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(証拠資料)2018年7月8日付けで、西川克行前検事総長に宛てて井上が送付した、「刑事手続き即刻始動要求書(3)」の一部抜粋(P11、L6~P14、L27)

平成30年7月8日

東京都千代田区霞が関1丁目1番1号

最高検察庁 検事総長 西川克行様

         ×××××××××××××××××× 

         大学講師(現代思想・表象文化論研究)

         告訴権被剥奪者  

         井上 ×××

刑事手続即刻始動要求書(3)

 〇〇大学〇〇会の公式ホームページに、「職域等支部」と題された項目が存在していることを私たちは発見しました。検事総長に就任される以前には、西川検事総長は東京高検検事長の役職に就いていらしたわけですが、在職されていた期間に東京高検には〇〇大学法学部出身の検察官検事がどの程度在職していたか、ご存知でしたでしょうか。というのは、〇〇大学〇〇会の「職域等支部」には、にわかには信じがたいことですが「東京検察支部」という組織が存在していて、「東京高等検察庁管内に在職する検事をもって原則として組織する(創立年昭和××年、会員数×××名)」という眩暈がするような衝撃的説明が記載されてあったからです(証拠資料3)。本人が誇らしげに披歴していたように、〇〇〇〇も平成24年から平成26年まで東京高検の次席検事の役職に就いていました。これは一体どういうことでしょうか。西川検事総長が東京高検検事長の役職に就いていらしたとき、私たちが初めて送付した「意見書・抗議文・要望書」のなかで私が最大限の批判をこめて何度も強調して書いた「(検察庁と〇〇大学の)癒着・一体化」を、〇〇大学〇〇会の「東京検察支部」なる組織の実在は文字通り裏付けているのではないでしょうか。「職域等支部」の各支部が、〇〇会会長・理事長・学長・常任理事などの〇〇大学上層部を交えて、時折同窓会のようなパーティーを開催していることは、〇〇大学公式ホームページに写真付きで掲載されたこともあるので明白な事実です。「東京検察支部」も同様のパーティーを時々開催していることには疑問の余地がなく、平成24年4月11日に実行された強要罪が前代未聞の反国家的大組織犯罪に不可避的に拡大・発展する契機を作ったのが、〇〇〇〇も必ず出席していたに違いない「東京高等検察庁管内に在職する検事」たちが一堂に会するこの同窓会パーティーであったとしたらどうでしょうか。その可能性は限りなく高いと考えざるを得ません。たった今、検察庁の公式ホームページに掲載されている「検察の理念」を再度熟読してみましたが、そこには次のような一節が見られます。「権限の行使に際し、いかなる誘引や圧力にも左右されないよう、どのような時にも、厳正公平、不偏不党を旨とすべきである」。なぜ、〇〇大学法学部出身の(東京高検の)検察官検事に限って、法の崇高性を担保するこの厳命に従わないことを自らに簡単に許容してしまのでしょうか。検察官検事が起訴権という名の暴力を独占することは、大きな代償と引き換えにしてでなければ決して可能にはならず、代償を引き受けることを忘却した瞬間に、検察官検事の行使する暴力は彼/彼女の剥き出しの生に直接由来する暴力と全く区別がつかなくなります。大きな代償とは何でしょうか。精神分析的に言えば「誰にも転移してはならない」ということ、即ちどれほど親しい間柄の人間であっても(家族、友人、同僚、上司、恩師、旧友、そして自分自身であっても)違法行為を犯す潜在的可能性としての「法の外部」の暗闇=瑕疵=症候(symptom)を必ずその身に帯びているということを絶対に忘れてはならないということです。さらに言えば、一切の世俗的交流やそれに伴う脱主体化と様々な享楽への耽溺を断念しなくてはならないということです。そうでないとすれば、世俗的な誘惑や快楽に一般市民同様に簡単に身を委ねてしまう検察官検事の死刑求刑によって現実化した死刑と、一般市民の犯罪者が実行した殺人との間に本質的な違いはないということになります。以前にも書きましたが、「〇〇の〇〇大学に在職する教職員たちは一切の違法行為とは無縁であり、彼ら彼女らが犯罪に手を染めることは絶対にない」という巨大な信仰に、本件大組織犯罪の共謀者たち全員が(検察官検事たちも裁判官たちも弁護士たちも文科省の官僚たちも)どんな意識化も不可能なほど取り憑かれていました。前代未聞の反国家的大組織犯罪を実行したのは、まるでこの巨大な信仰=転移から覚醒してはならない、どんな犠牲を払ってでもこの巨大な信仰を守り抜かなくてはならないというオウム真理教の信者を思わせる狂った使命感に、組織犯罪者たち全員が盲目的に駆動されていたからとしか思えません。

 おそらく、長い歳月に亘り「〇〇の〇〇」と呼称されていた〇〇大学は、精神分析で「超越論的シニフィアン」と呼ばれるファルス、別の言葉で言えば「不在神」であったのです。ハイデガーであれば、この「不在神」を人間に自らの根拠の不在、そして世界の根拠の不在を思い知らせ、その根源的不安を通じて人間に良心や罪悪感などの倫理的感情を抱かせる「存在」であると言うことでしょう。それは、存在しないことによって存在する「神」のことです。人間の世界がある程度安定的に存在するためには、どうしても「不在神」が必要であるというのが精神分析の教えです(マルクスであれば、あらゆる商品と交換できる万能の力を持った唯一の商品が貨幣であり、貨幣に内在するこの「不在の万能の力」こそ「神」であると言うでしょう)。人間は「不在神」に転移しなければ生きてはいけず、そもそも人間になる/人間であることもできません。しかし、人間自身が「不在神」になることはできず、あらゆる人間に転移される(=信仰の対象になる)ファルスとして存在することは許されません(その場合、人間は自分より上位の審級を絶対に認めない絶対的超越者になり、即ち「神」になって、どんな倫理的感情も抱けなくなります。〇〇〇〇のように)。けれども、「不在神」になることが許される、あるいは人間世界の秩序と安定性にとって「不在神」になることが必要とされる唯一の例外的存在がいます。それこそが検察官検事です。「ファルス」とは「法」のことであり、崇高性が宿れるのは「法」に他ならない「不在神」だけだからです。従って、検察官検事はあらゆる人間から転移されなくてはならず(=絶対的に信頼されなくてはならず)、そうすることで人間たちの内部に良心や罪悪感のような倫理的感情を絶えずリアルに生起させ続けることができなくてはなりません。しかし、人間でありながら、同時にあらゆる人間に恐怖を伴う倫理的感情を抱かせる「不在神」としての権能を持つためには、前述したように限りなく大きな代償を払わなくてはなりません。それは、自分自身も含めてあらゆる人間が先験的に瑕疵ある存在であるということ、いつでもどこでも罪を犯し得る潜在的に破滅を含んだ存在であるということを、どのような場面や状況においても絶対に忘却してはならないということです。自分自身も含めて、人間存在一人一人がつねにすでに「例外状態」であり、潜勢態(表に現れない状態=法の内部)から現勢態(表に現れる状態=法の外部)へと巨大な無意識のなかで移行を遂げ、いつ「悪」を発現させるか全くわからないということをどんなときでも徹底的に自覚していること。これが、人間でありながら「不在神」としての途方もない権能を行使することが許される絶対的な条件です。「法」に、「法」の化身である自分たちに崇高性を与える唯一の条件です。「自分自身も含めて」を忘却しているのみならず、上記の自覚そのものを欠落させている検察官検事は単に法律とその運用・悪用に精通しているだけの人間に過ぎず、「不在神」となることができないばかりか、潜勢態から現勢態へと簡単に移行を遂げて「悪」を発現させ、その者が特権的に行使する暴力は彼/彼女が断罪する人間たちの暴力行為と全く区別がつかなくなります。〇〇〇〇のように。鈴木久美子のように。

 従って、崇高な「法」の化身である西川検事総長には、本件大組織犯罪の後半の刑事手続を一日も早く始動させていただかなくてはならず、それと連動させる形で「東京検察支部」なる違法組織を〇〇大学〇〇会からも検察庁内部からも消滅させるためにご尽力していただかなくてはなりません。「どのような時にも、厳正公平、不偏不党を旨とするべき」検察庁のとりわけ東京高検内部に××年以上もの長きに亘り、官民癒着の温床として存在し続けてきた〇〇大学〇〇会の「東京検察支部」なる組織が、空前絶後の反国家的大組織犯罪を引き起こす根深い土壌を形成してきたことは明らかです。このような違法組織が検察庁内部に存在している限り、私たちを法律の適用範囲外に追放することで自分たち自身も法治状態の外部に逸脱してしまった単なる人間の検察官検事たちは、自分たちだけでなく検察庁全体を崇高な「不在神」の位置から下落させ続けることしかできません。「東京検察支部」なる組織を消滅させ、本件大組織犯罪に加担した単なる人間の全検察官検事を「検察の理念」に従って厳正に処罰しない限り、検察庁はいつまで経っても法治状態と無法状態の区別がつかない例外状態のままであり続けます。決して極端な話ではなく、この状態が続く限り、先にも指摘したように「不在神」ではなくなった検察官検事の死刑求刑によって現実化する死刑と、瑕疵ある人間が犯した殺人との間に本質的な違いは存在しないことになります。「道徳的行為というものは存在しない。存在するのは行為の道徳的解釈だけである」と『善悪の彼岸』のなかでニーチェは言っていますが、検察官検事の死刑求刑によって現実化する死刑を瑕疵ある人間の犯した殺人から厳然と区別し、前者を「道徳的行為」に変容させるものは「不在神」であるがゆえに検察官検事に寄せられる人々の転移だけ、崇高の位置にあるがゆえに「法」が身に纏うことができる超越的権威だけなのです(ちょうどこのくだりを書いている最中に、松本智津夫死刑囚、井上嘉浩死刑囚、早川紀代秀死刑囚、中川智正死刑囚、新実智光死刑囚、土屋正実死刑囚、遠藤誠一死刑囚の死刑が、7月6日本日早朝に執行されたという号外ニュースが飛び込んできました)。

 文科省は「不在神」=「法」の化身にはなれませんが、それでも国民の、とりわけ教育機関に在職する人々の強烈な転移によってその超越的権威を保っていました。しかし、(この程度でも)前代未聞と言われる汚職事件で人々の転移は急速に解け始め、その超越的権威は加速的に失墜しつつあると思われます。本件大組織犯罪の初公表に伴う巨大な衝撃を緩和させるために、その予告及び予行演習のようにして検察が公表したのかもしれないと思いました。本件大組織犯罪を一日も早く初公表し、反国家的組織犯罪者集団の起訴・公判という刑事手続を可能な限り早く始動させ、検察庁を解体の危機に陥れた組織犯罪者たちを厳罰に処してください。単なる人間の検察官検事たちに、彼ら彼女らが行使してきた暴力は彼ら彼女らが断罪してきた犯罪者たちの暴力行為と完全に同質であるという事実を突き付けてください。そうすることで検察庁は彼ら彼女らから自分たちを完全に切り離し、あらゆる人々から転移される(=絶対的に信頼される)「不在神」として復活を遂げ、崇高の位置に引き上げられた「法」の化身として超越的権威を再び身に纏うことができるようになります。