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(証拠資料)2016年1月28日、当時東京地検立川支部支部長であった秋山仁美氏に宛てて、井上が送付した上申書全文

上 申 書

東京地方検察庁立川支部 支部長 秋山仁美殿

                  平成28年1月28日

                 告訴人

 本上申書は、東京地検立川支部、検察官殿にも提出させていただいていることを最初にお断りしておきます。

 告訴人である私、井上×××は、2015年12月25日付けで東京地方検察庁立川支部に、森川久範、二瓶祐司を告訴しました。同時に、告訴人が提起した平成24年(ワ)2866号 地位確認等請求事件に関与した全裁判官を告訴しました。

 まず告訴人は、〇〇〇〇による虚偽のハラスメント申立てを中央大学が盲目的に受け入れ、ついには告訴人に対する露骨な違法解雇を強行したにも拘らず、民事裁判所第一審、第二審に加えて、東京地検立川支部までもが中央大学の一連の違法行為を完全に黙認看過したばかりか、それらに積極的に加担したとしか言いようがない行動を取ったことに対し、強い怒りの念を表明します。

 民事裁判所の裁判官たちが、いかなる法的根拠も示すことなく「告訴人が無条件に絶対的に悪い」という非合理で滅茶苦茶な、狂気じみていると言っても過言ではない恐ろしい断定を極めて一方的に行なったこと、そして捜査担当検事が必要な捜査を全く行なうことなく強要罪の被疑者全員を嫌疑不十分による不起訴処分にしたことは、告訴人に対する断じて許すことができない余りにも不条理で最大限に暴力的な所業です。

 橋本基弘を筆頭に、中央大学の違法行為を実行した者たち全員は、自分たちが違法行為を実行したからこそ、「告訴人が全部悪い」とすることで自分たちの全ての悪、全ての責任を告訴人に延々となすりつけ、告訴人を犠牲にすることで生き延びを図ろうとしてきたのです。そのことは、中央大学の違法行為を実行した者たち全員が、想像を絶する疚しさとともに誰よりもよく分かっています。本事件の捜査担当検事であった森川久範と二瓶祐司に、これほど明白極まる犯罪者の心理が全く分からなかった、想像もつかなかったなどということが一体どうしたら起こり得るというのでしょうか

 自分たちの違法行為を隠蔽するためだけに、現在に至るまで違法行為を次から次へと繰り返し続けている中央大学の関係者たち、中央大学に加担してその違法行為を全て積極的に見逃し、「告訴人こそ全面的に悪である」と無根拠に断定して告訴人を完全敗訴させた民事裁判所の裁判官たち、同様に中央大学に加担して捜査を全く行なわないことで被疑者たち全員を積極的に「取り逃がしてやった」東京地検立川支部の検察官検事たち。彼ら彼女らがいかなる法的・社会的制裁を受けることもなく、通常どおりの社会生活を「自由に」営み続けていられることに、告訴人は激しい怒りの念を片時も忘れることができません。見せかけの「法治状態」の背後に透けて見える、潜在的な「犯罪者たち」が野放しにされているその事実上の「無法状態」に、告訴人は戦慄的な恐怖を絶え間なく喚起されてどうすることもできません

 そのなかでも、とりわけ一連の違法行為の実行において中心的な役割を担い続けている橋本基弘は、強要罪の被疑者として国家による訴追対象とされている時期に、あろうことか中央大学の副学長に就任し、現在に至るまで信じがたいことに憲法(人権、統治)を指導しているのみならず、学部と大学院においてはゼミまで担当して学生たちを延々と欺き続けているのです。

 彼ら彼女らの恐るべき違法行為によって、研究者・言語芸術の実践者としてもっとも貴重な長期に亘る歳月を取り返しがつかないほど徹底的に奪い尽され、思想を共有する仲間たちとの一切の交流を残酷なまでに断ち切られ、身体的にも精神的にも、そして経済的にも壊滅的な損害を発生させられ続けている告訴人は、違法行為を実行した者たち全員に対し、殺意にも近い感情を呼び覚まされずにはいられません。違法行為を明確に犯している彼ら彼女らは、何の法的・社会的制裁を受けることもなく、それまでの生を何一つ変えられることもなく、また何一つ失うこともなく、通常どおりの社会生活を送り続けていられるという甚だしく倒錯した現象がなぜか可能になっています。それに対し、違法行為など何一つ犯していない告訴人は、違法行為を犯した者たちが自分たちの違法行為を隠蔽し、生き延びを図るためだけに、彼ら彼女らが償わなくはならない罪を身代わりとして引き受けさせられたのです。即ち、生活の糧となる仕事を強制的に剥奪され、それまでの生のあらゆる条件を激変させられ、社会的活動範囲を極端に狭められ、生の存続がいつ断たれるとも知れない恐怖に絶えず戦慄しながら日々を送らざるを得なくなったのです。極限的に転倒した、この不当極まりない異常事態は、法治国家の内実が空洞であることを示す現象でないとしたら、一体何であるというのでしょうか。

 告訴人にとって何よりも許しがたいことは、誰の目から見ても完全な違法行為が、その実行者が中央大学というだけで民事裁判所にも東京地検立川支部にもどういうわけか悉く見逃される反面、彼ら彼女らの違法行為を追及する告訴人が全く無根拠に「加害者」と見なされ、極端に理不尽で侮辱的な扱いを受けるという文脈が巧妙に捏造され続けてきたこと、そしてその倒錯した異様な状況が現在に至るまで一向に変化しないということです

 違法行為を実行した者たちによって捏造されたその異様な文脈は、2015年11月18日に告訴人たちが東京地検立川支部に告訴状、告発状を提出した後、受理担当検事・鈴木久美子氏から呼び出しを受けて同年12月9日に同氏との面談に臨んだ際にも、驚くべきことに引き継がれていました。そして、同年12月25日に、鈴木氏の指摘、鈴木氏から得た情報に基づいて構成要件を完璧に満たすように手直しを加えた告訴状、告発状を提出するために東京地検立川支部を再び訪れた際にも、あたかも告訴人たちが「加害者である」と断定しているに等しい明白で強烈な悪意を、対応した直告係の検察事務官・野村氏より差し向けられました。東京地検立川支部に所属していた二人の検察官検事、森川久範と二瓶祐司が中央大学の違法行為に加担していたこと、具体的には強要罪の犯人隠避と証拠隠滅を行なっていたことを、すでに告訴人たちの告訴状と告発状を読んでいた鈴木氏、野村氏が理解できていないなどということは絶対にあり得ません。告訴人には、鈴木氏と野村氏が、森川久範と二瓶祐司の違法行為が確かに存在したことを認識した上で、彼らの違法行為の絶対的顕在化を断固として求める告訴人たちに対し、組織防衛の側面から明白な悪意を差し向けてきたとしか考えられません

 東京地検立川支部において、告訴人たちに対しこのような転倒した悪意を差し向けることは、今後は絶対にお控えください。

 告訴人はすでに、強要罪の告訴が受理された後に、捜査担当検事であった森川久範に二通の「意見書」を、後任の二瓶祐司にも四通の「捜査依頼 嘆願書」を提出して以下に述べるとおりの要請事項を詳細に伝え、一連の違法行為を実行した者たち全員に対する徹底的な捜査を強く促していました。

 ①第一審と第二審の審理体を構成していた裁判官たちが(中立的第三者の立場を完全に放棄し、被告中央大学の忠実な代理人として)適正手続きを悉く無視・省略して判決に突き進むという、本来起こり得ない滅茶苦茶な裁判を行なったこと。

 ②この狂気じみた裁判の背景には、被告中央大学を不正に勝訴させるための力学が存在していた可能性が極めて濃厚であること。

 ③強要を直接実行した中西又三と永松京子を呼び出して、徹底的な取り調べを行なう必要があること。

 ④森川久範が「強要罪を立証するもっとも重要な証拠である」と告訴人に強調して伝えた録音媒体の科学的鑑定結果は、捜査の進展にとって必要不可欠であるため、録音媒体を必ず鑑定に出すこと。

 ⑤告訴人を冤罪に陥れた〇〇〇〇を呼び出し、その精神的特殊性にまで踏み込んで、本件事件を引き起こした動機の徹底的究明を行なわない限り、本件事件の全容解明は不可能であること。

 ⑥虚偽のハラスメント申立て(≒虚偽告訴)を容認し、申立てを受けた者の人権を極限まで貶める中央大学ハラスメント防止啓発委員会の違法性と、それを許容している中央大学の違法性についての徹底的な捜査が必要であること。

 ところが、森川久範は二通の「意見書」に詳述されている①②の事実を知悉していながら、そして二瓶祐司は二通の「意見書」に加え四通の「捜査依頼 嘆願書」に詳述されている①から⑥の事実を知悉していながら、一切の捜査をついに最後まで行ないませんでした。森川久範、二瓶祐司は、精緻を極めているがゆえに極めて重要な捜査資料であるこれら二通の「意見書」と四通の「捜査依頼 嘆願書」を読了・理解・認識した上で、行なうべき捜査を全く行なっていないわけですから、この事実こそ彼らが犯人隠避と証拠隠滅という違法行為を実行したことを雄弁に物語る証拠以外の一体何であると言うのでしょうか。これほど厳密にして明晰な捜査資料を入手していながら、捜査を一切行なわないなどという事態が発生することは絶対に起こり得ません。

 さらに特筆すべきことは、平成26年8月21日付けで提出した「捜査依頼 嘆願書(1)」のなかで、録音媒体が作成される「以前」に反訳書が存在しているという時系列上絶対に起こり得ない矛盾について、告訴人がすでに明確に指摘しているという事実です。

 「また、CD-Rの作成年月日(録音)は平成24年4月11日となっていますが、CD-Rの事実上の作成日(平成24年11月9日)と食い違っています。4月11日の事実聴取を実際に録音した媒体はCD-Rではなく、あくまでもICレコーダーです。まるで、CD-Rはコピーではなくオリジナルであると、よほど注意しなければ誰もが錯覚してしまうような書き方、言い換えれば「真の」オリジナルであるICレコーダーの存在を隠匿するような書き方がしてあります。

 さらに、「証拠説明書」の乙9号証が反訳書ですが、作成年月日は「平成24年5月15日」、作成者は「山田速記事務所」となっています。

 録音媒体(=CD-R)の事実上の作成日が平成24年11月9日であるにも拘らず、反訳書の作成年月日が半年も早い同年5月15日というのは明らかに不自然ですし、何よりも作成者である「山田速記事務所」が実在するのかどうか全く定かではありません(インターネットで検索してみたところ、そのような速記事務所はどこにも存在していませんでした)」(「捜査依頼 嘆願書(1)」3頁)。

 それにも拘らず、二瓶祐司は、録音媒体を絶対に鑑定には出そうとしませんでした。そして、2015年7月23日に法科学鑑定研究所によって出された鑑定結果から、告訴人が指摘した事実は紛れもない真実であったことが完全に証明されました。二瓶祐司の職務放棄にほかならないこの瑕疵により、強要罪を立件する機会が故意に剥奪されたことは明白です。これは、捜査検事に与えられた捜査の独立性を根拠として「鑑定に出していたら、このような結果が出ることは全く予想できなかった=予見可能性がなかったので違法性は問われない。したがって捜査は適正なものであった」などとする言い訳が、いかなる文脈においても決して通用しない違法行為であり、純然たる犯人隠避、証拠隠滅に該当します

 告訴人は、森川久範と二瓶祐司の捜査上の瑕疵のせいで、法科学鑑定研究所に鑑定を依頼するに当たって×××万円以上の支出を余儀なくされており、被害者である告訴人に極めて深刻な金銭的損害を発生させた両者に対して、断固たる抗議の意を表明します。

 違法行為が存在したことを証明するこれほど明白な論拠を提供されていながら、捜査検事が録音媒体を鑑定に出さないなどということは、事件の全容解明を行なって被疑者たち全員の公訴提起を目指す通常の捜査であるならば、起こり得るはずがありません。告訴人には、「捜査依頼 嘆願書(1)」を読んだ二瓶祐司が、録音媒体を鑑定に出したりしようものなら、被疑者たちの強要罪が証明されてしまうことを瞬時に察知したために、どんなことがあっても録音媒体を鑑定に出すわけにはいかなくなったとしか考えられません。

 さらに、被疑者たち全員の呼び出しと取り調べが一度も行なわれない状態で、公訴時効直前まで被疑事件の「捜査」、「捜査を絶対にしないという捜査」が延々と引き延ばされ続けたことも仰天するほど信じがたいことです。1年7ヶ月近くも不当に待たされ続けた挙げ句、2015年1月27日に呼び出しを受けた告訴人が、二瓶祐司から「強要の事実は存在しません。その理由は、録音媒体を自分の耳で聴取してみたところ、おかしな箇所はどこにもなかったからです」などという子ども騙しもいいところの説明を聞かされ、被疑者たち全員が嫌疑不十分による不起訴処分になったことを強引に飲み込まされるに至っては、二人の捜査検事が犯人隠避、証拠隠滅を謀ったことに対して一片の疑いを差し挟む余地もありません。

 東京地検立川支部に所属していらっしゃる方々に是非ともお伺いしたいのですが、このような子ども騙しもいいところの不透明極まりない説明で、哲学、現代思想、精神分析の学問と実践を数十年に亘って続けてきた一人の学究の徒である大人を仮にも納得させることができるなどと、本気でお考えなのでしょうか。さらに、二瓶祐司は、2015年1月27日の不起訴処分を告げる「理由説明」の際に、僅かながら猥雑な表情を浮かべて「録音媒体の内容と(告訴人の)メールの内容との間には整合性がある」という趣旨の言説を告訴人に差し向け、まるで告訴人が「加害者」であるかのように扱ったという事実をここに付け加えておきます。強要罪の立件を故意に不可能にされ、高額の鑑定費用の支出まで余儀なくされた告訴人が、告訴人に対し明白な加害行為を行なった捜査検事から「加害者」のように扱われる筋合いは一切ないことを強調しておきます。

 捜査検事の職務を完全に放棄した森川久範と二瓶祐司に対しては、同じ検察官検事だからといった、さらに犯人隠避になりかねない妥協的(組織防衛的)理由を一切排した上で、厳正なる取り調べが行なわれなくてはなりません。

 2015年11月18日に行なった告訴人たちの最初の告訴と告発に始まり、同年12月9日に行なわれた鈴木氏との面談を受けて、手直しを加えた告訴状と告発状を最終的に提出した同年12月25日に至るまで、東京地検立川支部においては信じがたいことが起こり続けました。即ち、幾つもの違法行為を実行した中央大学の関係者たち、裁判官たち、二人の検察官検事たちのその違法行為をできる限り最小限に見積り、刑法の条文にも民法の条文にも該当しないように構成要件を恣意的に極めて狭く適用し(適用しないように適用し)、「起訴が絶対に不可能であるという事実」を告訴人たちに強引に受け入れさせようとする言動が、受理担当検事・鈴木久美子氏によって繰り返されました。しかしながら、この段階で偽造録音媒体の鑑定結果はすでに出されており、その科学的鑑定結結果に厳密に裏付けられた告訴人たちによる告訴状、告発状は、違法行為の各構成要件を完全に満たす形式を整えた上で、同年12月25日に最終的に提出されています。中央大学の関係者たち、裁判官たち、二人の検察官検事たちが違法行為を実行したことは、否定しようとすればその否定の論理が必ず破綻してしまう明白な事実、もはやどんな疑いも入り込む余地のない厳然たる事実です。万が一にも、この事実を微かにでも捻じ曲げ、被告訴人たち、被告発人たちに有利に作用するように適正手続きに僅かにでも従わない事態が発生した場合には、告訴人たちは、そのような違法行為に関与した者たちに対しても、容赦なく法的責任を追及していく絶対的な覚悟をもって本件告訴と告発に臨んでいることを、あらためて強調してお伝えしておきます。

 とりわけ、2015年12月22日に受理担当検事・鈴木久美子氏が告訴人の助手であるM君の自宅に電話をかけて行なった話の内容に対して、告訴人は極めて深刻な懸念と憤りを感じています。

 鈴木氏は、「山田速記事務所が実在すること」をM君に伝えた後で、「森川久範に電話をして確かめてみたところ、起訴できる要件ではないから不起訴にするしかないと思って不起訴にした」と森川久範が強要罪の被疑者たちを起訴しなかった理由を述べたと伝え、「二瓶祐司にも電話をしてみたが、連絡が取れなかった」とM君に伝えたそうです。M君は、2015年12月11日の電話において、山田速記事務所の存否について、受理が行なわれる前に確認を取ることに対しては鈴木氏に同意を与えていますが、告訴人が告訴している森川久範、二瓶祐司に、受理が行なわれる前に電話で事情聴取をすることに対しては、告訴人は鈴木氏にどんな同意も与えていません。森川久範、二瓶祐司の案件については告訴人の告訴に関する事項であり、このような核心的に重要な内容の事情聴取を、鈴木氏は告訴人の同意を得ることなしに行なったわけですが、鈴木氏から得た情報を基に、仮に森川久範と二瓶祐司が罪証隠滅を謀るような事態に発展し、その結果、本件事件の解決に決定的な支障が生じることになった場合、東京地検立川支部におかれてはどのように責任を取られるおつもりでしょうか。また、「起訴できる要件ではないから不起訴にするしかないと思って不起訴にした」などという何も説明していないに等しい「説明」で、被害者である告訴人を納得させることができると鈴木氏は本当に考えていらしたのでしょうか。さらには、同じ電話のなかで、「録音媒体の作成以前に反訳書が存在することはあり得ません」というM君の指摘に対して、「鑑定結果については忘れてください」などと、捜査機関がもっとも重視しなくてはならない科学的根拠を完全に無視した発言を鈴木氏が差し向けたと伝えられるに至っては、東京地検立川支部に一連の違法行為に関与した者たち全員を隠避しようとする違法な力が働いている濃厚な可能性までも、告訴人は想定しないではいられなくなります。失礼を承知で申し上げますが、この度、提出された告訴状、告発上を手続きの上では「受理できない理由は存在しない」が、告訴状、告発状を「受理してはならない理由が存在している」ため、「告訴人たちが自発的に告訴状、告発状を取下げた」という状況を作り出そうとする力が、東京地検立川支部に働いていたという可能性を告訴人は捨て去ることができません。

 そもそも、起訴することができないことをわざわざ知らせるために、2015年12月9日に面談の機会を設けるなどという不自然なことが起こり得るのでしょうか。告訴人たちは、以前に東京地検特捜部にも告訴状、告発状を提出していますが、それらの告訴状、告発状は、「一次捜査機関である管轄の警察に相談すべきと思料します」という理由説明書とともに返送されてきました。わざわざ面談の機会を設け、告訴人たちを呼び出しておいて、机の上に置かれたコンメンタールの威力業務妨害に関する項目のページを開いて、告訴人たちを威嚇・撃退するかのような猛烈な早口で読み上げるばかりか、「どんな弁護士がついても起訴は絶対に不可能である」「法律にできる範囲は非常に狭い」などという言動を繰り返す必然性は一体どこにあるのでしょうか。その存在を否定することなどおよそ非現実的でしかあり得ない、これほど明白な違法行為の違法性を、法律の専門家である検察官検事がなぜここまで強硬に否定しようとするのか、告訴人たちが極度の違和感を喚起され続けていたことを、同日の鈴木氏は僅かばかりでも認識していらしたのでしょうか。

 この4年間、告訴人は法的文脈のなかに閉じ込められ、中央大学の関係者たち、民事裁判所の裁判官たち、捜査機関の検察官検事たち、まさしく彼ら彼女ら全員から悉く欺かれ、暴力に次ぐ暴力を差し向けられ続けてきましたので、これから行なわれるべき捜査が本当に適正手続きに則って行なわれるのか、実に一切の信頼が抱けない状態にあります。文字どおり地獄に等しいこの4年間の経験から、法律は被害者を一切守らず絶対に救済しないという狂気じみた事実を、告訴人は絶望のどん底で果てしなく思い知らされ続けることになりました。民事訴訟においては、裁判官たちの極めて主観的で恣意的な判断が「社会的通念」として暴力的に適用され、告訴人は全く無根拠に「悪」として一方的に断罪を受けることを強制されました。刑事捜査においては、違法行為を実行した者たちが凄まじい悪意によって告訴人を陥れたことがなぜか全面的に許容され、生命の存続も脅かされるほどの大損害を発生させられた告訴人がその被害を訴えると、被害を訴えた告訴人に対して、まるで「加害者」に向けられるがごとき恐ろしい悪意が向けられました。加害者の違法行為を守り、加害者のほうこそを救済し、いかなる根拠も示さずに被害者を「加害者」と断定しておいて徹底的に攻撃する法律の暴力、「真の加害者にはどこまでも優しく」「真の被害者にはどこまでも厳しい」非対称極まりない法律の暴力は、「法治状態」の仮面を被って現在に至るまで行使され続けています。

 2015年12月25日、告訴人たちは告訴状、告発状、新証拠、意見書を提出するために東京地検立川支部に再び赴きましたが、対応にあたった直告係の検察事務官・野村氏は、前回の訪問時までは示していた告訴人たちに対する共感を完全に欠落させていて、威圧的で悪意に満ちた態度を露骨に示しながら全書類を受け取りました。受け渡しの際に、告訴人が「なぜ、見積りが出て決済も下りているのに、森川久範は録音媒体を鑑定に出さなかったのでしょうか」と尋ねると、野村氏は「決済が下りていても予算が足りないので鑑定に出されないこともあります。立川支部は貧乏ですからね」と答えました。また、二瓶祐司が録音媒体を鑑定に出さなかった理由については、「二瓶検事はICレコーダーとCD-Rの両方を自分の耳で聴いて、両者の録音内容が同一であると判断し、おかしな箇所はないと判断したから、鑑定に出さなかったのだと思います」などという裏が全く取れていない適当な認識を、僅かに威圧的な口調で示しました。告訴人たちは、書き直しを終えた告訴状、告発状を提出するこの最終的な段階に至ってまで、4年間受け続けてきた子ども騙しの説明を受けることになろうとは、よもや想像すらしていませんでした。とにかく、この日に野村氏が示した態度には、告訴人たちに対する明らかに露骨な悪意が含まれていました。このような態度や言動を差し向けられた以上、森川久範、二瓶祐司の違法行為をもっぱら隠避するために野村氏は威圧的に振る舞い、不必要な悪意を示すことで告訴人たちを撃退しようとしたとしか考えられません。この期に及んでまで、いかなる根拠もなく悪意を差し向け、告訴人たちを「加害者」のように扱うことは、告訴人たちに対する極めて侮辱的な人権侵害にほかなりません。このような理不尽極まりない人権侵害を受ける文脈は、告訴人たちの側には一切ないことを明確にお伝えしておきます。

 加害者に対してどこまでも寛容であるのが法律なのでしょうか? 損害を発生させられた被害者が加害者の違法行為を立証する際には、犯罪の構成要件の該当水準を被害者には到底超えられないほど無限に高く引き上げて、被害者を絶望のどん底に叩き落とすのが法律なのでしょうか? 告訴人に違法行為の限りを尽し続けたばかりか、昨年度末には中央大学理事長名義で脅迫文まで送り付けてきた者たち(送り付けてきたのは橋本基弘であると告訴人は確信しています)、民事裁判所の裁判官たち、強要罪の捜査を全く行なわなかった検察官検事たちの行為が、違法行為の水準まで達していないというのであれば、一点の曇も隙もない透徹した論理を用いて、そのことを告訴人たちに証明してみせてください。告訴人たちをどれほど僅かであれ「加害者」のように扱い、悪意を差し向けるのであれば、告訴人たちの行為の一体どこが加害行為に当たり、それによっていかなる損害が一体誰に対して発生したのか、一部の隙もない完全無欠な論理を用いて告訴人たちに証明してみせてください。どんな根拠も示さずに、「悪いのはおまえである」などという滅茶苦茶な暴論を押し通せるとは絶対に考えないでください。告訴人に対し、これまで違法行為を実行した者たち全員に、告訴人は次のように糾問したいという衝動にほとんど毎日駆られています。即ち、<自分たちが正義の仮面を被った不正義ではないこと、自分たちは「純然たる正義」であることを、あなたたちは誰の力も借りずに自分自身の力で証明できるのですか?>と。

 この度の告訴と告発においては、違法行為を実行した者たちの違法行為をまさしく隠匿する目的で、告訴人たちに告訴状と告発状の提出を「自主的に」断念させようとする働きかけが行なわれたと告訴人は認識しています。また、前回の強要罪を被疑事実とする告訴においては、違法行為の露見に決して辿り着かないように捜査をしない状況を延々と引き延ばし、間近に迫った公訴時効を利用して被疑者全員を不起訴処分に持ち込み、起訴が絶対に可能にならない状況を極めて意図的に作り出したことは余りにも明白であり、疑いを差し挟むどんな余地もありません。違法行為を実行した者たちにはどこまでも寛容である一方で、被害者に対しては加害者の違法行為を追及しないように強要する捜査機関が存在するなどという話は、全体主義国家ででもない限りは絶対に通用せず、仮にもこの国が民主主義国家であるならば、そのような捜査機関は端的に倒錯していて狂気じみていると断じるほかはありません。捜査機関に身を置く以上、加害者の違法行為を追及し、事件の全容解明を目指す以外の目的は存在しません。実際には、この度の告訴と告発を受けて捜査に当たられる検察官検事のなかには、この度の告訴と告発に「事件性がない」などという極端に非現実的な認識を抱かれる方は、一人としていらっしゃらないと確信しています。また、森川久範、二瓶祐司、受理担当検事の鈴木久美子氏、直告係の検察事務官の野村氏も、自分たちが実行してしまった/実行していることが、誰が見ても怪しく不自然で異様であると直ちに感じる所業であること、あるいは「不正義」に属する行為でしかあり得ないことに、全く認識が及んでいないとは考えられません。

 しかしながら、告訴人は、前回の告訴において期待していた捜査が全く行なわれず、被疑者たち全員が極めて寛容に保護された結果、みすみす取り逃がされるという残酷極まりない事実に直面させられました。そして、その長期に亘る過程で、実に数々の信じがたい詐術を弄されました。それゆえ、敢えて申し上げておきますが、この度の告訴と告発に関わる一切の刑事手続きの過程において、告訴人たちを二度と再び欺けるなどとは決して考えないでください。森川久範、二瓶祐司、受理担当検事の鈴木久美子氏、そして直告係の検察事務官の野村氏がそれぞれ口にしたような論理の体を全く成していない言説が、告訴人たちを欺くために東京地検立川支部において用いられるなどということは、今後二度と繰り返されてはならないことを上申いたします。

 以上の経緯を踏まえ、告訴人は、本件告訴と告発に対し、捜査を妨害する一切の違法な干渉を徹底的に排除した上で、どこまでも適正手続きに則り、厳正なる捜査が行なわれなくてはならないこと、そして起訴にまで至らしめることは絶対的に不可避であることを上申いたします。

 また、上述したように、告訴人は一連の悪質な違法行為を実行した者たちが、どれほど微かな反省も改悛の意も示さずに、何一つ変化を被ることなく通常どおりの「自由な」社会生活を営んでいることに対し、激烈な怒りの念を毎日喚起され続けています。無限に高い犯罪の構成要件の該当水準をクリアする、論理的にどこにも破綻のない告訴状、告発状を提出できたことに加え、結果的には鈴木氏の働きによって予想外の証拠(山田速記事務所が実在する証拠)が付け加わったおかげで証拠構成も鉄壁となりました。犯罪が確かに実在したことを証明する証拠が出揃い、すでに成立している犯罪もあります。それゆえ、被告訴人たち、被告発人たちの一刻も早い身柄の確保が行なわれなくてはならないことを上申する次第です。

 ここで、さらに強調しておかなければならない重大な事実があります。「捜査依頼 嘆願書(3)」において詳述しましたが、〇〇〇〇は極めて危険な精神状況にあります。同様に、インターネットに上げられている写真を確認するだけで一目瞭然ですが、自分一人では到底引き受けられないほどの違法行為を重ねてきた橋本基弘の風貌は、誰もが衝撃を受け圧倒されるほどの劇的な変化を遂げています。身柄確保が遅れれば、自分たちの犯した違法行為に起因する精神的重圧についに耐えきれなくなった彼らが、その苛烈すぎる苦痛から逃れるために自殺行為に及ぶ可能性も捨てきれず、事件の全容解明に重大な支障が生じるおそれがあります。風貌の激変という点では、第二審の裁判官裁判長を務めた田村幸一も同様です(第二審判決を出すにあたり、裁判所の「外部」から想像を絶する圧力を加えられたことが激変の直接的な原因であると告訴人は確信しています)。さらに、文字どおりの「自殺教唆文」である判決書を書いた裁判官(判事補)・須藤隆太は、東京地裁立川支部に在籍していることは確認されていますが、配属先が全く確認されない状態のまま2年が経過しようとしています(裁判官の職責を完全に放棄し、判決書という法的文書の体裁は整えていますが、その内実と言えば全くの未知の他者を社会的に抹殺することだけを狙った自殺教唆文を書いたことにより、裁判官としての職務が続けられなくなるほどの致命的打撃を須藤隆太が被った可能性は十分にあると考えられます)。裁判官たち、とりわけ須藤隆太と田村幸一に対しても、一刻も早い身柄の確保が必要であると告訴人は考えます

 そして、公判が開かれるに至った際には、被疑者たちに厳罰を望む強い意思を表明する必要があるため、法廷で意見陳述を行なう機会を告訴人に与えていただかなくてはならないことを上申いたします。

 最後に、現代思想・哲学・精神分析の一学徒として申し上げます。

 中央大学で最初に違法行為を実行した者たち(とりわけ橋本基弘、中西又三、永松京子)、次に民事裁判所で違法行為を実行した裁判官たちに共通して言えることがあります。それは、告訴人を「悪」として、「加害者」として冤罪に陥れることを最初から決定しておいた上で、告訴人をそのような存在として断罪し、処分したということです(処分、即ち解雇ですが、この解雇はいわば偽装解雇であり、大学内の手続きに瑕疵があるため実際には無効であったと考えられます。本来、無効であった解雇を、半永久的に有効にするために、橋本基弘たちは民事裁判を利用したのです。偽造証拠を提出し、そして恐らくは贈収賄を実行することで不正に勝訴判決を出させて、告訴人の解雇に「裁判によって確定した」という万人を納得させるお墨付きを与える必要があったのです。その文言は、昨年末に送り付けられてきた理事長名義の脅迫文にも、まるで金科玉条のように書かれていました)。

 ところで、誰かが冤罪に陥れられるとき、それは意図せざる結果として、偶然による副産物として起こる事故のようなものでなくてはなりません。決して最初から決定しておいた上で、誰かを「悪」として、「加害者」として直接的に冤罪に陥れてはならないのです。なぜならそれは、冤罪に陥れられた被害者にとってよりも、陥れようとして陥れた加害者にとってあまりにも危険なことだからです。被害者を絶対的で全面的な「悪」にしてしまったら最後、加害者たちは自分たちの全てを生きている限り、無限に「善」にし続けなくてはならなくなります。刑法が犯罪被疑者に寛容であるとすれば、それは刑法が「人間本性は悪である」という前提に基づいて作られているからだと思います。刑法の前提は、精神分析の教えと一致しています。人間を人間にしている条件、それこそが「悪」であり、自分の内部に潜伏している自分自身でも知り得ない闇の部分、言い換えれば「いつ何時、法を侵犯するか分からない可能性」です。精神分析によれば、この「悪」があるからこそ逆説的にも人間は自由になれる、自分自身とつねに対話を交わして(反省的に自己と関係して)絶えず「善」を目指すことができるのです。

 したがって、ある他者を最初から全面的な「悪」にすると決定しておいて、実際にそうしてしまった人間たちは以後、つねにすでに全面的な「善」であり続けることを強制され、人間を人間にしている条件を根本的に喪失することになります。絶えず「善」を目指して、自分自身と反省的な対話をする余白が彼らの内部にはもう二度と開かず、絶対的な「善」として彼らは完全に自己完結してしまいます。「善」を絶えず希求させてくれるものこそ、反省的な自己との関係であった以上、絶対的な「善」の化身となった彼らには、「善」と「悪」の区別がもう二度とつかないことになります。それは、戦争や犯罪が全く存在しなくなった世界に生きる人々にとって、「平和」の意味が全く分からなくなることと完全に相似的です。あるいは、彼ら一人一人の世界が、実際には他者を平然と粛正しながら、「楽園には犯罪は存在しない」と本気で信じ込んでいる全体主義の世界であると言うこともできます。したがって、「善」と「悪」の区別がもう全くつかなくなった橋本基弘たちをこのまま放置しておくことは、彼らが絶対的な「善」の化身として違法行為をさらに反復的に犯す極めて現実的な可能性を容認すること、言い換えれば事実上の全体主義的無法状態を許容し続けることにほかなりません。

 人間を人間にしている条件を喪失してしまった者たちの生がいかに苛烈で凄惨であるか、「善」を希求する必要のない絶対的な「善」を生きる者たちの精神がいかに地獄の狂気と紙一重であるか、〇〇〇〇や橋本基弘と実際にお会いになってみれば、瞬時にしてご理解いただけるものと思います。

 ここで申し上げたいことは、実際に違法行為を犯した彼らに捜査機関が寛容であり続けて、彼らをいつまでも自由にしておくことは、彼らを絶対的な「善」という(違法行為を盲目的に繰り返す)狂気の地獄のなかに滞留させ続けることだけを意味しており、彼らを救済することには絶対にならないということです。潜在的な「犯罪者」である彼らを救済するためには、彼らを「犯罪者」として象徴的に意味付けて厳正に処罰し、彼らの内部に「善」を希求させる余白を作り出すこと、つまり人間を人間にする条件を彼らに取り戻させてやることが必要不可欠なのです。

 彼ら彼女らを救済すること、彼ら彼女らを人間に戻してやることだけが、彼ら彼女らが犯した違法行為によって全生活を破壊され、壊滅的な損害を発生させられ続けている告訴人を救済することに繋がります。

 もちろん、告訴人は告訴人の生の自由とあらゆる可能性を悉く奪い尽くし、破壊し尽くした彼ら彼女らを絶対に許すつもりはありません。ただ、彼ら彼女らを「犯罪者」として象徴的に意味付けて厳正に処罰していただかない限り、自分自身の犯した違法行為によって地獄に墜ちた彼ら彼女らが救済されることは絶対になく、彼ら彼女らが救済されない限り、告訴人も救済されることは絶対にないということだけは分かっています。

 告訴人の生の一切を破壊し、生きることそのものを妨害し続けている彼ら彼女らの違法行為に見合った厳正なる処分が行なわれるよう、最後に強く求めることで上申書の結びといたします。