判」とそれを受けた検察庁側の「改善」が必要であるとする主張が大勢を占めている様に思われる。しかしながら、批判を行う主体が無意識の内に自明視している前提それ自体を批判する段階にまで至らない限り、批判は部分的な批判に留まり全体批判に向かうことはない。

 検察官達が○○大学の首謀者達と共謀し、捜査を行わないことによって自分たちの全組織犯罪を完全隠蔽しようと画策するという前代未聞の非常事態が発生してしまった以上、「検察庁は、捜査を行うために存在している組織である」という前提それ自体を批判することこそが必要になる。もしもこの前提それ自体への問いが明確に認識されない状態が放置されるならば、「批判」は全体批判の位相に到達することは決して起こり得ず、非常事態が延々と持続することになる。「批判」それ自体に宿る死角を不可視化させているものがあるならば、それこそが問われなくてはならない。この度、○○大学が中核となって引き起こした反国家的大組織犯罪は、批判を差し向ける人々の想像力が全く及ばない検察庁の姿を、これ以上なく具体的な形で可視化させる効果を間違いなくもたらす。

 本件反国家的大組織犯罪において、当時の検察庁は、自らの手で検察庁の存在意義を完全に否定するに等しい殺人的暴力を被害者に行使した。即ち、○○大学内部から開始され、国家的規模にまで拡大した反国家的大組織犯罪を完全隠滅するために、自分たちも組織的犯罪者達(○○大学の首謀者達、弁護士達、裁判官達、文科省の官僚達)と共謀し、あらゆる違法行為の存在とそれらを裏付ける科学的証拠までをも目撃しておきながら、無視黙殺を決め込み、徹底的に捜査を行わないという違法行為を執拗に反復してきた。そればかりか、最終的には、あらゆる捜査機関に告訴、告発を二度とさせないようにするために井上先生と私から告訴権、告発権を剥奪し、国家の法の効力を停止させる(=私たちに法を適用しないことによって、私たちを法的保護の外部へと締め出す)という規格外の超法規的暴力を行使してきた。これこそが、人々の意識の外部に存在し決して知覚されることがなかった、当時の検察庁の真の姿である。

 イタリアの思想家ジョルジョ・アガンベンは、彼の主著『ホモ・サケル/主権権力と剥き出しの生』の中で、自らより上にあるものを認めず、自らの剥き出しの生を自らに与え巨大な無意識の中でそれを現勢化させる者を主権者と定義している。「総統の言葉がそのまま法となる」と言われたナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーは、主権者の典型例である。総統の座についたアドルフ・ヒトラーは、非常事態を宣言することで、法の効力を停止させ、あらゆる法的秩序と自然状態の区別が付かなくなる破滅的な例外状態を引き起こした。○○大学の首謀者達と共謀した検察官達による反国家的大組織犯罪は、非常事態を発令することによって法の効力を停止させ例外状態を布告した主権者、アドルフ・ヒトラーのやり方と何ら変わるところがない。

 繰り返し、書き記しておかなければならない。組織的犯罪者達と共謀した検察官達は、捜査機関の一員として捜査を行い、刑事事件の全容解明を果たすために動くことを完全に放棄した。検察官として捜査を行い、刑事事件の全容解明を目指すという国民から負託された責務を果たさないことのみを行動原理として動き続けた当時の検察官達は、検察官の枠組みから完全に逸脱しており、検察官でありながら検察官ではなくなっていた。今日、検察批判を行い続ける様々な分野の人々が存在するが、彼ら彼女らにとって捜査を徹底的に行おうとする職業的意識が暴走して、時に違法行為という誤りを犯してしまう検察官達と、決して捜査を行わないことを目的として2013年から2016年の7月までの長期間に亘り、完全な計画性の下で、組織犯罪者達と共謀して違法行為の完全隠蔽を謀った検察官達のどちらが、被害者にとって、また一般国民にとって恐ろしいのだろうか。単なる人間である者が、検察官として振る舞うことが辛うじて許容されるのは、自分が捜査対象者よりもマシであり捜査権を行使できる存在であることの根拠を絶対に証明できないことを完璧に認識していながらも、最低限の法的秩序を維持し被害者救済を行うためには、原初の侵犯行為という罪によって血に塗れている法に依拠して刑事手続きを行うしか方法が存在しないという極限的な苦悩の中で、「毒を持って毒を制す必要悪」として法を使用する限りにおいてである。

 2016年9月15日に西川克行氏が検事総長に就任されるまで、組織犯罪者達によって、検察庁は捜査を行うために存在している組織であるという前提が全く通用しない、被害者に殺人的暴力を行使するだけの反国家的組織集団の位相にまで下落させられていた。私たちには、このことを許容することは絶対にできない。自分たちが犯した反国家的大組織犯罪を完全隠蔽するために、国家から独占的に与えられた強大な捜査権限を使用しないことにのみ全力を注ぎ、犯罪被害者の抹殺を謀る捜査機関ほど怖ろしいものはない。○○大学を中核とする組織的犯罪者達が行った全違法行為が白日の下にさらされ、組織犯罪者達全員が厳正な法的処分に引き渡されると共に、「大学」の名を語るに値しない「○○大学」が、学校法人として振る舞う全権利を喪失し、大学法人組織としても全的に解体されるまでは、「検察庁」が捜査機関である検察庁として復活を遂げ、国内に最低限度の法的秩序が維持されていると認識できる状況が訪れることは絶対に起こり得ない。現在私たちは、前代未聞の非常事態のただ中に存在している。そして2012年4月11日から続いている非常事態は未だ全く解除されていないのである。

(了)