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Belle 🐰 Usaneko-Passion(1)

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われらはその日

実感として忘れ去られた

縄のように世界を降りながら

ついに他人の意味となることのない

完璧な言葉を口ごもりながら

ーー石原吉郎「シベリヤのけもの」より

2012年4月11日。捜査権限があるわけではない某擬似捜査機関が、密室の中である人物に暴行することで法を侵犯した。法の侵犯と法の執行の区別が彼ら自身にもつかなくなり、法は完成=消尽した。自らの権威、或いは存在を自明視させることができるのは、法が完成可能性の途上にある限りにおいてである。

2012年4月11日。暴行を受けた人物は、物理的には外に出られても、密室の外に出ることは二度とできなくなった。密室の内部は、彼らが極秘に法を侵犯する無法地帯であり、そこでどんな被害を受けたかは不可視化されるからだ。巨大権力に転移し怯える者たちには被害者の姿は見えない。見る視力がない。

2012年4月11日。「非難は、判断される者との共同性を否認して自己を道徳的だとする限りで、自己についての知に対立する形で働いている」(バトラー)。この非難が壮絶な恫喝となって密室の中の人物に投げつけられ続けた。彼らは自分自身の不透明性を追放し、自己が限界づけられていることを忘却した。

2012年4月11日。密室の中で録音された虐待の音声を彼らは全面的に改竄し、編集した。虐待の痕跡を消去するため、隠蔽するため。その偽造録音媒体を偽造反訳書とともに当日のものだと偽って、彼らは民事裁判に提出した。密室は、即ち無法地帯は民事裁判にまで拡大し、やがて刑事告訴にまで拡大した。

2012年7月26日、被害者は共闘仲間とともに文科省の密室にいた。彼らが送り込んだ官僚を偽装する男、弁護士と思しき男が被害者たちに向けて、暴力団紛いの凄まじい恫喝を連続的に浴びせかけた。提訴を断念させるための強要。 被害者は一切の言説を封殺された。無法地帯は文科省にまで拡大していた。

2012年4月11日。その人物の真実についての知など彼らには不要であった。どんな関係も決して持たず、彼らに関係する権利をその人物から奪い続け、予め捏造してあった醜悪な物語の主人公になるようにひたすら強要した。この人物に対して未知であり続けることだけが彼らの犯罪を可能にする条件であった。

2012年4月11日。自分たちとの関係に絶対に入らせないことで、彼らはその人物を極悪非道の加害者という捏造された像に、強制的に一致させようとした。関係から排除し、その人物の真実について未知であり続けることを望んだのは、彼らだけではなかった。裁判官たち、検察官検事たちも同じことを望んだ。

「あなたは誰か?」と問い、彼/彼女の同一性を厳格に追及し、経験や過去の歴史を徹底的に透明な視線の下で語ることを強制する暴力を、バトラーは「倫理的暴力」と呼んだ。2012年4月11日以降、無法地帯から出られなくなった被害者に行使され続けた暴力は、倫理的暴力さえ行使しないという暴力だった。

「主体が自分自身にとって不透明であり、自分自身にとって完全に判明でも理解可能でもない」のはその不透明性の由来が他者への関係であるから。人の倫理的責任の発生源である他者への関係。主体が倫理的絆を招き寄せ、支えるのは、主体の自分自身に対する不透明性によってであるとバトラーは言う。

「非難、弾劾、痛罵は、たとえ他者から自分を解き放つためであれ、判断する者と判断される者のあいだに存在論的差異を設定するための手早い方法として機能する」。2012年4月11日、彼らの恫喝と罵倒は、彼らが眼前の他者へと委ねている彼ら自身の不透明性を、彼らが容易に放棄する方法となった。

だから、彼らが無法の法廷である密室にその人物を召喚したのは、他者として関係を持ち、その人物を判断するためではない。いかなる判断もせず、彼らが捏造した虚構の物語を唯一の真実として飲み込むよう強要し、真実に接近しようとして彷徨うどんな他者の言葉も語らせないためだ。猿轡としての恫喝。

だから、他者へと関係することでもたらされる自分自身についての非知の諸契機が彼らにもたらされることはなく、彼らを倫理的な責任主体へと覚醒させる彼ら自身の不透明性に、彼らが出会うことは一度もなかった。その人物の他者性、予測不可能性との沈黙の対話を経由することによってしか出会えない闇。

自分たちの内部に穿たれた欠如=剰余を、症候を彼らは抉り取ってしまった。瑕疵ある者であることを止めてしまった。例外なしに自分が自分と一致するしかなくなり、絶対善であり続けるしかなくなった。例外のない絶対善は絶対悪と区別がつかない。戦争のない完全平和が不可能であるのと同じように。

法が法として機能することができるのは、法が自らの内部に原初の侵犯行為という「原罪」を、法措定暴力という法の起源を宿している限りにおいてである。それが、法が完成可能性の途上にあるということだ。法が無媒介に法と一致してしまったら、法は無法と区別がつかなくなる。法=法の不在となる。

良心及び罪悪感の発生源である欠如=剰余を自分たちの内部から抉り取ってしまった法律の教師たちは、自分たちが冤罪を着せ、暴力の限りを尽くした人物を抹殺する必要に迫られた。その人物の生は自分たちの犯罪の痕跡そのものであるから。欠如=剰余が二度と蘇らないように、絶対善であり続けるために。

絶対悪と区別がつかない法律の教師たちの絶対善は、やがて裁判官たち、検察官検事たちにも感染していった。「犯罪→犯罪隠蔽という犯罪」の悪循環の連鎖を断ち切り、その全過程を歴史から抹消削除するために、彼ら彼女らは「被害者」の生を滅ぼし尽くすまで、暴力行使を停止することができなくなった。

まるで「最終解決」のパロディ、いや「神的暴力」のパロディのようだった。それは彼ら彼女らの精神にとって限りなく危険な背理だ。神的暴力は滅罪的であるのに対し、彼ら彼女らの欲望は「被害者」を悪質極まりない加害者に仕立て上げ、その生を汚辱に塗れさせて消滅へと誘導することだったのだから。

思想の裏づけがないばかりか、神話的暴力のなかにしか住めない彼ら彼女らに滅罪的な「神的暴力」を行使できるわけがない。ところが「被害者」の生を汚辱に塗れさせて消滅へと誘導する方法など神話的暴力には不在なので、彼ら彼女らは神話的暴力の枠組だけを利用して犠牲者を滅ぼし尽くそうとした。

つまり、神話的暴力に依存できず、犠牲者の生を滅ぼし尽くすまで停止しないという点で、彼ら彼女らの暴力行使は「神的暴力」のパロディだった。しかし、法的根拠は神話的暴力にしか存在せず、擬似「神的暴力」を行使するうちに、その滅罪的破壊力は彼ら彼女ら自身の「原罪」を抉り取っていったのだ。

「原罪」、つまり彼ら彼女らのなかにあって彼ら彼女らを超えた、彼ら彼女ら以上の何か。存在論的差異を彼ら彼女らにもたらしてくれる彼ら彼女らの剰余価値。自分自身との一致→不一致の運動とともに再生産されていく欠如。「神的暴力」のパロディに身を委ねたことにより、彼ら彼女らは欠如を喪失した。

百パーセント、完全に「正しい人間」であり続けなくてはならなくなったのだから。神話的暴力による媒介は不要となり、自分自身との絶えざる一致という拷問に耐え抜くことだけが彼ら彼女らの唯一の存在の仕方となった。世界は喪われ、法との一切の対話が喪われ、世界には彼ら彼女らしかいなくなった。

被害者を滅ぼし尽くすためには、彼ら彼女ら自身も神話的暴力=法による拘束を受けない地帯に移動し、その無法地帯に定在し続けるしかない。しかも、神話的暴力の権威の外観だけ威嚇するように身に纏いつつ。神話的暴力の形式だけ借りて、パロディでも「神的暴力」を遂行するのは過酷だったことだろう。

被害者にはどんなに汚辱に塗れて間接的な殺害の犠牲になって欲しかったことだろう。2012年4月11日から神話的暴力の形式を借りて「神的暴力」のパロディを遂行するという身振りはすでに開始されていたのだから。11日の暴力の効果を見越した10日の全授業閉鎖、ロックアウトに電源遮断、そして偽装解雇。

2012年11月20日。労働審判の第1回期日、機関名としてその名が使用された理事長は、解任されて既に理事長ではなくなっていた。被害者を陥れた人物の証人尋問の必要性を主張したのは労働審判の裁判官だけ。法治状態から既に逸脱していた彼らは勿論従わない。被害者を抹殺する手段としての法的手続き。

2012年11月20日。即日打切りとなった労働審判第1回期日が行われた小さな法廷。4月11日以来初めてその人物を至近距離で見たわけだが、外貌の極端な変化に被害者は息を飲むほど驚愕した。自己との不一致・自己言及・自己対話を促す、世界の外部と繋がっている彼の内部の欠如が完全に閉じている顔だった。

それは、完全に「正しい人間」であり続けること、という拷問を自らに課す以外にもはや存在する術を失ってしまった「人間」の顔。法の完成=消尽が受肉したような「人間」の顔。「自分が誤っているかもしれない」という可能性の空気を二度と吸えなくなった顔。存在論的閉鎖という真空に磔にされた顔。

2013年1月30日から開始され、2014年2月26日に判決期日を迎えた民事訴訟第一審は、2012年4月11日の某擬似捜査機関による暴力行使の忠実な延長だった。弁論準備手続は一度も開かれず、裁判官たちは原告と直接会うことを徹底的に回避し続けた。本人尋問も証人尋問も却下、録音媒体の鑑定申請も勿論却下。

被害者である原告を滅ぼし尽くすための「神的暴力」のパロディが、裁判官と呼ばれる加害者たちによっても遂行され続けた。世界の外部に通じている、良心と罪悪感の発生源である内部の欠如=「原罪」を、 裁判官たちも抉り取られることに同意した。贈収賄によってか脅迫乃至圧力によってかは知らない。

2013年5月22日、民事訴訟と並行して被害者は「強要罪」の被疑事実で刑事告訴を行った。同年6月24日、告訴状は受理された。ところが半年もしないうちに、刑事告訴も被害者を滅ぼし尽くすための「神的暴力」のパロディとして、密かに遂行され始めたことがのちに判明する。民事と刑事の前代未聞の連動。

もう一度書く。前代未聞の連結を遂げた民事と刑事が、被害者を滅ぼし尽くすための「神的暴力」のパロディを密かに行使し続けた。両者を連結する役割を担った主役こそ、決して鑑定には出されなかった偽造録音媒体だ。民事で原告が自費で鑑定に出さないように担当検事は「鑑定に出す」と嘘をつき続けた。

1年7ヶ月もの間不真正不作為を貫き通した挙句、2015年1月30日、後半の担当検事は嫌疑不十分で被疑者全員を不起訴処分とした。時効成立まで2ヶ月半足らず。鑑定には最低でも3ヶ月半は要する。2014年12月中旬、担当検事は「これから鑑定に出します。処分は来年1月下旬までに出します」と不条理を述べた。

2015年1月27日。前任の担当検事に依頼され、途中から告訴人代理人にもなった民事の弁護士とともに後任の担当検事から処分決定の理由説明を聞いた。文科省、民事訴訟第一審、第二審と「救済」へと繋がる窓口を悉く閉鎖された挙句、最後の窓口であった刑事告訴も遂に挫折したという事実だけを確認した。

2015年1月27日「鑑定には出しませんでした」と後任の担当検事は言い、理由は「自分の耳で聞いたけれど、おかしなところはなかったから」というものであった。同年4月に被害者たちは自費で鑑定に出した。科学的鑑定結果によると、原本はICレコーダーではなく、最終録音日時は2012年10月15日であった。

2013年11月中旬、被害者を呼び出した前任の担当検事は、民事の代理人弁護士に告訴人代理人にもなって貰いたいので委任契約を結ぶよう被害者に要請した。捜査のためだといって納税者である被害者に高額の支出を事実上強制した。裁判官のみならず、検察官検事も被害者と直接会わずに済む状況を作出した。

民事と刑事の前代未聞の連動に被害者はなぜ気づいたのか? 第一審判決という形式を身に纏っただけの、被害者を汚辱に塗れさせて消滅へと追い遣ることを明白に狙って書かれた「殺人未遂文」を精読し、脱構築したからだ。法的文書であることを担保する法律への参照や判例の引用など何一つない凶器文書。

「判決書」とは名ばかりの「殺人未遂文書」には書くことが不可能なことが書かれてあったからだ。第一審最後の口頭弁論期日に被害者は「強要罪」の告訴状を提出した。2014年2月26日の判決期日の時点では起訴/不起訴は未定のはず。ところが「判決書」には「強要はなかった」と断定する文言が見られた。

起訴/不起訴が未定というだけではない。本人尋問も証人尋問も却下し、CD-Rの鑑定も却下したのだ。おまけに「反訳書」と題された文書には発言者の名前がなく、A、B、Yという表記しかない。それなのに、なぜCD-Rは本物であるという大前提の下、A=○○が強要を行ったという事実はないなどと書けるのか。

どれほど凶悪犯罪の刑事裁判でも、これほど暴力的殺意に満ち、全編獰猛な悪意と憎悪で漲る判決書が書かれることはないだろう。事実認定の裏付けがなく、全編が偽命題で書かれているため論理が破綻しているこの「殺人未遂文書」の目的はただ一つ、某組織の犯罪を隠蔽すること、その生き証人を消すこと。

「原告を陵辱し、陵辱しぬいて自殺に追い込め」などといった具体的な指示があったとしか思えない。この「殺人未遂文書」の原案を作成した裁判官に訊いてみたい。この穢れた文書を最初から最後まで、あなたは本当に裁判官として書いたのか。裁判官として立つ大地は直ぐに崩壊していったのではないか。

一体誰に向けて書いたのか。原告と一度も面談せず、原告の思想も経験も生き方も何一つ知らず、原告側が提出した陳述書も第三者証言も読まず(証拠採用せず)、事実確認という裁判手続を完全省略して書かれた判決書とは、一体誰に向けているのか。宛先は原告、但し未知の他者である限りにおいての原告。

民事裁判が2012年4月11日の某擬似捜査機関による暴力行使の正確な延長であることがよく分かる。いかなる関係も持たず、相手を未知の檻に閉じ込めておくことだけが、その他者を判断しないで済む=倫理的暴力を行使しないで済む条件である。自分たちに都合のよい虚偽の物語と一致させられる条件である。

誰かの生が可能になれば、別の誰かの生が不可能になる。あなたの生が可能になれば、私の生が不可能になる。あなたたちの生が可能になれば、私たちの生が不可能になる。そんな相互殺戮、不可視の間接相互殺戮の網の目から世界は成り立っている。「人間は加害者の中からしか生まれない」のだ。

「正しい人間の永遠の未到来は人間の不在より恐ろしいことである」とベンヤミンは『暴力批判論』のなかで言いたいようだ。「正しい人間は永遠に到来しない。誰にも判断できないから。だから、人間世界は永遠に例外状態であり続けるしかない。人間が絶滅してしまうより、その方がはるかに恐ろしい」と。

例外状態とは自然状態と法治状態の区別が全くつかなくなった、限りなく危険な不分明地帯・無法地帯のこと。「原罪」=瑕疵=症候を身に帯びさせられた者が人間と呼ばれる。潜在的に破滅を含んだ者にされて初めてその者は人間と呼ばれる。つまり、不分明地帯に取り返しのつかない形で遺棄されて初めて。

オウムの全死刑囚の死刑が7月中に執行された。急いだ理由の不可解さを巡り、感覚的な憶測が飛び交う。日本社会から下方排除される前代未聞の組織という見解もあった。法的秩序を根底から瓦解させる、より悪質な未曾有の組織犯罪を挙げるためだったとしたらどうだろう。他に選択肢がなかったとしたら。

空前絶後の規模と悪質さを持った組織の中に検察官と裁判官が含まれていたとしたらどうだろうか。彼らが拘束されていたのは良心と法律ではなく別の私的組織との癒着であったとしたら。起訴裁量権の独占による暴力の行使と、剥き出しの生の発現である暴力行使の区別がもはやつかなくなっているとすれば。

オウムの犯罪がいかに残虐極まりない狂気の犯罪であっても、それは飽くまでも法治状態の中で起こり、法的機関を内部から侵蝕することはなかった。しかし、法的機関に属する者たちが法的機関の内部で、法の執行者の仮面を被りながら法の適用範囲外に、例外状態に自分たちを密かに追放していたとすれば。

一つの私的組織と癒着しながら、国家の法的機関に属する者たちが無法地帯へと逸脱し、法的秩序を事実上破壊する行為に手を染めていたとしたら。その場合、そのような犯罪者集団を挙げた後では、オウム死刑囚の死刑を執行することは限りなく困難になるだろう。法治国家の全的回復の約束としての処刑。

オウムという反国家的犯罪者集団の幹部の死刑執行は、潜在的な反国家的犯罪者集団に対する威嚇の意味もあったのかもしれない。オウムのテロ行為は明示的・可視的であるが、潜在的な組織犯罪者集団の反国家的行為は一見国家機関内的であり、徹底的に不可視である。その脅威はある意味でオウムを上回る。

第一審は、原告を先行排除して無法治状態の中で、神話的暴力の外で徹頭徹尾行われた。某組織の欲望の忠実な延長として。一年以上に亘り原告の顔を一度も見なかった被告代理人は、終始怯えた疚しそうな表情を湛えていた。「これは汝を陥れる不正な裁判である」と無言の内に告白し続けた顔。

CD-Rの録音日は2012年4月11日であり、反訳書の作成者は〇〇事務所であり、作成日は2012年5月15日であるという大胆不敵な虚偽が証拠説明書には書かれていた。科学的鑑定結果によれば、最終録音日は2012年10月15日。音源はICレコーダーに非ず。ならば、2012年5月15日にどうして反訳書を作成できるのか。

2016年3月30日、被害者の共闘仲間は当時の最高検に鑑定書の写しを直接証拠として告発状を提出。被疑事実は「私電磁的記録不正作出・供用罪」。同年4月14日、同告発状は返戻されてきた。告訴権・告発権を剥奪するという趣旨の違法書面とともに。同一書面が二週間前、被害者にも送りつけられてきていた。

2016年3月18日。第一審、二審の裁判官、及び検察官検事を告訴する二通の告訴状を被害者は当時の最高検に提出した。鑑定書の写しと判決書の脱構築的分析を直接証拠とし、民事と刑事の連携の実在を完璧に論証した二通の告訴状。すると、告訴権・告発権を剥奪された。告訴と告発を二度とできなくされた。

だから、2016年12月6日、20人以上の捜査員に抜き打ちで家宅捜査に入られたとき、某私的組織はどれほど驚愕したことだろう。翌7日の午前4時過ぎ、近所に住んでいる共闘仲間が外出したところ、某組織の中心的建物には煌々と電気が灯り、恐怖と混乱を鎮めるための儀式が営まれていることが確認された。

告訴権・告発権を遂に剥奪させたのだから、自分たちの犯罪の生き証人である被害者を滅ぼし尽くすという計画に狂いが生じることなど絶対にあり得るはずがないのに。某組織という巨大建造物はタイタニックのように、彼らが無警戒であった被害者の未知性という岩に衝突し、この時から僅かずつ沈み始める。

タイタニックは社会からこう見られたいという自我理想の結晶であった。「不沈船」の沈没を予言する小説が書かれ、その題は『無益さ』であった。「神的暴力」のパロディを開始したとき、被害者を滅ぼし尽くすという計画は、加害者も滅ぼし尽くすまで停止しないという原理を知っておくべきだったと思う。

2016年5月28日、被害者はあるイヴェントで「絶滅」についてレクチャーを行い「無益さ」に対して親和性が高いことを示した。加害者が自明視した通り、被害者が無知で無力で無能で、この被害者以外に生き延びることは不可能であった殺人的暴力の犠牲になってくれていたらどんなによかったことだろう。

それどころか「絶滅論」に牽引される被害者は神的暴力の探究者、或いは実践者である。武器はエクリチュールだけなので、加害者のように神話的暴力を侵犯することははない。だから神的暴力に導かれ、2016年8月10日、当時の検事総長に宛てて凄まじく長文の抗議文を書き、それを内容証明郵便で送付した。

厳密には検事総長に就任される直前の東京高検検事長に内容証明を送付した。激烈な怒りを込めて。某私的組織の犯罪の完全隠滅に加担したとき、検察官たちは法律の適用範囲外に、無法地帯に被害者だけではなく自分たち自身も追放したのだと書いた。もう例外状態なのだから、被害者を殺すよう要望した。

文科省高等教育局、東京地裁立川支部、東京高裁、東京地検立川支部、東京地検特捜部、東京高検、最高検という各公的機関に属する一部の者たちが、某私的組織と共謀して、巨大な犯罪身体を作り上げている。各機関=器官を連結している血管が何であるのか、捜査による大手術を即刻開始するよう要求した。

東京高検検事長に送付したのは告訴権・告発権を剥奪されたからだけではない。2015年12月25日に東京地検立川支部に鑑定書を直接証拠として行った全告訴・告発が、再び捜査を完全省略して不起訴にされたから。2016年3月18日に東京高検に行った不起訴処分不服申立てが、調査の痕跡なしに否定されたから。

だから東京高検検事長に問い質した。不起訴処分不服申立書に本当に目を通したのか、不服申立ては認められないとする通知書に本当に決裁印を押したのか。検事長は記憶の中でYESかNOで答えるしかない。答えがNOであったことは、2016年12月6日に某組織で捜査員が立ち入り捜査を行ったことから明白である。

2014年6月5日。第二審の第1回口頭弁論期日、本人尋問も証人尋問も却下されたが、裁判長は録音媒体については鑑定に出すとも出さないとも言わず、全く言及せず。閉廷後、不思議な事が起こった。つねに早々に立ち去る被告代理人が某組織の事務員とともに、隣接する待合室で不安そうな顔で相談していた。

2014年7月22日、控訴審判決の日。法廷に姿を現した裁判長を一目見た瞬間、控訴人側の誰もが裁判長は交代したと信じそうになった。ひと月半ほど前に見た人物と同一人物であるとは到底思えなかった。外貌が完全に別人のように変わり果てていたから。まるで直前に物理的暴力を受けたとしか思えないほど。

第二審の裁判長は控訴人を逆転勝訴させるつもりでいたのではないかと次第に思うようになった。第一審の「殺人未遂判決書」とは打って変わった控訴審判決。気の毒なほど申し訳なさそうな、弱々しい文体。第一審判決の露骨過ぎる人権侵害的暴言に斜線を引き、無理矢理書かされたかのような苦悩する文体。

第二審の第1回口頭弁論から半月ほどして異様な事が二つ起こった。一つは「強要罪」の被疑者たちが「原本」のICレコーダーを提出してきたと、担当検事が知らせてきたこと。勿論これは大嘘。もう一つは、理事長が交代したことを知らせる「上申書」を某組織が提出してきたこと。経歴に迫力が宿る理事長。

本件訴訟が被害者によって提起され、1年半以上も続いていたことは、某組織の教授会にも理事会にも一切知らされていなかったことがのちに判明。労働審判の際、機関名とされた理事長はこの時点で解任され、既に理事長ではなかった。三人の理事長は、自分の名前で行われていた本件訴訟の完全に外にいた。

それが、某組織の犯罪者たちがどんな手段を使ってでも、犯罪の隠蔽という犯罪の連鎖をどれほど重ねても、被害者を勝たせる訳にはいかなかった理由である。三人の歴代理事長は訴訟行為を行う授権を与えたことなどない。被害者を解雇したことにされている労働審判の理事長の印鑑は稟議書には存在しない。

だから、三人の理事長は民事訴訟に偽造証拠を提出し、不正に勝訴判決を出させたことの全責任を転嫁された。監督責任は問われるとしても、彼らにも被害者の側面がある。理事長に隠れ、理事長の名義を冒用して、某組織の代表を騙って密かに行われ続けた裁判。裁判であることが初めから不可能である裁判。

2015年1月30日。被害者を滅ぼし尽くし、某組織と共謀者たちの全犯罪の歴史からの抹消削除を謀るという共通の目的により、民事も刑事も被害者を絶望の大海に放り込んだ。それでも被害者は泳ぎに泳いで、民間の某法科学研究所に必死で漂着し、科捜研出身の鑑定人に鑑定を依頼した。同年4月16日のことだ。

偽造CD-Rとともに某組織から提出された偽造反訳書。代理人から指示を受け、偽造CD-Rを反復聴取しながら、2012年4月11日の被害経験とは異なる箇所を全て偽造反訳書に書き込んでいくという作業を、第一審が開始された直後に行った。共闘仲間と二人で、大音量で17時間余りもかかって反復聴取を続けた。

全編が恫喝と罵声から成る偽造CD-Rの反復聴取は凄まじい苦行であった。ところが聴取を続けるうちに、被害者も共闘仲間も思わず爆笑する箇所に何度も遭遇した。それこそ耳で聴いても、どこをどう編集したかが手に取るように分かった。改竄の痕跡は全編に亘った。一度も使われない丁寧語が使われていた。

2012年4月11日、被害者を「あんた」と呼び続けた恫喝の主は、偽造CD-Rでは「先生」と呼び続けた。被害者を陥れた人物は「X」と偽造反訳書には書かれていたが、恫喝の主は犯行現場では実名で呼んでいた。ところが偽造CD-Rでは恫喝の主は思わず「X」の「エ」と言いそうになり、慌てて実名に言い換えた。

他にも被害者が言っていないことを被害者の声に近かったり遠かったりする人物の声が言っていた。最も呆れたのは「X」に都合の悪い個所が不自然極まる虚構に書き換えられ、偽造CD-Rに残存していた不都合な個所が偽造反訳書では更に書き換えられ=変造されていたこと。偽造反訳書は台本だと分かった。

偽造反訳書は最低でも二度書き換えられている。まず4月11日の録音音声を〇〇事務所が「5月15日」に反訳する。恫喝の主が全編に亘って改竄・編集し、それを台本として4月11日を再上演する。被害者から労働審判を申立てられた後、2012年9月中旬以降。被害者の代役を立て、被害者には声だけを登場させて。

鑑定結果によればCD-Rの音源はICレコーダーではなくPC。PCに録音した再上演をCD-Rに複写したとき、それでもまだ不都合な個所が残存していたので、更に変造を加えた偽造反訳書を裁判所に提出。従って、本偽造反訳書は無形偽造ではなく、〇〇事務所の名義を使用した有形偽造の文書。架空名義であっても。

鑑定結果は2015年7月下旬に出るのだが、偽造物であると確信していた被害者は、同年6月初旬に某法律事務所に法律相談をしたい旨、事件内容を圧縮して書いてメール送信した。鑑定結果が出たら告訴・告発、及び民事の再審請求をしたいと。即刻断わりの返信がきた。某組織と深い関係があるので無理だと。

即刻断わりの返信を書いてきたのは、その法律事務所の若い弁護士であったが、今年に入ってから共闘仲間が到底信じられない事実を発見した。その若い弁護士は3年も経たない内に死者になっていた。死因が何であるかは知らない。確実であるのは、某組織の犯罪をその弁護士が知ってしまったということだ。

死者となった若い弁護士と二人で某法律事務所を営んでいたもう一人の若い弁護士がいた。死者の親しい友人であった弁護士。こちらの弁護士は某法律事務所を辞めたばかりか、弁護士として仕事をすることそのものを止め、某企業に就職していたことが確認された。その人物は過去の勤務先を公開していない。

若い弁護士は死者となり、もう一人の若い弁護士は法曹界を離脱した。

そこで思い出す。「強要罪」の告訴の前任の担当検事のことを。2014年8月に東京地検本庁に異動になったこの検事は2015年3月31日付で辞職し、弁護士に転身。某組織と深い繋がりのある某法律事務所の。しかし元検事の所在は現在不明。

科学的鑑定結果が出たことにより、偽造反訳書の裁判提出を「無印私文書偽造・同行使罪」で告訴・告発できる可能性が現実化した。ところが、民事と刑事の連動によりその発覚を防いでいた録音媒体の偽造性を、被害者側が遂に鑑定に出して暴いてしまった時から隠蔽の度合は極端に激化する。詳細は今夜に。

書き忘れた。失踪関連もう一件。2012年7月26日、文科省密室にて提訴を断念させるべく、被害者たちに暴行した弁護士と思しき男の隣にいた当時文科省の官僚だった人物。この人物は最初は被害者の状況を憂慮し、某組織に期限付きで回答を要求。某組織は虚偽回答を携えたこの暴行男を文科省に送り込んた。

暴行男が伝えた凄まじい虚偽回答の数々。「2012年4月11日には何も開かれず、何も行われてなどいない」には焦った。隣に座った文科省高等教育局私学部の官僚は、暴行の間疚しそうな顔つきで終始無言。失踪の一件だが、この官僚は2013年には文科省を辞職したことが確認されている。その後の消息不明。

2015年9月9日。鑑定書を直接証拠として東京地検特捜部に告訴・告発を行った。被害者は裁判官と検察官検事を、共闘仲間は某組織の首謀者たちと弁護士をそれぞれ告訴・告発。前者は無印私文書偽造・同行使の幇助、犯人隠避と証拠隠滅で。後者は無印私文書偽造・同行使で。約三週間後に勿論突き返される。

特捜部に告訴・告発をしてから数日後、某組織に2015年4月に創設された内部監査室公益通報に、共闘仲間たちが直接赴いて首謀者たちの数々の違法行為を通報した。しかし、不自然なほど愛想のよい歓待は、被害者が所有している、某組織が裁判に提出した偽造CD-Rの現物を被害者から奪い取るためであった。

某組織に2015年4月に創設されたということは、同年1月30日に「強要罪」を苦労して不起訴処分にさせた直後なので、被害者が鑑定に出す危険性を明らかに予見してのことだ。調査を口実に被害者から当該CD-Rを巧妙に奪い取る計画だったことは明白だ。二度目に被害者も同行すると、室長と副室長は豹変した。

またしても嵌められたことを察知した被害者たちは、提出してしまった鑑定書を始め膨大な証拠資料を取り返すため、三度目は予告なしに同組織の部屋に入った。室長が鑑定書をコピーするという窃盗行為の最中だったので共闘仲間が110番通報すると、管轄の警察署から警察官が数名、某組織内に入ってきた。

室長の行為が窃盗であることを認めた警察官は、被害者が提出した「公益通報シート」の事件番号を見て驚愕した。001、即ち同組織が扱った事件はこれだけであった。提出した全資料を取り返した被害者たちは、某組織の内部鑑査室公益通報の室長たちを窃盗その他の被疑事実により特捜部に直ちに告訴した。

2015年9月9日から約三週間後に同日提出した告訴状・告発状、そして証拠資料の全てが特捜部から返戻された。約五週間後に某組織の内部鑑査室公益通報を告訴した告訴状と全証拠資料も返戻された。インタフォンを突然鳴らされ、暴力的に突き返されるという恐怖は凄まじく、その執拗な反復は外傷となった。

110番通報により某組織に急行してくれた刑事に共闘仲間があらためて電話したところ、「〇〇〇〇の事件は扱わない。これが本警察署の公式見解である」と怒鳴られ、電話を切られた。のちに告訴権・告発権を剥奪する当時の最高検の幹部クラスの検察官検事が、こうして完全隠滅の網を徹底的に広げていた。

2015年10月に入ってから、共闘仲間たちは某組織の学長に直訴に赴いた。「〇〇〇〇が存亡の危機に陥っていることを伝えに来ました」。終始逃げ腰の学長は、自分は教学だから法人秘書課に行って理事長に伝えて欲しいと述べた。共闘仲間たちは法人秘書課に行って、理事長宛ての書簡と証拠資料を手渡した。

しかし、共闘仲間が受け取ることになったのは、偽造CD-Rを2012年4月11日のものであると未だに主張する文言と、理事長を始め某組織の上層部との接触を禁止する文言が書かれた書簡であった。二度目にきた書簡の差出人は、印鑑ではあったが理事長となっていた。首謀者が送付してきたことは明らかだった。

2015年10月中旬過ぎに被害者は三人の歴代理事長の自宅に宛てて同内容の長文の書簡を送付した。2012年4月11日の暴行を発端として某組織の組織犯罪者たちが繰り広げてきた違法行為の全てを伝えた。しかし、当時現職の理事長への書簡は首謀者たちに奪取された。2012年当時の理事長には全てを伝えられた。

2015年11月4日。被害者たちは再び文科省高等教育局を訪れ、2012年7月に某組織が文科省に虚偽回答を伝えたことを告発し、二人の官僚に鑑定書を見せて調査を依頼した。自浄作用を促すように働きかけると一度は約束してくれたものの、連絡は直ぐに途絶えた。2016年には彼らもまた文科省から消滅していた。

一方、状況の深刻さを理解して貰うため、被害者は学長宛ての「請願書」を共闘仲間たちに託した。ところが学長は頑として受け取らず、「法的手段に訴えたらどうですか」と言って慌しく逃げ去った。当時最高検の幹部検事が完全隠滅の守護神として付いていることを彼が知っていたのかどうかは知らない。

2015年11月18日。被害者は共闘仲間たちとともに再び東京地検立川支部に赴き、彫琢を重ねた告訴状・告発状を提出した。「法治国家ではないですね」と被害者が言うと直告係の検察事務官は「これまではね」と温和な口調で言った。二度三度と会ううちに、この温和な事務官の態度も別人のように険悪になる。

東京地検立川支部を訪れる二週間ほど前、被害者は当時現職の理事長の自宅に宛てて再度書簡を送付した。立川支部を訪れた二日後、差出人として理事長の印鑑が押された脅迫状が内容証明で被害者宅に送られてきた。「偽造証拠を提出して不正に勝訴判決を得たという事実はない」という大嘘が書かれていた。

これ以上某組織の関係者への接近行為を繰り返すなら法的措置を執ると、冗談みたいな脅迫が書かれていた。またも理事長宅への書簡到達は挫折。悪行の数々を誰よりも理事長に知られては困る人物の仕業。「殺人未遂判決書」と同じトーン。その人物が理事長の名義を冒用し、被害者宅に脅迫状を送ってきた。

三日後、同脅迫状を持って東京地検立川支部に駆け込んだ。事務官の顔は強張っていた。「今日は何?」と聞かれたので、同脅迫状を証拠として提出する旨を伝えた。顔が暗い陰りを帯びているとはいえ、同脅迫状をその場で一読した事務官は流石に嘆息して言った、「企業でもこんな悪質なことはやらない」。

しかし、共感の言葉を事務官が口にしたのはそれが最後となる。検事が打ち合わせをしたいと言っているので、立川支部まで来て欲しいという電話があり、一度決めた面談日時が検事の都合で変更され、最終的に2015年12月9日に決まった。若い検事にとって失敗は許されない不正な任務。闘いの詳細は今夜に。

余裕がなく、放っておいたジジェクの新著『The Courage of Hopelessness』の邦訳を手に取った。邦題は『絶望する勇気』。絶望の渦中にいる人間にこんな本を読む余裕はない。しかし絶望するとは何を言うのか。未来という仮想空間を開く、未来の可能な意味の全てを代理しているXが消えたということだ。

2015年12月9日。共闘仲間たちとともに検事の待つ部屋に入った。本人が自分のことを「女性」と言ったので、それは非常に若い女性の検事であったと言おう。検事の顔には強い緊張が窺え、不安の霧に包まれていた。努めて軽妙に話したが、約50分に亘り検事のしたことは告訴と告発の徹底的な妨害であった。

「告訴と告発など絶対に不可能であると思い込ませ、自主的に取り下げさせるように説得しろ」、こんな命令を受けていたと思う。コンメンタールを何冊も卓上に起き、検事は告訴状と告発状に次々と難癖をつけ始めた。厳密な法的根拠など何もない難癖。ダメだからダメはジジェクの「法は法」を想起させた。

「法に対する外的な服従は法が理解不能である限りにおいて「指令」に従うことである。理解不能とは即ち、法が外傷的・非合理的性格を保持しているということである。外傷的で統合され得ないという法の性格は、権威を隠しているのでは全くなく権威の決定的条件なのだ」(『イデオロギーの崇高な対象』)

ジジェクによれば、抑圧されているのは「法は真理としてではなく必然的なものとして受け入れられなければならないという事実、法の権威には真理は含まれていないという事実」である。「法の中には真理がある、と人々に信じ込ませる必然的な構造的幻想は転移のメカニズムをそっくり表している」そうだ。

ジジェクの表現を少し和らげて言うと、転移とは、法という外傷的で非合理的な事実の背後には「真理」「意味」があるという仮定である。「どうして信じなくてはならないかという理由は、既に信じている者に対してしか説得力を持たない」。だから全然転移していない被害者に支離滅裂な説得は通用しない。

「民事裁判なんて何でもありなんだから、どんなことだって起こるんだから! 判決が出たらとにかくそれは判決になるんです!」到底検事の言葉とは思えない。共闘仲間が「じゃあ裁判に偽造証拠を出してもいいってことですか?」と聞くと、検事は苦しげな沈黙に逃げる。多弁饒舌なのに何も言っていない。

「こんな案件、どんな弁護士が告訴状書いたって事件化できない! だって中身が何にもないんだから!」と中身のない不毛な説得を続ける検事から言われる。偽造反訳書に対しては「こんなもの、文書でも何でもない!」とそれが反訳書として無効であることを「語るに落ちた」的に証言してくれたりもする。

「強要罪」の前任の担当検事が辞職したことについては「〇〇検事は贈収賄があったから辞めたのかもしれませんね」と再び口を滑らし、ぎょっとさせる。検事は殆どの告訴状・告発状に難癖をつけたが、犯人隠避・証拠隠滅を被疑事実とする、二人の検事を告訴する被害者の告訴状には一言も言及しなかった。

「無印私文書偽造・同行使罪」を被疑事実とする共闘仲間の告発状に対して、検事は「構成要件を満たしていない」と執拗に強弁した。「作成者は〇〇事務所ってあるでしょ!  だったらそれ無形偽造だから、中身が虚偽でも偽造でも犯罪にはならないんです! 諦めてください!」と説得に凄みが加わった。

「どうするか再考してきます」と言って、不正な任務の首尾を想像して不安の色がますます濃くなっている検事の元から、被害者たちは立ち去った。私文書の場合、他人の名義を冒用しているのでない限り、たとえ偽造物であっても日本の刑法では犯罪にはならないという限界を突破しなくてはならなくなった。

ホッブズのパラドックスをこの検事に聞いてみたかった。「その力のゆえに法が有効となる服従の義務はあらゆる法に先行する」。「命令権を無条件に認めることが〈前提〉でなければ、個々の具体的な法律はどんな効力も持たないだろう」(ヴィルノ)。「反抗するな」と言明する法は原理的に存在できない。

偽造CD-Rの作成日は2012年10月15日であるのに対し、その反訳書の作成日が同年5月15日であるのは時系列的に矛盾している、従って作成者とされている〇〇事務所は存在しないか、或いは架空名義であるという観点から告発状を書き直すと共闘仲間は電話で検事に伝えた。すると検事は少し待つように言った。

〇〇事務所が実在しているかどうか某組織の代理人に訊いてみるから、告訴状の書き直しは待つようにと共闘仲間に命令した。数日後、検事は共闘仲間に電話してきて〇〇事務所は確かに実在する、そして作成者ご本人が書いた請求書も某組織から立川支部に送られてきていると伝え、共闘仲間を打ちのめした。

更に「録音媒体のことは忘れてください!」と不正な任務の完遂に到達したい検事のなかの渇望が叫んだ。検事の背後にいる最高検の幹部検事、更にその背後にいる某組織の首謀者たちが、またしても被害者と共闘仲間を絶望の大海に突き落とした。幻想の未来の空気が蒸発した真空の中をそれでも前に進んだ。

2012年4月11日に全身全霊を穢れた暴言と恫喝の矢で刺し貫かれた被害者の中に、この瞬間絶対的な確信が宿った。あの恫喝の主が自分の犯罪の音声を聴きながら反訳できるわけがない。2012年5月15日にICレコーダーを反訳したのが〇〇事務所、或いは〇〇事務所の仮面を被った某擬似捜査機関の職員であると。

鑑定結果に基づいて、そこからの推論は容易であった。第一の反訳書を全面的に改竄・編集。第二の反訳書を台本として4月11日の再上演。更に変造を加えた第三の反訳書を裁判に提出。従って、偽造反訳書は〇〇事務所の名義を冒用した有形偽造であり、無印私文書偽造・同行使罪の構成要件を満たしている。

検察事務官に電話をして2015年12月25日に告訴状・告発状を再度提出すると伝える。すると24日に検事が共闘仲間にまた電話をしてきた。もはや妨害する気力も失せ、別人のように衰弱した声。〇〇事務所は実在し、作成者本人の請求書があると虚偽を述べたのは彼女。有形偽造の可能性を消そうとした彼女。

有形偽造の可能性を消そうとして、検事は逆に有形偽造であることの証拠を共闘仲間に与えてしまった。あれは虚偽であるなどと今更言えるわけがない。暴力行使の被害者の被害体験に検事の想像力は全く及ばなかった。書き直された告発状には、〇〇事務所が実在するとの情報が検事から提供されたとあった。

2015年12月25日、検事は帰宅したとのことで事務官が告訴状・告発状を受け取った。自分は受理担当検事なので、捜査することが決まれば別の捜査担当検事が行うと12月9日に彼女は明言した。約二ヶ月半後の2016年3月上旬、捜査は担当しないはずの受理担当検事である彼女から不起訴処分が通知された。

彼女がどれほど苦悩し、恐怖の日々を過ごしたかは想像できる。受理しないことも受理することもできず、受理したふりをして二ヶ月半放置し、仕方なく自分の名前で不起訴処分を通知してきたのだ。犯人隠避と証拠隠滅、公務員職権濫用に虚偽公文書作成‥‥自分の行為が該当する罪名は熟知していただろう。

待つ間、支部長に宛てて上申書を書き送った。首謀者は自分を絶対善として生きることを自分に強制し続けている。これは大変危険である。悪=例外を内在させていることが人間の条件であり、例外を切除してしまったら逆説的にも善悪の彼岸に赴き、自己言及が欠落して全悪行が絶対善に包含されてしまうと。

上申書は検事の元に留め置かれ、支部長には一通も届かなかった。不起訴処分不服申立書を東京高検検事長に提出することに決め、更に彫琢した告訴状と告発状を同日に最高検に提出することにした。裁判官と検察官検事を告訴する二通の告訴状は、民事と刑事の連動を核心に据え、相互参照できるようにした。

2016年3月18日。前日にアポを取って共闘仲間たちと霞が関の検察庁に赴いた。1階の面談室で待っていると、最高検の刑事部事務課の女性と検察事務官と思しき若い男性が降りてきた。後者は名前を名乗らず。約50分、大規模な事件を圧縮し可能な限り明晰に伝えた。某組織の名前を聞くなり女性は驚愕した。

しかし、女性は演技の痕跡を驚愕した顔から完全に消すことができなかった。二人ともメモを取りながら極めて深刻そうな表情を浮かべていたが、その極端な深刻さにも微かな不自然さが宿っていた。男性は下を向いてメモを取るばかりで、一度も顔を上げて被害者たちを見なかった。不信感が静かに募った。

最後に立川支部の検事について苦情を述べ、彼女の出した不起訴処分に不服申立てをしたいと言った。その宛先は最高検ではなく東京高検であると女性が言い、手続きをするために男性が席を立ち、長い間戻ってこなかった。漸く戻ってきた男性の背後から東京高検の者であると自称する男性二人が入ってきた。

二人の男性も名前を名乗らず。彼らが入ってくると最高検の二人は席を立ち、膨大な証拠資料を抱えた女性が言った、「これだけの分量ですから処分には三週間以上はかかるかと」。「処分? 処分て何ですか?」と被害者が訊くと「ああ、あの、扱い方のご連絡をするということです」と慌てたように答えた。

東京高検の者であると自称する二人の男性は、事件については話していないので全く深刻ではなく僅かに「愉快」そうな雰囲気だった。「受理担当検事が処分を出すことなんてできるんですか、捜査を全くしないで。受理したら捜査は開始しなくてはならないはずですよね」と訊くと、意外な答えが返ってきた。

「受理担当検事が受理したあと、捜査をせずに不起訴処分を出すことだってありますよ」その答えに衝撃を受けた。男性は続けた、「それでどうして欲しいんですか? 捜査をするように立川支部に言えばいいんですか?」。「いえ、立川支部の検事について調査して欲しいんです。違法なことやってるから」。

そう言って、被害者たちは持参した「不起訴処分不服申立書」を提示し、立川支部の検事の言動や態度の異様さを慌ただしく彼らに話した。「分かりました。これは東京高検検事長に渡しますね」と彼らは言った。しかし、彼らが渡したのは東京高検検事長ではなく、最高検の幹部検事であったことが後に判明。

そして、鑑定書の原本を含む膨大な証拠資料と告訴状・告発状を、最高検の二人が真っ先に(おそらく秘密裏に)手渡したのも最高検の幹部検事だった。鑑定書の原本は財物なので、後に返却することになるとしても、検察庁の内部で窃盗が行われたと言うしかない事態。アポを取った時から練られていた計画。

偽造CD-Rを自費で鑑定に出して以降、某組織の犯罪と共謀者である各公的機関の犯罪の隠蔽の度合は、こうして極端に激化する。だから、立川支部の検事による悪質な告訴・告発妨害は、最高検に告訴・告発を行ってから被害者たちがまもなく被ることになる告訴権・告発権の剥奪の序曲だったということだ。

最高検に行った日から12日後、最高検から処分通知書が届く。「告訴状とその他の資料は東京地検特捜部に回送しました」、書いてあったのはそれだけ。「三週間はかかる」と言っていたのに。翌日、その音を聞くと全身が硬直し脂汗が滲み出すようになったインタフォンが激しい音を立てて何度も鳴らされた。

軽い吐き気を覚え、身体の重さを感じながら玄関のドアを開けると、「有斐閣  六法全書」と書かれた大きな段ボール箱を配達員から手渡された。差出人は東京地検特捜部特殊直告班。段ボール箱には最高検に提出した全証拠資料が詰め込まれていた。段ボール箱の暴力的な送りつけはまるで凶器のようだった。

法による保護の外に、法律の適用範囲外に、無法治状態におまえを追放するという恫喝の具現化だった。「六法全書」と書かれた段ボール箱がそう恫喝していた。書面が同封されていないことが、段ボール箱の凶暴さを際立たせていた。同時にそれは、自分たち自身も無法治状態に逸脱するという宣言だった。

しかし、それは被害者を滅ぼし尽くすための暴力の津波の予兆であった。翌日、本格的な津波が襲いかかってくる。再びインタフォンが騒々しく鳴り、東京地検特捜部特殊直告班が今度は最高検に提出した告訴状二通を、証拠資料とは別に返戻してきた。一日ズラすという時間差攻撃により暴力は二乗化された。

そしてこの日を境に被害者は遂に無法治状態に決定的に排除され、追放される。特捜部が、自分たちも法的機関の内部にいながら法律の適用範囲外に越境するという宣言として、二通の告訴状とともに告訴権を剥奪する旨を伝える書面を送りつけてきたから。救済へと繋がる最後の窓口の悪意ある暴力的な閉鎖。

「今後、この事件に関する文書等送ってきても、刑事訴訟法に規定される扱いをもう二度としません」、これが告訴権剥奪の趣旨。一方、最高検からの通知書が送付される直前に「私電磁記録不正作出・供用罪」の告発状を最高検に郵送した共闘仲間の自宅には、2016年4月14日に同内容の書面が送られてきた。

被害者の場合は、偽造CD-Rの隠蔽のための民事と刑事の連動を核とした二つの告発状の返戻とともに、この違法書面が送りつけられた。共闘仲間の場合は、偽造CD-Rの裁判提出を刑法犯罪としてダイレクトに告発する告発状の返戻とともに、同内容の違法書面が送りつけられた。これが意味することはただ一つ。

某組織が民事裁判に偽造CD-Rを提出し、他方で告訴されていた捜査機関に協力させ、民事裁判と連動させる形で偽造CD-Rの作出・供用を完全隠蔽したこと。いや、単に某組織が偽造CD-Rを民事裁判に提出し、不正に勝訴判決を出させたこと。この犯罪が厳正に捜査されて公表されたら、某組織は滅び去るからだ。

某組織だけではない。偽造CD-Rの作出・供用を知悉していながら完全隠蔽に協力した裁判官たち、検察官検事たち、弁護士たち、そして文科省の官僚たちも社会的生命を絶たれるからだ。だから組織犯罪者たちは、被害者と共闘仲間を滅ぼし尽くす神的暴力のパロディを開始する以外にどんな選択肢もなかった。

今度こそ絶望の大海原に叩き落とされ、幻想の未来の空気が遂に完全蒸発した真空の中をそれでも前へ前へと被害者たちは進んだ。被害者たちの周りに、人間世界から被害者たちを隔絶する巨大な壁が立ちはだかった。被害者たちを犠牲にし、自分たちを欺いて、通常状態の外観を某組織は辛うじて保っていた。

「もし同じことをされたらどうする?」とある人物に尋ねてみた。訴訟を勧めた人物。「何もしません」と答えた。組織の存続のために喜んで犠牲になります。不正の隠蔽はその生を組織に依存している人々にとって必要悪だからです」というメタメッセージが聞こえた。その人物も組織に生を依存していた。

こんなメタメッセージも聞こえた、「何で早く組織の生の存続のためにおまえが死なないんだ。早く死んでくれよ。そうしないと自分の生が不可能になってしまう。自分が死ななくちゃならなくなる。そんなの絶対に嫌だ、不当だ」。その人物も組織に帰依し、自己言及を忘れ、自己の生に没入し夢中になった。

某組織と共謀者たちが被害者と共闘仲間に対して行使した、依然として行使し続けている最大の加害行為は何かというと、人々が生得の権利のように享受している「よりよき生への配慮」、「自己への配慮」を全面的に妨害・阻止し続けているということだ。その暴力的影響は生の全的破壊としてまだ進行中だ。

悪質さの強度を高めながら直接的間接的に反復行使される暴力は、被害者を滅ぼし尽くすまで停止しないという神的暴力の性格をパロディであっても帯びてしまったため、生の全的破壊としてその影響が及び続けるのは当然のこと。しかし、その暴力の性格は加害者も滅ぼし尽くすまで停止しないということだ。

なぜなら加害者たちが社会的同一性の根拠を置いているのは神話的暴力、即ち法的秩序・象徴的秩序である以上、彼ら彼女らが被害者に対して行使し始めてしまった神的暴力のパロディは、彼ら彼女らの社会的同一性の根拠を突き崩すようにしか作用しないからだ。法の専門家・執行者=法の侵犯者という形で。

法の専門家たちは自分たちがもはや信じていない、あまつさえそれを侵犯し解体してさえいる法を一体どんな顔で学生たちに教えるのか。そもそも教えられるのか、法の不在に身を浸し切った境地で。法の執行者たちは潜在的な「犯罪者」として一体どんな顔で他者の運命を決定し、被疑者に法を適用するのか。

被害者に殺人的暴力を行使し続ける法の専門家に法を学ぶ学生たち、法の執行者から死刑求刑される被告人は何という狂気の空間に身を置いているのか。法の専門家は被害者を陥れて冤罪を着せ偽装解雇した時から、法の執行者は法の専門家の犯罪隠蔽に協力し始めた時から、法的秩序の外に自己追放を図った。

法的秩序の内部にいながら無法治状態へと、加害者たちは象徴的に、かつ不可逆的に投身自殺を図ったのだ。法の専門家は法の侵犯者へと、裁判官は剥き出しの生の発現者へと、検察官検事は法を内部から破壊する者へと、見えない境界線を超えて投身自殺を図った。法の概念そのものを破壊する未曾有のテロ。

反則タックル事件の日大も不正入試事件の東京医大も、たとえ法を侵犯していたとしても、司法や司法行政の内部に侵入して法の適用そのものを停止させるなどということは絶対にしないし、したくてもできない。法の存在は彼らにとって前提であり、法の概念の破壊乃至消滅など想像的に恐怖するだろう。

ところが某組織は文科省の官僚に、裁判官に、検察官検事に次々と反則タックルを行わせ、それも被害者に致命傷を負わせようという明確な意図の下に行わせた。被害者を滅ぼし尽くし、自分たちの犯罪を歴史から抹消削除しようとする組織犯罪は、法の概念を破壊しつつ空前絶後の規模にまで膨れ上がった。

2017年7月から9月の間に全国の検事正や支部長など幹部クラスの検察官検事が相次いで辞職していった。その高潔な雰囲気に期待していた東京高検検事長が突然辞職し、ノルウェーの大使に転身した時には茫然自失した。無法治状態に汚染され、形骸と化した検察庁から、日本から限りなく遠く離れてしまった。

告訴権・告発権を剥奪されたのち、2016年4月から5月にかけて被害者と共闘仲間は東京高検検事長に宛てて二通の嘆願書を送付した(同年9月5日に検事総長に就任する検事長)。不起訴処分不服申立書の行方も不安だったし、法的秩序を根底から瓦解させる某組織の犯罪の前代未聞の危険性を伝えるためだった。

2016年5月28日の某イヴェントで被害者のレクチャーが「絶滅」になったのはこういう経緯に因る。同年6月14日、共闘仲間の元に東京高検から封書が届き、検事長に宛てて送付した二通の嘆願書がどんな根拠もなく返戻されてきた。同時に不起訴処分不服申立書は現在検討中とあった。騙しの手口が再開された。

同じ頃、提出した全資料を返却して欲しいと別の共闘仲間が立川支部に電話で依頼した。すると、現在東京高検の調査を受けているはずの検事から電話があり、全資料は返却できないと言った。「せめて鑑定書だけでも」と懇願すると「じゃあ鑑定書はもうこの世に一冊もないんですね!」と嬉しそうに言った。

鑑定書は某法科学研究所に注文すれば何部でも発行して貰える。検事のくせにそんなことも知らないのかと被害者たちは呆れ果てた。なぜあんなに元気なのか、歓喜に満ちた声を出せるのか、彼女の状況に何一つ変化がないように思われるのはなぜなのか。不吉な可能性に喉元を締め付けられた。それは今夜に。

2016年7月9日。不吉な可能性は現実となった。処理結果通知書なるものが被害者たちの自宅に送付されてきた。「不起訴処分不服申立ては認められません」、根拠なくそう記されていた。東京高検検事長の決裁印があり、担当検事の名前も記載されていた。期待を長引かせて突然突き落とす悪質計画またしても。

真実らしく見せかけようとする作為性の臭気が通知書から立ち上っていた。同封された「被疑者一覧」が自然さを装う外観の不自然さを補強していた。某組織の首謀者たち、裁判官たち、検察官検事たち、加害者に仕立て上げられた理事長たちの名前も列挙されていた。一切何もしなかったことが透けて見えた。

立川支部の検事が何事もなく元気でいられるのは至極当然だった。受理したと見せかけて二ヶ月半も放置しておき、待つことの宙吊りの苦痛を散々味わわせた挙句、立川支部の検事は不起訴処分を通知してきた。東京高検の検事はその所業を反復した。期待を高めるだけ高めておいて断崖絶壁から突き落とす。

苦痛に満ちた待つことの無時間に散々宙吊りにし、それから不意に絶望のどん底に叩き落とす。長い待機の果てに突然墜落させる。その衝撃は次第に激しくなり、被った外傷の回復は次第に遅くなり、遂には決定的に不可能になり、死への極度の接近を毎日意識させられるようになる。実に巧妙な自殺への誘導。

2012年4月11日の暴行、暴力行使の果ての偽装解雇、文科省密室での暴行、民事と刑事の連動による無法地帯への有無を言わさぬ排除、第一審の殺人未遂判決、第二審における救済不在の確定、「強要罪」の不起訴処分、立川支部による再度の偽装不起訴処分、騙しが目的の不服申立て。一連の自殺誘導の過程。

或いは、実に手の込んだ間接殺人の過程。生物学的にはまだ生きているから、一連の間接殺人未遂の過程。立川支部の検事から告発妨害の電話を受けた時、共闘仲間は「私はもう自殺するしかありません」と言った。すると、検事はわざとらしく同情めかした声で「死なないでください」と言った。凄い会話だ。

犯罪者たちの術策に嵌り、或いは思想的な抵抗力が皆無で、某組織の首謀者たちが信じ込んだように被害者が無力でか弱かったら、この連続的な暴力行使を生き延びることはできなかった。「何もしません」と言った人物が願ったように死んでいた。夥しい犯罪は完全隠滅され、某組織は何も変わらなかった。

某組織にその生を依存している者たちは、前代未聞の犯罪の犠牲になり死んで欲しかったと思うだろうか。某組織とその共謀者たちが実行した未曾有の狂気の犯罪が、歴史の闇に葬り去られていた方が良かったと思うだろうか。残念ながらそれは不可能だ。出鱈目で狂人たちの世界に生きることを望まない限り。

某組織にその生を依存しているのでなくても、仮にそう思うとしたらそれはなぜか。被害者の存在が、彼ら彼女らの抱いている「正常で健全で善意に溢れた」幻想の世界の皮膜を引き裂いて、彼ら彼女らが見たくない世界の内臓を見せるからか。ならば、世界に溢れ返る不正や倫理の不在をなぜ非難するのか。

世界から一切の不正や暴力が消滅することを本当に願っている?  そうではない。不正や暴力が存在し続けることを願っているのだ。世界を破壊してしまう「例外」が存在し続けることを。なぜなら、世界の存立と存続を可能にしているのは世界に内在する、世界を破壊してしまう他ならぬ「例外」であるから。

あなたの内部にもあなたを破壊してしまう「例外」が、死という「例外」が宿っているように。その「例外」のお陰であなたはあなたであることを再生産することができ、生き続けることができる。ところがこの組織犯罪は世界から「例外」を抉り取り「例外」を無化してしまうという前代未聞の暴力なのだ。

『暴力批判論』でベンヤミンが提示した二つの暴力のうち、神話的暴力は「例外」を存続させる暴力。つまり法の暴力。「例外」が消滅してしまったら法は存在理由を失い「例外」に依存していた法も消滅する。或いは完成してそれ以上存在する必要がなくなる。他方、神的暴力は「例外」を滅ぼす暴力である。

「例外」を滅ぼす前に、神的暴力は「例外」に依存することで「例外」にはならなかったあらゆる存在を「例外」に変容させる。いわば、世界を「例外」だらけにする。それが、神的暴力は滅罪的で致命的であり、全てを滅ぼし尽くすまで停止しないと言われる所以だ。某組織は神的暴力のスイッチを押した。

存続していきたいという欲望を実現しようとして、その欲望に反するスイッチを押したのだ。だから、神的暴力のパロディであると言う。某組織は被害者を滅ぼし尽くしたい一心で、「例外」からの冷徹な距離を存在理由とする神話的暴力を「例外」に変容させてしまった。自らの罪を滅ぼせば自らも滅びる。

某組織は法を空洞化させ、法を法の不在と一致させた。「意味なく効力を持つ」法にショーレムが与えた表現は「啓示の無」であった。しかし某組織は「啓示の無」を更に無化し、懲罰的である神話的暴力の効力を停止させた。滅罪的な神的暴力の発動がどれほど恐ろしい事態を引き起こすか全く無知のままに。

自分たちの罪を罪として象徴化する法の効力を停止させ、そうすることで法そのものを法を破壊する「例外」に変容させてしまった後、首謀者たちは一体どのようにして法を教えるのか。「例外」を取り締まる神話的暴力としての法を。その概念を破壊する限りにおいて自分たちの罪を滅ぼしてくれる法を。

法が「例外」に変容させられた後、世界から「例外」が失われ、その結果あらゆる者が「例外」と化す。「意味の秩序の解体」が彼らの言語を大洪水のように襲うだろう。何を喋っても喋らないことと同じになり、アツィルートの律法のように「単なる文字の錯綜」を喋るか、或いは何も喋れなくなるだろう。

「例外」=欠如を喪失した者が世界を喪失するように、首謀者たちも自分たちだけで完結し、或いは自分たちだけが世界の全てとなり、世界は消滅して他者が誰もいなくなるだろう。人間であり続けたいという欲望は自分の罪を滅ぼしたいという欲望と抵触するので、非-人間であり続けることしかできない。

宇宙は閉じて、そこから供給していた彼らの欠如=剰余価値は二度と供給されなくなり、自分自身との絶えざる一致という拷問に耐えるしかなくなるだろう。未知の空気が二度と吸えない真空の中に自分を閉じ込めているしかなくなるだろう。自分の罪を滅ぼし、被害者を滅ぼし尽くすそれが唯一の方法だから。

この6年間、被害者と共闘仲間は某組織の加害者と共謀者の外貌の極端な変化を、直接間接に確認してきた。未知の空気、或いは自己言及の空気を吸うことの禁止が、どれほど凄まじい変化を相貌に刻みつけるかを確かめ、その都度驚愕した。「瑕疵ある者」に転落したら、恐怖の世界がたちまち蘇るのだから。

そして2016年12月6日。無限遠点に追放したはずの世界が、二度と蘇るはずのない外部の世界が、警察官の立ち入り捜査という形で突然押し寄せてきた。神的暴力のパロディは、滅ぼし尽くしたい相手が神的暴力の思想の探究者であり実践者であった場合は失敗する。限りなく低い確率だが、ゼロではなかった。

告訴権・告発権の剥奪という最強の防波堤がなぜ決壊したのか。某組織の首謀者と共謀者が知らなかったこと、それは神的暴力の思想を実践するための唯一の武器はエクリチュールであるということだ。それも、最大最強の防波堤を乗り越えて目的地に到達し、そこにいる人物を本当に動かすエクリチュールだ。

2016年8月。9月5日に検事総長に就任する東京高検検事長に宛てて、驚異的に長文の大抗議文を10日間ほどかけて完成させた。弁護士が書くような法的文書ではない。神話的暴力装置解体の危機を圧倒的な喚起力で読み手の内臓に直接伝える神的暴力書簡だ。弁護士の文章力ではそんな喚起力は望むべくもない。

民事と刑事の連動、告訴状・告発状の度重なる暴力的返戻、検事による執拗な告訴・告発妨害、検察庁自ら法治状態の外に逸脱することの宣言である告訴権・告発権の剥奪、不起訴処分不服申立の根拠なしの拒絶。法治国家であることを否定するこれら一連の暴力行使を知っているのかという糾問を連打した。

一連の暴力行使の内容、とりわけ不起訴処分不服申立書に基づく検討・調査の経緯を、論理的必然により東京高検検事長はよく知っていると断言した。同種の揺るぎない断言を畳み掛けた。知/非知は当人が知悉している。非知であるならば、検事長が排除された行為は当然違法であるという認識が出来する。

捜査のためと欺罔して高額の支出を強制。六法全書の段ボール箱に証拠資料を詰め込んでの暴力的な送り返し。暴言と虚弁を弄しての告訴・告発妨害。被害者たちに事実上「死ね」と命令している告訴権・告発権の剥奪。検事の権限の恣意的・暴力的な行使と、剥き出しの生の発現とは区別可能なのかと問うた。

某擬似捜査機関という無法地帯における極限的な人権侵害を容認・奨励するのみならず、民事訴訟に偽造証拠を提出しても黙認・看過される某組織は、法治状態の外部として存在することを国家によって承認されているのかと問うた。例外状態として存在することを承認されているならばそれはなぜかと問うた。

東京高検の検事が返戻してきた検事長宛ての二通の嘆願書の中で、当時最高検の某幹部検事が某組織の出身者であり首謀者たちの一人と同期であることを伝え、その幹部検事が贈収賄により一連の暴力行使の背後にいた可能性があると示唆した。それを改めて伝え、事実なら検察庁も例外状態であると指摘した。

法治状態を守ることが使命である検察庁が無法治状態と区別がつかなくなっている(某組織と地続きの)例外状態であるなら、被害者を殺すように要望した。法の効力が停止している例外状態であるなら、被害者を殺しても罪には問われないはずであると。間接的殺害計画の成就を待つより、その方が早いと。

本件大事件の規模は空前絶後であり、その前代未聞の悪質さは日本国全土に例外状態を拡大させる。どんな犯罪でも容易に隠蔽できるという先例を作ったのだから。全容解明に向けて直ちに独自捜査を開始しなければ、マスコミに全資料を開示し、人間世界から立ち去ることしかもう残されてはいないと書いた。

内容証明で送付するのに数万円を要した。それほど長文の神的暴力書簡。返戻はないという確信があった。ひと月もしないうちに、あれほど返却を拒んでいた鑑定書を返却したいので取りに来て欲しいと懇願、哀訴する電話が立川支部の検事から共闘仲間に頻々とかかるようになった。書簡への応答のように。

財物である鑑定書は返送できない。自主的に取りに来させないと窃盗になる。電話に出るのを止めると、弱々しい哀訴の声が留守電に入った。2016年9月5日、就任会見に臨んだ新検事総長は深い苦悩の奥から言葉を絞り出している印象。立川支部の検事から態度が豹変した電話がかかり始めたのもその頃だった。

某新聞のコラムで新検事総長はこう述べていた、「なぜ検事になったのか自分自身も含めて全ての検事に問いたい」と。この自己言及的発言こそ、約10日間殆ど不眠不休で書き上げた神的暴力書簡への応答であると確信した。立川支部の検事からの電話は、二通目の内容証明を検事総長に送付する契機となった。

二通目の内容証明を送付すると同時に、暴力的に返戻され続けてきた告訴状・告発状及び証拠資料を、簡易書留郵便で今度こそ検察庁の頂点に送付した。疑念の渦中にある最高検の幹部検事は、検事総長の就任と同時期に某地方都市の高検検事長に就任したため、簡易書留郵便は検事総長の元に無事到達した。

2018年7月25日。オウム真理教の残りの死刑囚の死刑執行の前日、検事総長は退任した。26日、水面下で捜査が続行されていることを裏付ける決定的な出来事があったため、4日後の29日に新検事総長に証拠資料を送付した。前検事総長に2年足らずの間に送付した捜査資料となる全て長文の書簡は15通に上った。

2016年9月5日に就任してから二年にも満たない。就任する直前に被害者からの神的暴力書簡を受け取った。本当はその時点で検察官検事を辞めてしまいたかったのかもしれないと思った。外交官に転身した元東京高検検事長のように。前検事総長は検察庁が潜在的に崩壊していることを完全に理解したのだ。

法と無法の境界など恣意的に移動していること、検察官検事の職権の行使と剥き出しの生の発現との間に区別などつけられないこと、法に超越的な根拠など不在であること。法的秩序の根幹である検察庁に例外状態が浸透していること。検察官検事の存在理由が消失したこと。これらを完全に理解したのだ。

これらのことを完全に理解し得る傑出した知性と倫理的な精神性を持った比類ない検事総長の元に神的暴力書簡は届いた。他ならぬこの検事総長の元に。この邂逅によって、被害者を滅ぼし尽くそうとして某組織が発動させた神的暴力のパロディは、某組織自身を滅ぼし尽くすように決定的に方向転換を遂げる。

そうしなければ、暴力を独占する国家の秩序が解体し、検察庁が崩壊してしまう。犯罪を隠蔽するために職権濫用を平然と行う「犯罪者」と検察官検事が同一存在になってしまっては。検察官検事の顔と、法的秩序を破壊する「例外」の顔の区別がつかない存在が絶えず潜伏する検察庁になってしまっては。

検察庁の内部に地縁・血縁のネットワークを無数の毛細血管のように張り巡らせ、検察官検事たちをいつどこで不分明地帯に引きずり込むか分からない某組織。そうして引きずり込まれた複数の検察官検事たちは、いつのまにか某組織の首謀者たちを中心とする反国家的組織犯罪集団の一員となってしまった。

国家の法的機関の内部に、法の執行者として身を置く反国家的存在。法の概念を破壊し法の中身を空洞化するのであるから、オウム真理教とは異なり「反国家的」の意味が非常に分かりにくく、分かりにくいが故にその危険性は測り知れない。国家秩序を全体的に、しかも不可視に解体の危機に晒す沈黙のテロ。

法の執行者に違法行為を犯させることで、国家の法的機関の内部に入り込んでいる外部を、某組織の首謀者たちを、外部と癒着した内部もろとも内部から切断しなくてはならない。検事総長に就任したからには、その大手術に着手するしかないと前検事総長は覚悟を固めたと思う。超越的根拠は不在であっても。

それでも伝え続けた。半ば某組織の徹底的な犯罪究明、半ば法の原理論に宛てた15通の書簡の中で。法は法と一致して完成してはならない。法の起源、即ち法措定暴力という原初の侵犯行為の記憶を法自身に内在する瑕疵として、剰余価値として保持しなくてはならない。それだけが法に「崇高性」を与えると。

即ち、それだけが国民に転移させる力、無条件に信じさせる力を法に与えると。下落させられ、残骸にまで貶められた法を崇高の位置まで再び引き上げて欲しいと。オウム真理教の死刑囚の早すぎる死刑執行は、沈黙のテロルによる国家秩序の解体を防ぐため、強力な転移の回復を図るためでもあったと思う。

従って被害者の仮説は、某組織が国家の各公的機関に属する者たちと共謀してこれほど大規模な犯罪を引き起こさなければ、オウム真理教の死刑執行までの時間はまだかなりあったというものだ。国家秩序を安定させる巨大な「例外」としてこの組織犯罪者集団を役立てるという約束、或いは予告だったと思う。

だから、残りの死刑囚の死刑が執行される日の前日に前検事総長が退任したことには深い示唆が込められている。「例外」だらけになり、全国に例外状態が拡大して国家秩序が解体する前に、あの反国家的組織犯罪者集団を、国家秩序を安定させられる唯一の巨大な「例外」として役立てるから、という示唆。

被害者が長文書簡の中で何度も書いたように、前検事総長は下落させられた法を崇高の位置に再び引き上げるために限界まで力を尽くし、出来ることは全てやり切ったのだと思う。大組織犯罪の全容解明を殆ど果たし、全面解決に至る後半の刑事手続は新検事総長に委ね、オウムの死刑執行に耐えて漸く去った。

なぜ沈黙のテロルと言う必要があるのか。法の概念を破壊するからだ。人間自体が法の産物であるからだ。だから、某組織と共謀者の犯罪は人間そのものを破壊する。或いは狂わせる。「生き残る」ことだけが剥き出しの目的となり、文化=教養による一切の妨害から危険極まりない形で解放されてしまう。

極秘捜査が徹底され、なぜ公表されないのか。正気を失わせ、暴動が起こる危険性すらあるからだ。法の概念が破壊されるとは、それへの転移乃至尊敬によって人々に規範への適合を促していた法の世界の中心的人物たちが、法から無法への境界を容易く侵犯してしまうということ。法の教師も裁判官も検事も。

法の概念が破壊されれば、それによって形成されていた虚構の象徴的秩序も破壊される。現実は前提として初めから存在しているのではない。リアリティは虚構の秩序からの転落可能性としてのみ知覚される。虚構の秩序が壊れたらリアリティも壊れる。沈黙のテロルは虚構の秩序を、従って現実を破壊する。

厳密に言えば、虚構の秩序の現実有効性を破壊する。リアリティを持ったものとして虚構の秩序を構造的に知覚することができなくなる。某組織も裁判所も検察庁も。人々は何処かにあって安心させてくれていた想像的な超越、社会の中心乃至基盤を決定的に喪失する。沈黙のテロルの効果の真の恐ろしさだ。

その最初の犠牲になったのが、犯罪にはどんな関与もしていなかった元東京高検検事長を始めとした検察官検事たちだ。彼らは生まれつき属性として検事であったのではなく、検察庁が現実有効性を持っている限りにおいて、検事としての社会的役割を演じていたに過ぎない。役を演じる象徴的舞台が消滅した。

前検事総長に宛てた書簡の中で、沈黙のテロルの恐ろしい効果を何度もアウシュヴィッツとのアナロジーで語らざる得なかった。人格とその規範、生と規範の距離が撤廃され、どんな威厳を持った妥協の余地も残さなくなる。法=規範への適合の終焉、尊厳の倫理の終焉を彼らは自己破滅的に実践していると。

法の守護神のように人々が信じていた首謀者たち、裁判官たち、検察官検事たちが自分たちの全犯罪を完全隠滅するために、被害者の間接的殺害を目論み、悪質極まりない殺人的暴力を行使し続けたという事実。この事実が人々の中から弁証法的に媒介された距離を撤廃する。沈黙のテロルの恐ろしさの所以だ。

法の守護神は法の侵犯者と同一存在、裁判所は裁判所の残骸と同じもの、検察庁は検察庁の残骸と同じもの。知覚の変容が抗い難く起こり、犯罪実行や剥き出しの生の発現に、人々は無感覚・無抵抗になるだろう。だって裁判官が、最高検の元幹部検事が犯罪隠蔽のために間接的殺害を計画し実行したのだから。

こうして法は法の不在と、法の執行は法の侵犯と全く区別がつかないものとして全国に浸透し、人々の無意識の禁止と抑制を撤廃して、他者の他者性に対する配慮と想像力を涸渇させる。犯罪実行への恐怖、滅茶苦茶な暴力行使の代償を抑止力として機能させる必要はなくなる。沈黙のテロルのそれが伝播力だ。

繰り返すが、その前代未聞の測り知れない恐怖がオウム真理教の早すぎる死刑執行を要請した。裁判官、検察官検事も含む空前絶後の大組織犯罪を公表してからでは、オウムの死刑執行は二度とできなくなるという絶望的な判断も働いたと思う。法の守護者たちに宿る吸血鬼に法治国家の楔を打ち込んだのだ。

2016年8月19日。前検事総長に最初の大抗議文を送付した直後、もう一通の長文書簡を作成し、それも内容証明で送付した。宛先は労働審判の時には既に理事長を解任されていた人物。偽装解雇や裁判への偽造証拠など某組織の違法行為を帰責されている人物。危急存亡の秋が更に切迫していることを伝えた。

首謀者たちの犯罪に関する詳細な事実経緯と、長期間に亘る凄絶な被害実態を伝えた。偽装解雇と偽造証拠提出について完全なる無関与であることを某組織の信頼のおける人物に限りなく慎重に証言して欲しいと伝えた。歴代三理事長が授権を与えていない以上、再審請求の絶対事由を満たしている旨も伝えた。

2017年1月25日。その人物が会長を務める同窓会組織の機関紙が刊行され、某組織が直面している未曾有の危機的状況に対し、その人物が吐露していた心情があまりにも悲痛であったので、彼は全てを理解していると確信した。立ち入り捜査も既に行われていた。彼は恐らくその時の理事長に相談したと思った。

その理事長は第二審における偽造証拠提出を帰責されている人物。自分の名前を冒用され、首謀者に被害者宅への脅迫状を送られた人物。同機関紙の中で、彼は一種の改革委員会を組織して役員の倫理規定を制定し、同年6月頃に文科省に報告書を提出する旨を発表。首謀者たちが処分される可能性を窺わせた。

民事の再審請求は針の穴を通すほど狭き門。ところが、被害者が提起した訴訟に関しては複数の再審事由を満たしていた。偽造証拠の提出は勿論、裁判官の職務上の罪も刑事裁判で有罪になれば直ちに再審事由となる。しかし、三人の理事長が訴訟行為を行う授権を代理人に与えていないことは絶対事由なのだ。

首謀者たちが処分される可能性があるなら再審などやらずに和解した方が早いし、その方が某組織の名誉にも疵が付かない。そう考えた被害者は5月に入った頃、理事長に宛てて謝罪と和解を求める内容証明を送ろうとした。その頃、首謀者の一人の欠勤理由が「本務公務」とあり、異変の発生を伝えていた。

それは首謀者の一人が処分を受けた可能性を伝えるものだった。しかし理事長に宛てて書簡を作成しようとした矢先、被害者の意思は巨大な悪意のような事態の激変によって突然粉砕された。2017年5月下旬に開催された理事会で理事長は任期満了を理由に突如解任、代わって常任理事の一人が理事長に就任。

内部監査室公益通報の統括責任者だった人物。文科省の重要な委員を歴任している人物。更に若い弁護士が死亡した某法律事務所と深い関わりがある人物。公益通報で窃盗の被害に遭ったこと、文科省密室で暴行を受けたこと、某法律事務所から法律相談を拒まれたこと。全てこの人物に関係があると直感した。

某組織の犯罪の被害者は、彼にとって依然として抹殺したい存在であったに違いない。前理事長が制定した役員の倫理規定には、内部監査室公益通報の統括責任者に関する懲罰規定も含まれていた。文科省に報告書を提出される前に前理事長に退任して貰い、自分が就任する喫緊の必要があったのかもしれない。

文科省の重要な委員を歴任してきたことを思えば、2015年11月4日に某組織に自浄作用を促すように働きかけると約束した官僚からの連絡が直ぐに途絶えたことにも納得がいった。刑事捜査の対象になっても、某組織の犯罪の完全隠滅を謀るしか道はないのだ。そのために彼は自ら理事長になったのだと思った。

某組織の最後の良心であった前理事長まで立ち去った。理事長が交代したことにより、被害者の間接的殺害計画は持続していると言うしかなくなった。前理事長に宛てて謝罪と和解を求める書簡を書くと、前検事総長に何通目かの書簡の中で伝えたばかりだった。事態の急変を告げる書簡を直ちに送付した。

文科省高等教育局私学部の二人の官僚に宛てても、組織犯罪の絶頂で某組織が告訴権・告発権を剥奪させたことや、彼らと新理事長との関係に対する深い疑惑を伝える書簡を送付した。違法行為の存在を知っているなら告発しないと犯人隠避になることも伝えた。文科省宛ての書簡は同時に最高検にも送付した。

最高検にも送付することは文科省宛ての書簡に明記しておいた。隠蔽できないように。二人の官僚はもう辞職しているだろう。その場合には高等教育局局長か私学部長が読むだろう。書簡を送付してひと月後、高等教育局長は別の人物に交代した。一方、新理事長は就任した途端表舞台から姿を消してしまった。

文科省に宛てて書簡を送付する前に、某組織と無関係になった前理事長に長文の書簡を内容証明で送った。首謀者たちと共謀者たちによる、犯罪を歴史から抹消するための被害者の間接的殺害計画、その悪質極まりない実行の経緯ついて詳細に知らせた。授権を与えていないことを証言して欲しいと頼んだ。

既に国家の捜査機関による刑事捜査の対象となっている以上、某組織の首謀者たち・協力者たちは新理事長体制の下、国家に逆らう組織犯罪者集団として新たに誕生したと言うしかなかった。関係の有無は知る由もないが、約ひと月後、2017年6月21日に改正組織犯罪処罰法が公布され、翌7月11日に施行された。

「強要罪」の被疑者であった期間の2014年10月に副学長になった人物、前理事長の名義を冒用して被害者に脅迫状を送りつけてきた人物に関する情報は、2017年4月以降、皆無に近いほど出なくなった。新理事長に関する情報も、某組織には理事長は不在であるかのように全くと言っていいほど出なくなった。

2017年10月1日に某組織では学長を選出する学内選挙が行われ、2012年7月に被害者に対し狂気の沙汰と言うしかない名誉毀損を行った人物を、某組織の選挙人たる教職員たちは選出した。28日には理事会と評議員会が開催され、賛成少数でこの人物の学長就任は否決された。元理事長は評議員の一人であった。

某新聞には二人の対抗馬の名前が掲載された。一人は2012年4月11日に強要罪が実行された時、某擬似捜査機関の委員長であった人物。もう一人は被害者の請願書の受取を拒絶した前学長。某新聞は、同窓会組織の会長でもある元理事長と学長就任を否決された人物との対立構造を「紛争」として解説していた。

元理事長が2012年に理事長を解任された本当の理由は何か。中学不正入試事件で、合格を取り消した学長の行為が名誉毀損に当たるという第三者委員会の結論に鑑みても、生徒に損害を発生させていない元理事長が解任されるほど非難の対象になるのは不自然だ。その影響力を削ぐ必要があったのではないか。

火急の必要の中には、被害者の偽装解雇と不正な訴訟行為を帰責させることが含まれていたのではないか。元理事長も提訴した。被告代理人を務めたのは、被害者の法律相談を拒絶した某法律事務所の弁護団。元理事長の訴訟は被害者の訴訟に酷似していた。本人・証人尋問を始めとした事実確認は省略された。

不正入試事件が尾を引いていて、それが学長就任の否決の理由であると殆どの新聞は報道した。某新聞は評議員の一人である元理事長の理事会に対する影響力を示唆していた。真相は知らない。2012年7月、元理事長も学長も措置勧告を行なわず、手続き一切無視で偽装解雇を強行したことが問題なのだ。

某擬似捜査機関のガイドラインには、教職員の解雇には理事長又は学長の措置勧告が必要と明記されている。そんなものは一切なく、元理事長名で解雇予告通知がいきなり送り付けられてきた。その元理事長も約二ヶ月後に解任された。稟議書には元理事長の決済印だけがなかった。元理事長は蚊帳の外だった。

当時の学長である現在の学長は、従って被害者を全く知らず、被害者の学識も思想も教養も何一つ知らず、誰だか知らない人間に対して狂気の蛮行と言うしかない名誉毀損を行ったのだ。自分の正気を危険に晒しかねないかくも野蛮な人権侵害を実行に移したのはなぜか。この問いを被害者は必ず突きつける。

間接的殺害計画が既に作動し始めていたことは確かだ。恫喝の主、ロックアウトや電源遮断を始めとした暴力行使の限りを尽くした人物、何よりも被害者を陥れた人物と現在の学長が共犯関係にあったことは明らかである。偽造CD-Rを鑑定に出されては困るわけだ。一切の暴挙を正当化する根拠が消失するから。

学長就任否決という異例の事態を承け、混乱を早期解決するようにという文科省からの介入があった。それでも理事会は学長選についての判断を相当長い間先送りにしていた。2018年4月22日に漸く学長選出のための学内選挙が再び行われ、再び同じ人物が選出された。同選挙の実情は甚だしく不透明で不可解。

2018年5月26日に開催された理事会と評議員会で、2012年当時の学長が今度は否決されずに再び学長に就任することが決定された。最早どうやっても取れない責任を取らせるため、誰も立てない矢面に立たせるため、それ以外のどんな理由も思いつかなかった。就任以後、社会的に動いた形跡は微々たるものだ。

2018年6月1日、改正刑事訴訟法の司法取引制度が施行された。偽造CD-Rを鑑定に出された組織犯罪者たちの犯罪は、被害者たちから告訴権・告発権を剥奪するという前代未聞の規模にまで拡大した。同年4月24日に最高検の元幹部検事が某組織を訪れ、講演会を行った。共闘仲間が遂に彼と直接的に対峙した。

被害者も行きたかった。最高検の元幹部検事と対決したかった。他大学の授業があり涙を飲んで断念。共闘仲間に全てを託すことにした。「どなたでもご参加できます」と公式HPにあった。地方都市の高検検事長を2018年1月に辞職したその男は弁護士となり、2月上旬から都内の某法律事務所に勤務していた。

その法律事務所の名前を某組織と懇意にしている法律事務所の一つとして年度始めの挨拶の中で理事長が紹介していた。動画の中で理事長がその名前を口にした時、被害者たちは驚愕した。某組織と最高検の元幹部検事がその法律事務所を介して親密な関係にあることが判明したからだ。被害者たちは確信した。

最高検の元幹部検事の男と某組織の贈収賄関係を洗い出すために、講演会を口実にその男が某組織に行くしかないように画策したのは検察であると。講演会の場所を提供した某組織の者たちは検察に協力しているのであると。共闘仲間が満席の会場に入ると、その男と某組織の者と共に検事が実際に姿を現した。

若い女性の検事で某組織の出身ということだった。しかし彼女が検事であると判明したのは、その男の紹介をしたのが彼女であったからだ。某組織の者は彼女を紹介し、彼女にその男を紹介させた。自分では紹介しなかった。その男を紹介することを除いては、現職の検事が会場にいるどんな必然性もなかった。

その講演会は刑事捜査の一貫として行われたのだ。最高検の元幹部検事は百も承知で、断るという選択肢がなかったために来るしかなかったのだ。年度始めの挨拶でその男の勤務する法律事務所の名前を挙げた時、恐らく理事長も検察に協力していた。その理事長を始め首謀者たちは誰一人会場に現れなかった。

ICレコーダーで講演会の録音音声全編に被害者も耳を通した。よく透る澄んだ声に誤魔化されそうになるが、話し方は粗雑で断片的、不明晰で不安定だった。語彙も表現力も乏しく、内容も平板で単調だったが、語調は一貫して乱暴だった。検事として経験した三つの事件について語ったが、触発力は皆無同然。

とはいえ、極めて重大なことを三つ語った。一つ目は、2012年から2014年まで東京高検次席検事であったこと、全国の検事の人事を自由に操れるのはこの役職であること、全検事の家族や業績を総把握していること。民事と刑事の連動により、被害者が限界的な苦痛を味わわされていた期間そのものであった。

鑑定に出すと被害者を延々と騙し続け、時効直前に「強要罪」の被疑者全員を不起訴処分にした二人の検事が、この最高検の元幹部検事に生殺与奪の権を握られていたことが判った。この男の命令に黙従する以外に、二人の検事にはどんな選択肢もなかったことが判った。告訴・告発妨害をした検事も同様だ。

二つ目に、検事には起訴裁量権があり、たとえ証拠があっても不起訴にできるのだが、その特権が醍醐味なのだと耳を疑うようなことを語った。証拠があっても、恣意的に不起訴にされては被害者は堪らない。この言説には、某組織と自分を含めた共謀者たちの犯罪を正当化しているようなニュアンスがあった。

三つ目に、検察と警察では能力と経験が違う、扱った事件数も20倍であると語った。警察を露骨に馬鹿にしているようなことを語った。このことに限らず、最高検の元検事の語りの特徴は軽薄に自慢話ぽいことで、傲岸不遜かつ幼稚であるということだった。しかし口調が乱暴であっても全体的に弱々しかった。

検事としての過去の自分史を語ってるいるのに、それを自然に所有できず、まるで他人事のようにしか語れないという印象。彼の語る言葉と語られる過去の経験との間には、決して埋められない乖離があると感じた。検事であるにも拘らず、その職責に完全に反することをしてきた記憶が生み出す恐ろしい乖離。

講演が終わり、質問の時間になった。共闘仲間は敢然と立ち上がり「〇〇〇〇さんにお聞きしたいことがあります!」と強い口調で言った。「とある大学で退職強要が行われました。被害者の非常勤講師の方は偽装解雇されました。その方が提訴すると、大学は偽造録音媒体と偽造反訳書を提出してきました」。

更に続けて「その偽造反訳書の中でさえ、非常勤講師の方のことを退職強要した人物は寄生虫と呼んでいるのです」。すると「個別具体的な案件に関する質問にはお答えできません」と言われたので、共闘仲間は持参してきた告訴権・告発権を剥奪する旨が書かれた書面を朗々と読み上げ始めた。大聴衆の前で。

すると、某組織の人物が突然小走りに最高検の元検事に接近してきてその耳元で何事かを囁いた。次の瞬間、最高検の元検事に驚異的な異変が起こった。それまで辛うじて身に纏っていた偽物のオーラが一瞬にして剥がれ落ちた。最高検の元検事の外観が完全に崩れ落ち、「犯罪者」の剥き出しの姿が露出した。

某組織の人物が検察に協力していたとしたら、一体何と囁いたのか。「あの人が読んでいる書面、あれは大変マズいですよ。あれは先生が送られた書面ですよね。あの人と〇〇さんに。〇〇さんもこの中にいると思いますよ。気をつけて、慎重に振る舞ってください」、大体このようなことを囁いたのだと思う。

最高検の元幹部検事は講演の間ずっと上気しているように赤面していたと共闘仲間から聴いた。彼は恥じていたのだと確信した。「引き受けることのできないもののもとに引き渡されること」とアガンベンが定義する恥じることの主体であったのだと。その赤面は限界に触れられ続けていたことの証であると。

後日CD-Rとともに講演会で生起した一切のこと、及び被害者による講演内容の読解を記した長文書面を前検事総長に送付した。アガンベンの有名な一節も送付した。「恥ずかしさにおいて、主体は自分自身の脱主体化という中身しか持っておらず、自分自身の破産、主体としての自分自身の喪失の証人となる」。

元幹部検事の講演会に被害者の共闘仲間が現れたことが某組織に伝わった。首謀者たちにも伝わった。2018年6月20日に講演会が再び開催されると公式HPに予告が載った。講演者は家族を殺害され、自身も殺害されかけたという最も残虐な犯罪の被害者だった。「どなたでも参加できます」とまた記されていた。

但し今度の講演会は被害者の授業のない日に設定されていた。共闘仲間だけでなく被害者も呼び出したいという魂胆が読み取れた。〈犯罪被害者の経験に耳を傾け、犯罪被害への理解と共感を深めることで人権意識を高め、社会正義に真に貢献し得る倫理感を養おう〉。そんな企画の趣旨が不快で堪らなかった。

そんな趣旨の講演会を企画することで、反省と改悛の情を表明したふりをして、本来なら一ミリもない情状酌量の余地を作り出そうとしているとしか思えなかった。本件大組織犯罪の被害者ではなく、全く別の犯罪の被害者の講演会を開催したところで、情状酌量に繋がることなどあり得るわけがないと思った。

余りの不快感と嫌悪感が先に立ち、被害者も共闘仲間もこの講演会は完全に無視した。調査してみると、講演者の犯罪被害者は周囲の無理解に苦しんだが、警察庁の公式HPに紹介がある〈公益財団法人被害者支援都民センター〉で救済される契機を得たとあった。同組織の特別顧問には警視総監が含まれていた。

2018年7月、二度に分けてオウムの全死刑囚の死刑が執行された。二度目の死刑が執行された26日、極めて徴候的な出来事があり、その証拠を新検事総長に直ちに送付したことは既述した。その時点から遡及的に類推すると、犯罪被害者の講演会は同出来事の予告、或いは第一段階であったと思われるのである。

共闘仲間が前検事総長に宛てた書簡で書いたように本件大組織犯罪は刑事弁護の成立する余地が全くない100対0(=弁護の余地なし)の規格外の犯罪であり、被害者たちを法の適用から排除した組織犯罪者たちに刑事弁護を受ける資格はない。和解のチャンスは前理事長との間だけに存在し、もう完全消滅した。

優秀な刑事弁護士がついても、意味の秩序の解体にその言語が絶えず襲われている首謀者たちには、彼ら自身にも混沌としている本件大事件の因果の連鎖を再構成して伝えることすら覚束ないだろう。法的秩序を根底から瓦解させる犯罪を仮に理解したとすれば、オウムを弁護した弁護士でさえ躊躇するだろう。

女性の検事が言ったように「中身のない事件」だから、厳密には法の中身を空洞化させ、法の概念そのものを完全破壊し、無効化してしまう誰にも経験不可能な「超犯罪」だから。法の存続を可能にする条件、即ち人間を人間にする条件でもある人間の内部の「例外」を、瑕疵を抉り取ってしまう事件だから。

信仰という強力な麻酔をかけられていたオウムの信者たちは、麻酔の効力が弱まれば「例外」が蘇生し、法に対する恐怖と罪悪感も甦った。世界の存在を保証する世界の外部との唯一の紐帯として法を知覚することができた。組織犯罪者たちには世界の外部はない。従って法も、法が可能にする人間世界もない。

世界が消えてはまた立ち現れる反復強迫の運動が止まってしまった。世界は消滅し、彼らの世界が唯一の世界となり、法が伝えてくる他者たちの潜在的可能性との対話が全くできなくなった。スピノザにとっては幸福の倫理である「罪も責任も知らない世界」を、正気を危険に晒しながら耐えるしかなくなった。

法の専門家と法の執行者が法を破壊し、法によって存在へともたらされていた世界を破壊する。それが核心だ。オウムにそんな力はない。大勢の検事を検事の職務から退散させる力はない。オウムの早すぎる死刑執行は、法が前代未聞の崩壊の危機に晒されたからだ。最大限の力で自らを取り戻す必要があった。

法の源泉は何処にあるのか。世界の外部にある。その意味が永遠に分からないもの、無限翻訳を課してくるものにあり、そこから法は自らに権威を与える糧を備給し続ける。それは「死」と呼ばれる。組織犯罪者たちは「死」を消滅させた。オウムの死刑執行は法が崇高性を復活させるための唯一の方法だった。

世界は自らの存続のために自らを滅ぼす力を持った「例外」=「死」を内在させていなくてはならない。「例外」が消滅して世界が「例外」だらけになった時、世界は存在することを止める。故に法が唯一の絶対的「例外」となり死の権力を独占しなくてはならない。組織犯罪者たちは法の力を無効化したのだ。

「例外」のない世界とは搾取のない資本主義と同様不可能である。「例外」が消滅して世界が「例外」だらけになった時、世界は世界の滅びと見分けがつかない純粋な例外状態となり、法の執行と法の侵犯に区別をつけることは不可能になる。沈黙のテロルとは世界を滅びの世界に実際に変容させることだった。

最悪なのは法の守護者たちが何をしているのかも知らず、自分たちに権威を与える「例外」を抉り取ってしまったことだ。唯一の絶対的「例外」であるべき法を無数の「例外」の一つに下落させたことだ。崇高の位置から引きずり下ろし、法が処罰する「例外」と区別不可能な「例外」にしてしまったことだ。

それでも法の守護者として自分たちが引き起こした沈黙のテロルの効果にも気付かず権威を振りかざす時、彼らは限りなく愚劣で滑稽にしか見えない。その立場に現実有効性を、他者に転移乃至尊敬させる力を与えていたのは、彼らの内部の「例外」=法の起源の外傷的記憶だから。全能者は無能者でしかない。

そしてもう一度、2012年に戻ろう。実際には無能であるにも拘らず、全能感に浸っている幼児のような大人たちばかりに某組織では出会うことになった。某組織の支配形態が全体主義的相貌を帯びていたのは当然のことだ。某擬似捜査機関はその頂点に君臨し、あらゆる者の生殺与奪権を潜在的に握っていた。

その某擬似捜査機関を、被害者を陥れて抹殺するためにある若者が利用した。第一審に提出した陳述書でフロイトを引用しつつ論証したように、真のストーカーはこの若者であった。若者は被害者たちを疲弊するほど心配させ、全関心を自分に向けさせるように狂言失踪を謀り、首謀者たちもこれに協力した。

他者との関係を不可能にし、どんな他者にも接近させないように、自分が半永久的に独占するために「愛の源泉である対象そのもの」を抹消する。対象を殺害してしまうストーカーの心理をフロイトはこのように分析している。某擬似捜査機関を利用することで、若者は被害者を社会的に抹殺しようと謀った。

行方不明の外観を延々と作出し、不測の事態の発生を仄めかし続けることで、被害者たち4人が遂に搜索活動をするしかないように仕向けた。首謀者たちの一味も安否を確かめに行くよう執拗に唆した。仕方なくたった一度不在の自宅を4人で訪問したところ「ストーカー被害」で某擬似捜査機関に申立てられた。

留守宅を訪問した時、念のため隣人に消息を尋ね証人になって貰った。翌日若者一家が戻ってきたことを親切な隣人が電話で知らせてくれた。これで、被害者たちをストーカーに仕立て上げるための狂言失踪だったことが露見した。2012年4月11日に失敗は許されない暴力的な退職強要に及んだ動機の一つだ。

悪質な業務妨害であったことは明らかで、その違法行為を隠蔽するための退職強要でもあった。「強要罪」の告訴状の中でもこのことは明記した。今日のようにストーカー規制法や迷惑防止条例が強化されていたら、ストーカーに仕立て上げるという倒錯したストーキングが実行に移せたかどうかは判らない。

第一審に向けて作成協力を得た第三者による陳述書の殆どが若者の被害者に対する強い恋愛性転移を証言していた。証拠価値が最も高いはずのこれら第三者証言は悉く無視された。被害者の生の自由を徹底的に妨害し、何より名誉を穢すことを若者は狙った。今日ではストーカーの最も陰湿な加害行為だ。

「危険なストーカーのリスク因子」の内「パーソナリティ因子」の全要素を若者は満たしていたと思う。そのまま引用すると「不適応アタッチメントスタイル」、「共感性欠如」、「社会的スキル不足」、「感情統制スキル不足」。無意識の塊のような若者には誰であれもう二度と接近されたくない。

ルネ・シェレールの『歓待のユートピア』の帯にある「人は異質な他者をなぜ排除したがるのか」に逆らい、歓待を実践するような現代思想の一つの主題がある。原告代理人も頓珍漢な反応を示したこの高貴な思想を理解するには、大部分の大人の精神性が未熟すぎる。まして実践すればストーキングされる。

2011年の年度始めからまもなく、若者は被害者にメール送信してくるようになった。被害者の像に「メシア」という表象を与えたものまであった。2011年に若者が送信してきた全メールを第一審に証拠として提出したかった。ところが2012年の年頭に被害者のPCが壊れたため、それを最悪な形で利用された。

第一審に被告側が提出してきた若者が書いたという驚異的な陳述書には、若者が送信してきたメールさえあれば露見する虚偽が見事に列挙されていた。「驚異的な」と言う意味は100パーセント全部原告が悪く、若者は完全に無垢であると断定する書き方がしてあったこと。以後絶対に動かしようのない書き方。

「おお、季節よ、城よ、無疵な魂があるものか」とランボーが書いた通り、関係性の力学の中でどちらかが一方的に全部悪いということは事実的に不可能であり、そのように歴史を確定させたい書き手の欲望を反映しているだけだ。歴史を決定する高みには誰も立てない。新たな事実の出現の脅威は未来に宿る。

新たな事実、即ち若者が書いた陳述書が虚偽であるという事実は偽造CD-Rの中に眠っていた。この醜悪な眠り姫が目覚める日は未来永劫訪れてはならない。どんな不正を用いてでも偽造CD-Rが鑑定に出されるのを阻止しなくてはならない。4月11日若者の書いた陳述書の内容に被害者は暴力的に一致させられた。

若者の書いた陳述書が虚偽であることを示唆する第三者証言、被害者と共闘仲間が反論するために書いたはるかに説得力のある陳述書を提出してみても、若者が再反論する陳述書を出してくることはなかった。若者が書いた陳述書を唯一の真実にすること。4月11日の延長である裁判のそれだけが目的だった。

原告と対話的に関係したら最後、全ての他の可能性を排除して絶対に動かせないように断定的に書かれた若者の陳述書を唯一の真実とすることはできなくなる。だから裁判は原告を先行排除し、原告側の書面は一切読まない、話も一切聞かない、事実確認は一切行わないという無理に無理を重ねるしかなかった。

しかし、醜悪な眠り姫の分身が何処かで目覚めて何処から彷徨い出してくるかは分からない。それが完全には支配し切れない他者の過剰、予測不可能性というものだ。PCが壊れる直前に被害者はbackupを取っておいた。不正な第一審終了後、第二審に備え、忍耐強い共闘仲間が若者の全メールの復元に成功した。

絶対に動かせないように書かれた若者の陳述書に、それが虚偽であるという事実を突き付けたのは他ならぬ若者自身が書いたメールだった。〇〇のメールが出てきたことは大きいと原告代理人も喜び、第二審における逆転可能性は4割ほどはあると予想した。第二審には新証拠として若者の全メールを提出した。

若者の書いた陳述書に被害者を暴力的に一致させたとき、恫喝の主はその内容を否定する若者自身が書いたメールの存在を恐らく知らなかった。被害者を凌辱の沼に沈めて社会的に抹殺したいと願う若者が、自分の陳述書の効果を損なうメールを提出するわけがない。第二審で首謀者たちは衝撃を受けたはずだ。

第二審には別の新証拠も提出した。共闘仲間が素人にできる限界まで偽造CD-Rを鑑定し、その結果を記した報告書。普通に録音していたら生じることは絶対にあり得ない幾つもの不自然な痕跡が抽出された。鑑定申請を通すには十分な報告書であると原告代理人も評価した。二つの新証拠とともに臨んだ第二審。

裁判長が裁判記録に目を通し、あの「殺人未遂判決書」を読んで第一審の違法性に気づかないなどとは到底考えられない。某組織の違法行為を看破したと思う。第1回口頭弁論の段階では原告を逆転勝訴させるつもりでいたと今でも思う。鑑定申請について一切言及しなかったのは、被告に向けてだったと思う。

既述の通り、第1回口頭弁論のあと初めて残った被告代理人が不安そうな顔で事務員と相談していた。被告代理人も若者のメールが存在していたことに衝撃を受けたに違いない。真のストーカーは若者であることに気づいた可能性さえある。被告代理人が第二審の不吉な結果を予測したことは恐らく間違いない。

ひと月半で外貌が別人のように変わり果てるほど裁判長に一体どんな働きかけをしたのか。口頭弁論から約二週間後、「強要罪」の担当検事から原告と裁判長に伝えさせた。原本のICレコーダーと被疑者たち全員の陳述書を某組織が立川支部に提出してきたと。要するにCD-Rは本物、強要罪は虚偽であると。

担当検事が伝えてきた情報自体が勿論虚偽である。しかし某組織の首謀者たちは、影響を受けざるを得ない権威をこの情報に帯びさせるため、更にもう一つの事実を裁判所に上申した。理事長が交代し、新理事長が輝かしい経歴の持ち主であるという事実。東京高裁の総括判事に圧力をかけるのに十分なほどの。

若者のメールと報告書。若者の陳述書を一切の事実確認なしに唯一の真実と認定した第一審判決を、第二審に提出された二つの新証拠が虚偽・不正であると雄弁に訴えている。新理事長の経歴を知っても、自身の心証を欺くことは不可能であったと思う。あれほど変わり果てるとは一体どんな暴力を受けたのか。

本件控訴審の後、最高裁判事への昇格を約束されていたのかもしれない東京高裁の総括判事は、同じ建物内にある東京家裁の所長に降格された。見せしめ人事のように思われた。この裁判官は違法な第一審の目的が、民事と刑事の連動による某組織の犯罪の完全隠滅であることに恐らく気づいていたのだと思う。

某組織に被害者を凌辱させ象徴的に抹殺させた後、真のストーカーである若者はどうしたのか。第一審係属中、約9ヶ月に亘って被害者自宅の固定電話に不気味な不審電話が体感で凡そ2000回、断続的にかかり続けた。この若者以外に考えられなかった。狂気に満ちた殺意を感じ、所轄の警察署に相談に行った。

2014年初頭、警察署に被害届を提出した。刑事は、若者に電話をして止めるよう厳重注意することはできるが、かえって直接的な暴力行使を誘発する危険性があると忠告してくれた。今日でもストーカー被害に対応する際に警察が必ず被害者に喚起する注意点だ。電話は止めて貰い、固定電話の契約を解除した。

一方、若者としか考えられないツイッターのアカウントがあり、生理的な嫌悪感を触発する不気味なで異様なツイートを連発し、狂気の深刻化を窺わせた。アカウント名が、被害者が若者に教えた某文学作品の登場人物の名前であり、精神分析で言うメランコリー或いは体内化としか考えられず、恐怖を感じた。

メランコリーだと思った。対象を喪失した愛が自己愛に退行し、失った対象と自我との同一化が進行し、自我及び自我と同一化された対象への憎悪が深まり、自責や自嘲の形をとる自我感情の低下が起こる。「妄想的に処罰を期待するようになる」とフロイトは述べている。「僕は受刑者」と若者は書いていた。

2014年5月。就業規則の件で共闘仲間が某組織に赴くと、誰だか分からないほど変わり果てた姿の若者と偶然出くわした。「悪魔」のような恐ろしい形相だったので共闘仲間は戦慄した。共闘仲間に気付くと若者は逃げ出したが跛行するようにノロノロとしか歩けず、この「歩行異常」にも共闘仲間は驚愕した。

「歩行異常」は投薬のせいだったと思う。若者は、安否を確かめるため若者の自宅に行くよう被害者たちを唆した人物がいる部署に辿り着いた。共闘仲間が少し離れて様子を確かめていると、誰かと話そうとして若者は直ぐに話せなくなり、失語状態に陥った。言葉を話せなくなっていると共闘仲間は直感した。

まもなく被害者たちを唆した人物が出てきて共闘仲間の存在に気付くと、訝しげに凝視した。救助者が出現したかのように若者はその人物に向かって直進した。その人物は直ちに若者を保護し、部署の奥にある小部屋に若者を連れて入った。その瞬間に小部屋の電気が消えた。VIP待遇だと共闘仲間は驚愕した。

若者のストーキングは、実は最近に至るまで停止していない。被害者の自宅から徒歩数分の距離にある実家の固定電話に無言の不審電話が既に20回ほどかかってきた。若者であると実家の者は断言した。先月には咳込みながら激しく嗚咽し、分節化が解体しているため全く聴き取れない話を1分も続けたそうだ。

2014年秋「強要罪」の後任の担当検事に宛てて「捜査依頼・嘆願書」を4通送付した。3通目が若者に対する捜査を嘆願する内容。真のストーカーは若者であり、被害者を他者との関係から切り離して独占するため、汚辱に塗れさせて孤立させるため、生全般を徹底妨害するため、虚偽の申立てを行ったと書いた。

若者の全メールも送付し、被害者を装いながら獲物に最大の加害行為を為すために、若者が某組織と某擬似捜査機関を利用した/騙したことの証拠であると書いた。共闘仲間が目撃した若者の精神疾患を濃厚に暗示する姿と様子も詳細に伝えた。第二審以後、首謀者たちは若者の正体を初めて知ったと示唆した。

若者の被害者への強烈な転移感情、親がならせたいと欲望する職業からそれが若者を遠ざけること。某組織は勿論そのことは最初から知っていた。親との不正な謀議の上で被害者に冤罪を着せ、自主退職に同意させるために暴行に及んだ。虚偽が混在していることは百も承知で若者の陳述書を信じることにした。

虚偽が混在しているとしても、陳述書全体の前提となる若者の願望は信じた。親がならせたいと欲望する職業の人間に若者もなりたがっていると。若者自身も自分がそう欲望していると信じていたかもしれない。だから第二審に提出された全メールを読んだとき、陳述書全体が虚偽で染まる衝撃を受けたはずだ。

親がならせたいと欲望する職業の人間に本当はなりたくない、被害者とその思想への転移感情はそれを凌駕するもの。全メールは若者の真実を、正確には無意識の真実を告げていた。しかし「強要罪」を実行してしまってから、その無意識の真実に首謀者たちは徐々に気付いていたと思う。若者が変化したから。

被害者が直接見たわけではない。しかし、直接見た知人の証言を聞く限り、被害者の不在が恒常的になって以降、若者はメランコリーに飲み込まれたと思える。冷たい非人間的な顔、あらゆる他者からの隔絶。メランコリー、即ち苦痛を宿す深い不機嫌、外界に対する関心の喪失、行動の制止、自我感情の低下。

某組織から被害者の存在が消滅して以降、若者の精神状態が悪化していくことに首謀者たちは気づいていた。しかし、被害者への転移感情が激しい憎悪に変質し、その生全般を邪魔して汚辱に塗れさせてやろうとするほど強いものであったことを彼らが知るのは、第二審に提出された全メールを読んだときだ。

某擬似捜査機関に若者が虚偽の申立てをしたのは、親の欲望とも無関係な巨大な感情から。陽性転移を陰性転移が圧倒し、巨大な憎悪と怨恨感情に若者は支配された。ストーカーによる象徴的殺人を行うために親の欲望の陰に隠れ、某擬似捜査機関を利用した。そのことに首謀者たちは漠然と気づいたと思う。

首謀者たちが更に明確に知ったのは被害者が「強要罪」の担当検事に送付した「捜査依頼・嘆願書(3)」の内容を知らされたときだ。被害者の自宅のみならず実家にまで、不審電話を延々とかけ続けている文字通りのストーカーであることを知ったときだ。自分たちも若者に騙されていたことを知ったときだ。

ここで漸く書ける。某組織は被害者に殺人的暴力を行使することで一人の危険なストーカーを守り、そのストーカーが被害者に果てしなく害を及ぼし続ける機会を与えてしまったのだと。裁判に偽造証拠を提出し、三人の理事長を裏切ってまで、某組織は全力でストーカーを庇護してしまったのだと。

一つ傍証を挙げる。2016年に入っていたと思うが、某駅ビルで共闘仲間の一人が若者と偶然遭遇した。見るからに挙動不審で恐怖を感じさせる異様な雰囲気だった。共闘仲間に気づくや、2012年に自分がストーカー被害で申立てた一人であったことなど忘れ果て、若者は狂ったように30分ほども後を付け回した。

その共闘仲間とは親交がなかったので、若者が追いかけ回していたのがその向こう側にいる被害者の影であったことは明らかだ。物凄い形相で追いかけてくるので、恐怖に駆られた共闘仲間はひたすら逃げた。どこをどう走っても獰猛に追いかけてきた。開いたエレヴェーターに飛び乗り、辛うじて振り切った。

若者の最深部に隠された欲望に首謀者たちは誰一人気付かなかった。親の欲望の実現を妨げる若者の被害者への転移感情など、暴力で被害者を追放すれば簡単に消滅すると信じていた。名誉を穢され誰からも見捨てられ、生の自由を喪失して絶望の闇を彷徨う。そうなって初めて被害者は若者の独占物となる。

既にストーカーであった若者は某組織を利用することで、こうして自分の欲望の実現を画策した。精神的財産・経済的余裕の一切の剥奪が被害者に自殺以外の選択肢を与えなくなる。それが若者の究極の欲望だった。「被害者」である若者を救済することで首謀者たちはストーカーの欲望の実現に協力していた。

第一審で最初に提出した陳述書の中で真のストーカーは若者であるとフロイトを援用しつつ論証した。原告側の書面は一切読まない裁判官たちも、某組織の忠実な代理人として若者の陳述書を唯一の真実とするため、ストーカーの欲望の実現に全面協力した。その協力は「殺人未遂判決書」となって結実した。

若者の内部に潜むストーカーの無限再生産を不可避にすると分かっていたら、某組織も裁判官もこれほど悪質な違法行為を犯さなかっただろうか。未来のある日若者が被害者を殺害することになれば、他のあらゆる可能性を排除した若者の陳述書の非現実性、不可能性に気付かなかった愚かさが露呈するだろう。

いや、前代未聞の大組織犯罪に発展していかざるを得なくなった。第二審で若者自身のメールが陳述書の虚偽を暴いたから。若者の真の欲望が露わになったから。第一審の不正が自ずと明らかになったから。ストーカーの欲望の代理実現も含めて、某組織と共謀者の全犯罪を完全隠滅しなくてはならなくなった。

大組織犯罪自体が被害者の間接的殺害を目論む巨大なストーカーのようになった。被害者たちが鑑定書を手に入れてからは激化する隠蔽工作の連鎖が被害者たちの生存を脅かすストーカーになった。全犯罪の痕跡を抹消削除するため、法の仮面を被った無法=法の不在というストーカーに被害者たちを襲わせた。

「赦しが‥立ち向かう=自らの力を試すのは、ただ赦し得ぬものに対してだけ、従って償い得ぬもののある種の非人間性の限度なき限度に対してだけ、根源悪の怪物性に対してだけなのである」とデリダは書いている。被害者にとって本件大組織犯罪

は「赦し得ぬものと時効にかかり得ぬもの」であり続ける。

ジャンケレヴィッチの「強烈な宣告」が少しも極端には聞こえない。

「赦し!  だが、彼らはわれわれに一度でも赦しを乞うたか?  赦しに意味と存在理由を唯一与えるであろうのは、罪人の悲嘆であり見放されし境遇だけである」。私たちに赦されることがなくて、組織犯罪者たちは本当に大丈夫なのか。

「赦されることがなければ、即ち我々が行なったことの様々な帰結から解放されることがなければ、我々の行為への能力は、いわば、決してそこから回復し得ないたった一度の行いのうちに監禁されることになるだろう。我々は永遠にそれらの諸帰結の犠牲者のままであるだろう」とアーレントは書いている。

また2012年に戻る。「強要罪」の被疑者であった期間に副学長になった人物は、被害者を極悪人に仕立て上げる嘘を某組織内に流通させた。同年7月初旬、被害者は文科省に書簡を送り、極端な暴力行使は某組織に入る際に若者が不正を行ったという事実に由来するかもしれないので調査して欲しいと書いた。

元理事長名義の解雇予告通知が突然送り付けられたのは、それから約二週間後。提訴してから分かったことは、7月20日に開かれた会議で被害者の解雇が全会一致で決定されたということ。「強要罪」で後に告訴される人物たちが一体どれほどの虚言を弄し、不正な根回しを事前に行ったかは想像に余りある。

クンデラの『冗談』の主人公を思わせた。ちょっとした冗談を書いたせいで彼は組織から除名される。親友も仲間も誰もかれもが彼の除名に賛成の挙手をする。組織を恐れ保身のために全員が彼を裏切り見殺しにする。同じことが被害者にも起こった。被害者の友人を自称していた人物も賛成の挙手をしていた。

その人物は2009年7月に行われた現代思想のイヴェントに訪れ、そこで被害者のレクチャーを聴いた。2014年4月、共闘仲間が某組織に赴き、この人物に聴取した。被害者は嫌疑をかけられた時点で授業閉鎖されているのに「強要罪」の被疑者になっても〇〇はなぜ授業を続けていられるのかと共闘仲間は尋ねた。

その人物は狼狽し、「き、君は僕に何を言わせようというのか」と言った。「被害者が提訴した件は会議で一度も報告されていない」という証言も得られた。2年後の5月、告訴権・告発権を剥奪された直後に別の共闘仲間がこの人物を告発する書面を文科省に送付した。違法行為に加担し犯人隠避をしていると。

既述の通り、同告発文の宛先である文科省の二人の官僚も某組織の犯罪の協力者であったので、この時点では黙殺された。告発された人物に限らず、2012年7月20日の会議に出席して賛成の挙手をした人間たちはその時点で/それ以降もずっと、首謀者たちの違法行為に加担し、犯人隠避をしていることになる。

彼ら彼女らは「強要罪」で告訴される人物がどれほど殺人的な暴力行使を被害者に差し向け続けてきたかを知悉していた。その極点で強引に解雇すれば、死に直結する致命的な損害を被害者に与え得る可能性は十分に想定できたはずだ。それでも首謀者に同意するという行為は未必的故意と言わざるを得ない。

被害者に思想的な抵抗力と速攻で文章化する精神力が備わっていなければ、間違いなく死んでいた。被害者以外の誰にもこの極限的な受難を生き延びることはできなかったと改めて断言する。だから本件大組織犯罪の包括的な罪状は「殺人未遂」であり、他の全犯罪はその目的のために実行されたと考える。

元理事長の名義を冒用し、首謀者たちはなぜ突然偽装解雇する必要に迫られたのか。某組織に入る際、若者が不正を行った可能性を文科省に示唆した殆ど直後だ。ならばこの可能性は現実であったと考える他はない。しかも、明るみに出たら某組織を存亡の危機に晒しかねない絶対機密中の最大絶対機密なのだ。

若者が不正を行った可能性だけではないかもしれない。「若者たち」が不正を行った可能性、某組織もその不正を必要としていた可能性。某組織に入るためのみならず、某組織の社会的影響力の維持にとって犯すことを余儀なくされていた不正の可能性。全て某組織の心臓部に集中する不正の可能性だと思う。

それに無法地帯と化した某擬似捜査機関の慢性的不正がつけ加わる。同機関の某職員が別の組織に招待され、講演を行った記録が存在する。その際、質問に答える形で同職員は「某擬似捜査機関は学長選で対抗馬のネガ・キャンに使われることもある」と明言している。学長選の闇の歴史が垣間見える発言だ。

某組織の存亡に関わる複数の傷口、平素は通常状態の外観で縫合されている複数の傷口が、被害者を陥れる計画の失敗により被害者の目の前で開きかけた。複数の重大な不正に通じる傷口。「強要罪」で告訴される人物が恐慌状態に陥り、常軌を逸した暴力行使を次々と被害者に差し向けてきたのもそのためだ。

某組織は、自分たちの存続のために被害者を犠牲にすることにした。自分たちの腐敗と穢れを全て被害者になすりつけ、被害者を極悪人として処刑することにした。 死の萌芽である被害者を除去すれば、全傷口は縫合され、某組織の見せかけの健康な生が保てると信じた。しかし傷口は塞がらなかった。

某組織の身体から切断しても、被害者は開きかけた傷口から複数の不正へと通じている秘密の階段を、何度でも降りていこうとした。その度になかなか死なない被害者の間接的殺害を企てなくてはならなくなった。開いていくばかりの傷口の奥から立ち上る腐臭が首謀者たちの外貌を驚くばかりに変容させた。

あたかも彼らの内臓が不正の記憶、不正の隠蔽の記憶であり、開いた傷口はそこに通じているかのように。第二審以降、若者の陳述書による歴史の固定が破綻してのち、某組織に死をもたらす使者は彼ら自身になった。被害者にとどめを刺す「最終解決」にも失敗し、某組織という巨大船は沈み続けて今に至る。

第一審が終わる頃、瀬木比呂志氏の『絶望の裁判所』を読んだ。裁判官が不勉強で無教養、精神分析に対する知識など皆無であることを知った。被害者が既に知っていたことを改めて知った。彼らが裁判官でいられるのは、人々の転移にのみ依存する。被害者には裁判官への転移が絶望的に欠落していた。

本の表紙にある「裁判所の門をくぐる者、一切の希望を捨てよ」という忠告は最初から分かっていた。2012年4月11日に巨大暴力の餌食になった時、某組織の崩壊を代償としてでなければこの事件が解決することは絶対にないと確信した。誰にも理解できず、裁判官に理解できることなどあり得ないと思った。

少し迂回する。前検事総長と元理事長への内容証明を送付した直後、ジジェクの『厄介なる主体』の最終章「オイディプスよ、どこに?」の読書会をやった。そこで分かったことは裁判官たちが法と無法を区別する〈禁止〉を撤廃し、空虚にしておかなければならない法の痤を自分たちが占有したということだ。

法という空虚な形式は、一つ一つ様相が異なる経験内容を中立的に普遍の枠組に当て嵌めていくだけの代物ではない。それは「我々の行為の内容が不断に不確定性を孕んでいることの証言者」である。〈法そのもの〉とその(実定的な具現〉との間には絶対に埋まらない、埋めてはならない裂け目が走っている。

裁判官たちはこの裂け目を侵犯した。実定することは叶わない法と、既に実定されている象徴規範とを完全に混同した。どんな実定規範も、それ自体を唯一無二の法の地位に就かせてはならない。それが〈禁止〉。超越的最終審級の不在という〈禁止〉。ところが裁判官たちは自分たちを最終審級の化身とした。

我々は自分の行為の特異性を説明している法の規定的な内容が本当に正しいのか否か永遠に知ることができないのでなくてはならない。法の痤を空虚にしておくことが法の権威の絶対条件なのだ。正しいか否か明晰判明に理解されるならもはや法ではない。自己を神格化し不変の真理と主張する剥き出しの生だ。

〈法〉が普遍とされる実定的な象徴規範として出現することに最も無様に失敗したのが第一審だった。代わりに出現したのは空虚な法ではなく、滅茶苦茶にアナーキーに絶対服従の命令を突きつける剥き出しの生だった。〈自分たちが決定したお前の意味と真実と屑以下の無・価値〉に絶対服従せよという命令。

裁判官たちが〈法そのもの〉と〈その実定的具現〉との間の絶対に侵犯してはならない裂け目をいかに軽薄に侵犯してしまったかよくわかる。その〈禁止〉を侵してしまったらもう二度と裁判官としての見せかけの威厳を保つことはできず、被害者たちの視線に対し、裁判官として現前することが耐え難くなる。

彼らは裁判官などではなく、法服を着た法の侵犯者、某組織の欲望の忠実な代理人、恫喝の主の事実上の延長でしかないのだから。〈禁止〉を侵犯すると、空虚な法ではなく〈無意識の法〉が出現してくる。支離滅裂で統合性を欠き、論理学的要請も欠落させた、凶暴な生と一致した法。法の終焉としての法だ。

被告代理人同様、被害者を一度も正視できず、対面する機会も絶対に作らず、どんな関係からも排除し続けたわけだ。どれほど些細であれ関係を持ったら最後、完全に固定化された虚偽だらけの若者の陳述書を唯一の真実とすることができなくなるから。どんな別の可能性も受容する余地のない陳述書だから。

判断停止、思考停止、良心と法律に拘束されることへの持続的背反、裁判官としての職責の完全放棄。だからこそ書けた、その思想も学識も教養も何一つ知らない人間に対する「殺人未遂判決書」を。必ずあなた方に問い質す、どういうわけで何も知らない人間の「内面」にまで他者表象の暴力を及ぼせたのか。

この冗長極まる凶暴かつ残忍な狂文を書いた人物に尋ねたい。これを書いているとき、裁判官にはもう二度と戻れなくなるとは思わなかったか。裁判官から犯罪者への境界を不可逆的に越えたという自覚はあったか。自分が何を書いているのか分かっていたか。自分が書いていることを一行でも信じられたか。

宛先となる人物について自分が無知であるという自覚はあったか。その人物に限りなく破廉恥で暴力的な意味の衣装を皮膚のように縫い付ける虐待をしているという自覚はあったか。暴力性が激烈になったのはその者を死に至らしめる義務があったからか。吐き気と眩暈に襲われることはなかったか。

法律への参照も判例の引用も何にもなく、いかにしてこの未知の他者に最大限の恥辱を与えるかという義務感だけに貫かれている。ここまでの他者の完全否定、全部お前が悪いとして徹頭徹尾罵倒し続ける身振りは一種の精神的な強姦だとは思わなかったか。あなたは一体誰なのか。絶対善の化身?  全能の神?

あの「神聖な」法廷は某擬似捜査機関の密室、文科省の密室の延長であり、某組織の犯罪を隠蔽するため、その被害者から生への意志と気力を完全剥奪する凄まじい暴力行使の場だった。あなた方は法の座から空虚を追放し、あなた方自身がそこに座った。その瞬間法は自らの消尽を告げる怪物に変わり果てた。

法の座を空虚にしておくこと、実定的な象徴規範と混同しないことは、法が法として生き延びていくための至上命題である。完全な法とはもはや存在する必要のない法、法の消尽だけを意味する剥き出しの生と一致した法である。だからあなた方も、あなた方を滅ぼし尽くす神的暴力のパロディを実践したのだ。

あなた方の商売道具である神話的暴力を滅ぼし尽くす神的暴力のパロディを。法が自らの不完全性を備給してくる法の起源、法に剰余価値を与え続ける宇宙の空虚を、否定神学の神をあなた方は殺した。誰もが神と化した世界の中で、あなた方も裁判官の存在理由を自ら滅ぼす神、法の死を告知する神となった。

2013年3月、某組織の提訴に少し遅れて某組織内部の機関紙団体も提訴した。首謀者たちが同団体の若い記者たちに命令し、被害者が陥れられた冤罪を自ら認める形で本事件は決着したというような大嘘の記事を書かせ、それを某組織内部に大々的に配布させたからだ。名誉毀損の損害賠償請求訴訟を提起した。

同機関紙が発行・配布されたのは労働審判の頃で、被害者に対する違法行為と被害者によって申立てられたことを同組織内部に隠蔽しておくため、首謀者たちが命令したことは明らかだった。名誉毀損のみを争点とする訴訟だったが首謀者たちは某組織を相手取る訴訟との併合審理を求めた。それは却下された。

原告代理人も捏造記事の悪質さに驚き、こちらの訴訟は勝訴の可能性が高いことを強く示唆した。裁判長が原告本人の話を聞くことは実質的には全くなかったが、弁論準備手続自体は行われた。意味不明の頓珍漢な言説を毎回弄し、不利であることが明白な訴訟を被告代理人は明らかに攪乱しようとしていた。

裁判長はある時期まで被告代理人に非常に厳しい態度を取り、滅茶苦茶な準備書面の書き直しを二度命じた。原告代理人は最高裁判例を引用し、法律論的に崩すことは殆ど不可能と思える準備書面で応酬した。その頃から裁判長の被告代理人に対する態度が軟化し始め、準備書面の書き直し命令が突然止まった。

和解の話が出たのはその直後ぐらいだ。信じ難いことに和解の話合いの日、裁判長は風邪を理由に欠席。まだ経験も浅そうな若い裁判官が一人で話合いの場に立ち会った。派遣されてきたのは機関紙団体の顧問の人物。謝罪広告とはお世辞にも言えない二行ほどのお粗末な文を提示したので和解はその場で決裂。

本人尋問のみを行なったのち判決という展開になった。捏造記事掲載・配布の背後には「強要罪」の被疑者になっている首謀者が存在すると濃厚に示唆する陳述書をまず提出した。本人尋問の日、判決後から振り返ると実に異様なことが幾つも生起した。宣誓の儀式は裁判官も行うべきであると今では強く思う。

驚いたのは、被告の一人である機関紙団体の代表を務める人物が傍聴席にいたことだ。顧問の人物もいた。本人尋問が開始されてまもなく、細部を丁寧に語ろうとする原告の言葉を遮り、「一問一答で、はい/いいえで答えて」と裁判長が命令した。まるで話させまいとするかのような圧力を感じ不快になった。

後に配布された録音媒体から裁判長の不自然な命令はカットされ、それは明らかに編集されていた。本人尋問の最中、原告の視界には右斜め前に座っている二人の被告代理人の顔が入っていたが、二人は一度として原告の顔を見なかった。非常に緊張し硬直した様子でひたすらメモを取っているふりをしていた。

最も驚愕したのは、本人尋問終了後に振り返った瞬間、目に飛び込んできた顧問の人物の様子だった。顔面蒼白で今にも嘔吐しそうなほど気分が悪そうに見え、よろめきながら法廷を退出した。この人物も首謀者に騙され、違法行為に加担してしまったことに本人尋問を聴いて初めて気づいたのだろうと思った。

判決の日、勝訴を確信していた原告代理人は立つ位置まで変えて「主張を受け入れて貰える経験をしてみて」と言った。裁判長は小さな声で早口に原告の請求全て棄却する旨告げると慌てて逃げるように立ち去った。「負けましたね‥」と衝撃のあまりふらつきながら茫然自失した様子で原告代理人が言った。

対某組織訴訟の裁判長にも強く感じたが、判決言い渡しのときの裁判長の足元には立つ床がないという決定的な印象があった。問題の判決書だが、対某組織訴訟の「殺人未遂判決書」に較べれば、はるかに抑制された分別のある文章で書かれてはいた。しかし法律への参照や判例の引用はまたしてもなかった。

簡単に言えば「若い記者が書いたものだから許してやれ」という主旨。若い記者に専門の報道機関紙と同等水準の記事を求めることはできない。若い記者の取材能力には限界がある。この二点が主な判断理由だった。対機関紙団体訴訟にも不正な働きかけがあり、途中から捻じ曲げられたという直感があった。

二つの判断理由、とりわけ「若い記者の取材能力には限界がある」は論理学的に真命題とはならない、明らかに偽命題であるということにやがて気付いた。それを真命題とするためには団体が発行した全機関紙に目を通すという事実確認が不可欠。実は全機関紙でなくても一つの機関紙に目を通せば十分だった。

被害者を解雇したことにされ、その約二ヶ月後に自分も解任された元理事長。この元理事長の影響力を削ぐため、首謀者たちは同様に機関紙団体を利用した。不正入試問題について元理事長に全非難が集中するよう、過剰なほど詳細極まる情報を若い記者たちに与え、元理事長の名誉を毀損する記事を書かせた。

そう考えない限り説明がつかないほど、不正入試問題に関する記事は若い記者が容易に覗き見ることができない細部にまで言及が及んでいた。専門の報道機関紙をはるかに上回る取材能力が若い記者たちにはあったことを問答無用で説得していた。「若い記者の取材能力には限界がある」は従って偽命題である。

少なくとも某組織の機関紙団体に関する限り完全に偽命題である。これが何を意味するか。被害者の名誉を毀損する記事を書いた若い記者たちを擁護し、原告を敗訴させる判断理由には全くならないということである。このことは、本件大組織犯罪の深層事情を徹底究明する書簡の中で前検事総長にも伝えた。

首謀者たちが若い記者たちを利用していた証拠がある。被害者が偽装解雇される前に、最初に取材を申し込んできたのは若い記者の一人であった。取材には応じなかったが、その若い記者は事実に接近しようとする熱意をもって被害者に理解を示す記事を書いた。しかし、その記事が掲載されることはなかった。

記事を書いた若い記者は、掲載が不可能になった旨を共闘仲間にメールで知らせてきた。「〇〇さんにはご想像がつくと思いますが‥」という非常に苦しげな示唆があった。首謀者たちがその若い記者に圧力をかけたことは明らかだった。のちには、その同じ記者が名誉毀損記事を書くよう圧力をかけられた。

名誉毀損記事を読んだ直後、抗議のメールを送った。極めて曖昧で誤魔化すような内容の返信を送ってきたのは代表者で、改めて返信すると伝えてきた。二度と返信はなかった。後に別の共闘仲間が調査したところ、名誉毀損記事を書かされた記者は同団体から屈辱的な排除を受けていたことが判明した。

同記者の私物が団体の部屋の外に無造作に捨てられていた。名誉毀損記事の全責任をこの記者一人に負わせようとする圧力が働いたことは明らかだと思われる。被害者はこの記者に名誉毀損記事を書かれたが、同記者は書かされ、書いた全責任を負わされ、残酷な締め出しを食らった故に被害者の側面が大きい。

機関紙団体訴訟の第1回口頭弁論の日、マスクをした青年がとても遠慮がちに一人で傍聴に来ていた。名誉毀損記事を書いた記者であると被害者たちは直感した。本人尋問の日、代表者の青年が仲間と一緒に傍聴席に来ていたのだが、楽しそうな笑顔が零れていた。マスクをした青年とは好対照を成していた。

某組織訴訟の訴訟指揮を第1回から

4回まで執った裁判官は2016年から仙台高裁の総括判事になった。名誉毀損訴訟の訴訟指揮を執った裁判官も2017年から仙台地家裁に異動になった。他方、2016年に東京地検検事正に就任した検事は翌2017年に仙台高検検事長となり、2018年7月に最高検次長検事に就任した。

最高検の現次長検事が東京地検検事正に就任した際の挨拶を読み、捜査の知的側面を重視するその姿勢に被害者たちは期待を寄せた。二つの訴訟の訴訟指揮を執った二人の裁判官が仙台にいる時期に仙台高検検事長に就任し、10カ月を経て最高検次長検事に就任したことには偶然以上の意味があるかもしれない。

一方、「殺人未遂判決書」の原案を書いた若い裁判官は4年後の現在に至るまで判事補のままである。経験値不足の若い裁判官に原案を書かせた第5回から判決日までを担当した裁判長裁判官は、当該訴訟のあと定年退官した。法が崇高の位置まで再び引き上げられたとすれば、彼らは必然的に厳正に処罰される。

判事補のままの裁判官はその後、裁判官としての職責を殆ど果たしていない(果たせない)ように見える。定年退官した裁判官はその職責を果たす拷問的負担から免れた。仙台にいる二人の裁判官はその拷問的負担に耐えながら、或いはその拷問的記憶を忘却しながら、一体何人の運命を決定してきたのだろう。

運命を決定された人々は、自分たちの運命を決定した裁判官が潜在的な「犯罪者」であることを知ったらどうするのか。空虚な法と実定的な象徴規範との混同を戒めるカント的な禁止を侵犯して以降、裁判官はもう二度と法の権威を自分の言葉に宿らせることはできない。意味の空間はもう二度と開かれない。

裁判官と一致した裁判官は裁判官の残骸である。法と一致すると法は消尽し、剥き出しの生と一致してしまうように。彼らが本当に裁判官としての職責を果たせていたのかどうか甚だ疑わしい。未来の可能な意味の全てを代理するメタファーこそ法であり、それを喪失した彼らには未来を決定する力などない。

法に対する尊敬を失い、自らが法と化した裁判官、自らの剥き出しの生を法と一致させた裁判官は、外部を喪失した世界の中で自分が何をしているか、何を話しているか、何を書いているかの中心的統御力を喪失する。それは某組織の首謀者たちの言葉が空疎であり意味の実質を充填できないのと相似的である。

法の席に座していた不在神が立ち去り、その空席に自分が座ることほど人間である限り危険なことはない。裁判官たちは、2012年4月11日の恫喝の主の正確な延長であり、その職権の発動が自分の剥き出しの生の発現と区別がつかなくなっていることに全く盲目である。彼らに自己言及を課す不在の神の不在に。

だからこれはやはり小さな「最終解決」である。歴史を最終決定し、自分たちの捏造した物語がその登場人物たちの意味を最終確定したと、首謀者たちも裁判官たちも盲信したのだ。ユダヤ人は無条件に悪い、だから彼らを虐殺することは至極正当であるという狂気から彼らは一歩も距離を取ることができない。

彼らの未曾有の悪質さを前検事総長に伝えるに当たり、アウシュヴィッツとのアナロジーで何度もそれを喚起することになった。例えばバトラーが批判する倫理的暴力、「あなたは誰か?」と審問する暴力さえ行使しないという最大限の暴力。極悪人の役を演じさせられるなら、被害者など誰でもよかった。

人間を絶えず不安定にし、世界の翻訳行為を台無しにし続ける決定不可性、空虚な法が命じてくる決定不可能性に終止符を打つことができたらどんなに楽だろうか。しかし、それは人間を地獄にしか導かない。空虚な法の座に着くことは存在の耐えられない閉塞という代償を必ず伴う。世界の崩壊という代償を。

だから、裁判官たちにも地獄は訪れたと推察されるが、捏造した物語により世界の翻訳行為を完結させてしまった某組織の首謀者たちは、想像もできなかった行き止まりの巨大な壁に衝突した。問いが湧出する源泉が涸渇し、答えを求める旅の空間としての未来がもう開かれなくなり、言葉の自動機械が壊れた。

せめて前学長が2015年10月、鑑定書を携えて危急存亡の秋を報せにきた共闘仲間たちの話を勇気をもって聞いてくれていたらと思う。只管逃げの姿勢だった。まるで放射能汚染により世界の終末が近づいていても、放射能が侵入してくるその時までは通常状態の外観を死んでも手放さないとでもいうかのように。

2012年4月から7月のことについて「あの時は様々な主体が様々な思惑で動いていた。だがあの時のことについての私の認識と見解は君たちとは違う」と前学長は言った。「それは〇〇が嘘を浸透させて自分たちを正当化するために学内をコントロールしていたからです」と事実を告げても聞く耳を持たなかった。

一度だけ顔色を変えたのは民事訴訟に首謀者たちが偽造証拠を提出してきたと伝えた時だった。しかし前学長は逃げの姿勢を貫き通した。真実を受け止めたら壊れてしまうという恐怖からなのか、最高検の幹部検事に某組織の全犯罪を完全隠滅して貰えると首謀者を通じて聞いていたからなのかは定かではない。

しかし前学長は被害者の請願書を突き返し「法的措置に進まれたらどうですか」と言ったのだ。そんなことをしても無駄である、どうせ最高検の幹部検事が法的に無効にしてくれるんだから。そう確信していなければ口にすることができる言葉とは到底思えない。実際約4ヶ月後に告訴権・告発権を剥奪された。

更に首謀者が前理事長の名義を冒用して被害者に脅迫文を送りつけてきたわけだが、その脅迫文には前学長が首謀者に伝えていなければ絶対に書けないことが書かれてあった。犯人隠避と犯罪幇助に前学長が問われるかどうかは知らない。2016年12月6日、彼が真実と向き合わざるを得なくなったことは確かだ。

2016年12月6日、被害者による神的暴力の思想の実践という氷山に衝突し、某組織という巨大船が沈み始めたのはこの日。同年8月10日付けで前検事総長に大抗議文を送付して以降、全容解明と全面解決を要求する全て長文の書面を送付する度に、殆ど毎回最高検のHPに最高検幹部一覧が掲載されるようになった。

前検事総長に本件大組織犯罪の存在を知らせて以降、検察内部における犯罪の発生を徹底的に阻止しようという明白な意図が感じられる改革が、幾つも推進されたようだ。代表的なものは検察内部の公益通報制度の強化だ。不正な指示を受けた時など、内部告発者を積極的に守るという姿勢に力点が置かれた。

2018年6月3日付けで14通目の書面を送付した2日後の6月5日。最高検の公式HPが更新され「今後の臨時記者会見の変更点」に関する記事が掲載された。一つ目は受容する記者の範囲を拡大すること。二つ目は、今後は厳戒態勢の下で行われること。説明する検事の言説を妨害することは絶対に許されないこと。

オウム真理教の死刑囚の二度の死刑執行後に臨時記者会見が開かれたのは法務省においてであり、6月5日以降、最高検ではまだ一度も開かれていない。記者たちに向けて、もしかすると組織犯罪者たちに向けても「変更点」が告知された臨時記者会見が遂に開かれるのは今秋から冬にかけての頃かもしれない。

司法権が帰属する民事裁判所、行政権が帰属する検察庁、更には文科省にまで働きかけをし、自分たちの犯罪の抹消削除と既得権益の存続のため、被害者の生と自由が破壊されるような殺人的暴力の行使を求めること。求めに応じること。これは国家権力の私物化ではないのか。国家秩序の破壊ではないのか。

法律家であるのはほんの一部に過ぎず、あなた方の大部分は無意識で形成されている。法律家から剥き出しの生への、正義から不正義への、秩序から無秩序への境界侵犯は絶え間なく生起している。犯罪者たちは欲望の餌を武器に、その境界侵犯を現勢化させる。被害者たちが透視したのはそんな劇場の舞台裏。

まだ最近気付いたことだが某組織の同窓会組織には全国規模で支部があり、驚愕したことには検察支部まで存在していたこと。原則として東京高検の現職の検事から構成されると説明があった。80年以上も前から官民癒着の温床として存在し、本件大組織犯罪が発生する土壌となったことには疑念の余地がない。

前検事総長への15通目の書面の中でこの事実を知らせ、官民癒着の温床となるこのような組織は即刻消滅させて欲しいと書いた。共闘仲間は、当該検察支部が同窓会パーティーを開催している写真を某組織のHPで見たことがある。上層部から不正な依頼を受けても断れない強固な伝統的紐帯があることは確かだ。

某組織の同窓会支部の中には政界支部もあり、これも官民癒着の温床となっていることは明らか。某組織に所属する某人物は当該政界支部の重鎮的存在と懇意にしており、直接会いに行ったという逸話まで公開媒体の中で披露していた。某組織の人間たちは犯罪とは無縁であるという神話の根強さに圧倒される。

某組織自体が法の具現化であり、正義の体現者であるという神話。歴史的に流通した某組織の交換価値に依拠した神話。法曹三者を始め誰もかれもが強烈に転移していた。しかしいつの間にか某組織自体が法への尊敬を忘れ、法の座に自らが座り自らが法となり、法の消尽を体現する集団に成り果てていたのだ。

それでも某組織に法の物神であって欲しいという無意識の願望が、裁判官・検事・弁護士をしてその組織犯罪の共謀者とならしめたのかは知らない。カントの空虚で純粋な法の形式が某組織にはもう不在であること、自分たちにも不在であることに誰も気付けず、誰もがその違法行為に法の消尽を刻印したのだ。

カントの空虚で純粋な法の形式、即ち否定神学の不在の神は実はもう不在であり、人間世界は外部不在に苦しむ可能世界の砂漠と化している。可能性の深淵の中であらゆることの決定不可能に誰もが宙吊りにされている。スピノザの方法を知らなければ、内在の世界は常に全体主義的暴力に直結する地獄なのだ。

形而上学の神は自己言及を禁止し、他者の他者性への一切の通路を閉じてくれる神。否定神学の神は自己言及を強制し、他者の他者性への無数の扉を開け放つ神。現在、人間たち一人一人が自己流形而上学の神に、超越性を喪失した神に成り果てている。そんな時代状況のなかで本件大組織犯罪は起こったのだ。

「第三者の審級」概念で議論を展開してきた社会学者ですら否定神学の復活を願わずにはいられない時代なのだ。瑕疵ある存在へと、死を畏怖する存在へと人間を戻すこと。無法地帯の拡大という未曾有の危機に国家を晒す本件大組織犯罪を解決に導くための、それが唯一の方法であると前検事総長に伝えた。

そのためには他者に暴力を行使する特権を唯一付与されている検察官検事が、自分自身も含めたあらゆる他者を「罪を犯し得る存在」としていついかなる時も認識している必要があると伝えた。「潜在的に破滅を含んだ存在」として。だから検察官検事は非・人間的なまでに禁欲的でなくてはならないと伝えた。

法の座に崇高を取り戻し、不在の神の声が常に聞こえている検察官検事でないとしたら、彼らが他者に行使する暴力は彼らの剥き出しの生の発現と全く区別がつかなくなる。自らが行使する暴力が他者に対してのみならず、自分自身に対しても生殺与奪権を常に握っていることを片時も忘却してはならないのだ。

だからオウムの死刑囚の死刑を検察官検事たちがいかなる恐怖もなく執行したなどということはあり得ない。彼らはその恐怖を、不在の神の声を自らの身体に通すという恐怖を、まず彼ら自身が耐えたのだと思う。法の座に崇高を再び着かせるため、死の恐怖を人間たちに、組織犯罪者たちに思い出させるため。

現在だったら「殺人未遂判決書」を書くことは絶対にできなかったし、最高裁判例を無視したうえ偽命題が際立つ機関紙団体訴訟の判決書も書くことはできなかった。後に最高裁が通達を出したため。民事裁判でも主文だけではなく、判決書の要旨も読み上げ、判断の根拠も明示しなくてはならなくなった。

原告側の証拠資料を一切無視し、事実確認を完全省略した「殺人未遂判決書」の要旨など書ける訳がないから。判断根拠は虚偽であり、原告に対する故意の無知であるから。機関紙団体訴訟の判決書でも、最高裁判例を無視した理由と、事実確認なしで偽命題をさも恒真命題のように書いた理由を問われるから。

「最高裁が民事訴訟の判決を言い渡す際に、原告や被告、傍聴人に判断の内容を伝えるため、判決要旨を読み上げる取り組みを始めた‥」という記事が毎日新聞に掲載されたのは2016年12月6日。偶然にも某組織で捜査員による立入り捜査が行われた日。最高裁もこの時期には大組織犯罪を当然知悉している。

民事法廷が組織犯罪者たちを守るため、組織犯罪者たちの一味となり、被害者に殺人的暴力を行使する場として使われた。法的外観を装いながら、被害者を巧妙に抹殺するために法的機関が利用されるという先例が作られた。「この被害者」でなかったら死は不可避であったという実感がリアルであるのが怖い。

被害者を間接的に殺害しようとする彼らのやり方は一貫している。無法地帯に引きずり込んで暴力の限りを尽くし、法的保護を求めるなと強要する。遂には告訴権・告発権を剥奪する。瀕死の状態になるまで暴行したのち救済を求めるなと強要してくるのだから、「死ね」と命令しているに等しい。

某組織の密室では弁護士の同行を禁止され、文科省の密室では訴訟を起こすなと恫喝され、裁判所の密室では訴訟を取り下げろと脅迫された。「殺人未遂判決書」では法的保護とは無縁な者という烙印を押された。

告訴状・告発状の度重なる返戻では、法的救済の全窓口からの排除を強制的に飲み込まされた。

本件大組織犯罪の被害者になるということは自己への配慮、よりよき生への全配慮を禁止されるということだ。生存の維持のため、生の快適さのため、生の充実のため人々が自動的に実践するあらゆる行為ができなくなるということだ。その自動性に絶えず亀裂が入るため、集中の外に身を置き続けるしかない。

殺意に漲る暴力がいつどこから突入してくるかわからないので、絶えず緊張した無為に宙吊りになっているしかない。何をしていても周囲に遍在する悪意に満ちた暴力に対し臨戦態勢でいなくてはならないので引き裂かれ続ける。死に接近させようとする暴力に全力で抵抗し続けること、それが生の全てとなる。

国家権力を批判する言語活動も、現代世界の危機的状況を分析する言論行為も、国家権力の不可視の枠組への依存なしでは不可能であることを最も深く理解したと思う。現代思想の探究も最低限の自動性なしでは不可能で、自動性を批判するラディカルな思考も自動性を保証する国家権力に密かに依存している。

被害者の間接的殺害に失敗した某組織は、法的外観を利用した無法地帯でその完遂を目論んできた。その限りにおいて某組織は通常状態を維持してこられた。すると、6年以上もの間、某組織が「通常状態」を保つことができたのは、被害者の生の限界的破壊と引き換えにしてということにはならないだろうか。

箝口令を敷いたあの時から実際には常に非常事態だった。非常事態を隠蔽し、被告であることも被疑者であることも隠蔽し、国家権力内反国家権力との共謀によって被害者の破局は予定調和であるという幻想に支えられつつ、通常状態を辛うじて偽装してきた。某組織の全営業は被害者の犠牲に支えられていた。

某組織の全業務は、被害者を死に至らしめようとする暴力行使の反復という形で実行され続けてきた犯罪、即ち自分たちの全犯罪の完全隠滅を目論む大組織犯罪に支えられてきたのだ。大組織犯罪に支えられながら首謀者たちと共犯者たちは法律を教え、国家権力の戦後政策に対する批判を展開してきたのだ。

首謀者たちの同一的鏡像を破砕し続けたかもしれないこうした行為は、恫喝の主が被害者に向けて「妄想」と罵倒した現代思想だけが「正当化」してくれるのだ。アガンベンによれば、彼らのいる「無-責任というこの破廉恥な地帯は私たちの原初の圏域」であり、その外に出られる者は一人もいないそうだ。

告訴人代理人も務めた原告の訴訟代理人はどうしたのか。「この事件には独特の気持ち悪さがある」と初期段階でこの弁護士は言った。訴訟が進行するにつれ「こんな変なことばかり起こる裁判は経験したことがない」と頻繁に言った。しかし、この弁護士は司法制度と裁判官にあまりにも転移し過ぎていた。

懐疑的になることや疑念を抱くことをこの弁護士は自らに固く禁じていた。依頼者や支援者にも固く禁止し、疑念を口にする度に「邪推だ」と窘められた。しかし、この弁護士が疑念を抱かないのは専ら被告に対してであり、依頼者に対しては強迫的なまでに懐疑的だった。信頼関係は遂に一度も築けなかった。

この弁護士の最大の失敗は、対某組織訴訟の第一審の冒頭で偽造CD-Rを鑑定に出すという戦略を全く思いつけなかったことだ。CD-Rの録音内容をアイフォンに取り込んで反訳書と突き合わせずに反復聴取し過ぎたため、その偽造性に対する疑惑が希薄になった。被害者の言葉より偽造CD-Rの内容を信じる始末。

それでも録音媒体に編集を加えていないかという求釈明はした。これに対し、被告代理人は「被害者が退出したあと委員たちの雑談部分をカットしたのみ」と答えた。後に某法科学研究所の鑑定人に話したところ、それも立派な編集なので、原本のICレコーダーの提出を強く要求する弁護士もいると聞かされた。

裁判官が原告と直接会うことを忌避し続け、自分一人が口頭弁論後に呼び出されることにも疑問を抱かなかった。裁判官は巧妙にこの弁護士を騙し、訴訟を取り下げるよう脅したのだが、裏の含蓄を全く読めないこの弁護士は、裁判官の言葉を字義通りに被害者に伝えた。「裁判官は神ではない!」と怒鳴った。

文科省の密室で弁護士と思しき男が訴訟を起こさないように強要した。某組織にとっても被害者にとっても不利にしか作用しないからというのがその理由だった。弁護士を脅した裁判官も全く同じことを言った。裁判の背後で悪質な組織犯罪が進行中であることなど、当時この弁護士には想像すらつかなかった。

第一審には若者のメールを提出できなかったため、若者の陳述書だけに依拠して原告を極悪人に仕立て上げ、若者を只管「被害者」として主張してくる被告代理人の対話性皆無の、悪意に満ちた準備書面にも影響を受けた。次第に被告代理人に気後れし、遠慮がちになり、その顔色を過度に窺うようになった。

最後の口頭弁論で「強要罪」の告訴状を提出したにも拘らず、従って起訴/不起訴が未定であるにも拘らず、判決書には「強要はなかった」と断定的に書かれている不自然さにも全く気付かなかった。「殺人未遂判決書」の暴力性には驚きを隠せなかったようだが「事実認定が杜撰な判決書だ」と言うに止めた。

公正を期するために言う。この弁護士が全身全霊をかけて作成した渾身の控訴理由書は、現代思想への理解も示した非の打ち所がない出来栄えだった。しかし、第二審の途中で「強要罪」の被疑者がICレコーダーを提出したこと、理事長交代の上申書を被告が裁判所に提出したことには何の疑問も抱かなかった。

民事訴訟専門の弁護士に告訴人代理人が本当に務まるのかどうかは知らない。そこにつけ込まれた可能性は大いにあると思う。前任の担当検事は「鑑定の見積もりも済んで決済も下りている」と言ったのだ。その後の状況が不透明なまま後任の担当検事に交代した。弁護士は何も確認せず、追及一つしなかった。

後に某法科学研究所の鑑定人に話したところ「見積もりも済んで決済も下りているということはもう鑑定に出したということだよ」と聞かされた。弁護士が騙されたことは明らかだった。後任の担当検事も「これから鑑定に出します」と弁護士に伝えてから一ヶ月後に処分決定したが、何の疑義も唱えなかった。

この弁護士が深く関わった法的手続の過程には、偽造CD-Rの扱いを中心として組織犯罪の実行を窺わせる徴候が幾つも存在していた。疑念を抱くことの習慣的な禁止がその徴候を発見させないように作用した。不可解な現象の裏を読んではならないという自己抑圧が組織犯罪の実行を助ける結果になった。

本件大組織犯罪にこの弁護士が一切関与していないことは勿論だ。しかし、偽造CD- Rを鑑定に出さなかったことを始め、この弁護士が実行しなかった多くのことのお陰で大組織犯罪の実行が可能になってしまったことは確かなのだ。この弁護士が事実に開かれ、転移から覚める状況が訪れた方がよいとは思う。