嘆 願 書
東京高等検察庁 検事長 西川克行殿
平成28年4月5日
告訴人井上×××
告発人M
この自殺教唆判決書は、公正中立な第三者である民事裁判所が、法律にのみ依拠して厳正に裁判を行なったにも拘わらず、偶然にも事実を純粋に誤認してしまい、その誤認に基づいて書かれたものであるなどとは断じて言えません。この自殺教唆判決書は、裁判所が自らの信念を故意に捻じ曲げて片方の当事者である○○大学に完全に味方し、井上×××を社会的に抹殺するという明確な悪意と増悪を持って、あらゆる法的根拠を完全に無視して書かれたがゆえに、民事裁判において決して存在してはならないものです。
同様に、東京地検立川支部の元検察官検事たちによる被疑者たち全員の不起訴処分決定は、起訴に関する絶対的な権限を与えられた検察官検事が、刑事訴訟法にのみ依拠して厳正に刑事手続きを行なったにも拘らず、偶然にも告訴事実を純粋に誤認してしまい、被疑者たちに違法行為は認められないとして行われたものであるなどとは断じて言えません。東京地検立川支部の元検察官検事たちによる告訴人に対する残酷極まりない仕打ちは、検察官検事たちが自らの信念を故意に捻じ曲げて被疑者たちに全面的に味方し、その違法行為を完全に隠蔽するという明確な意図を持って、正当な刑事手続きを踏まずに行われたがゆえに、刑事捜査機関においては決して許されてはならないものです。
民事裁判所の裁判官たちも検察官検事たちも、その大部分は法に基づき社会的正義の実現に向けて真摯に公的業務に従事しているが、極めて少ない例外として誤った民事判決が出される、あるいは刑事罰が無実の個人に課されるといった不幸な出来事が発生してしまうという前提からは、上記二つの事実は完全に逸脱しています。そして最高検が、違法行為を見逃すという目的に向かって告訴人たちに最大の打撃を与えるような手段で、告訴状と告発状を返送してくるなどということは、公的業務に従事する者たちが故意に誤りを犯し、社会的不正義を実現するという目的に向かって不正手続きを進行させているという意味で、本来ならば決して起こってはならない例外が規則になっているものと断ずる以外にありません。法が存在しているのは国家秩序と国民の権利を保護するためであると、国民は生涯に亘って教育され続けますが、実際のところは、民事裁判所も刑事捜査機関も、しかも最高検までもが社会的不正義を実現するために公的業務に従事しているという真実が国民の知るところとなれば、国民が法に対して信頼を抱くことは二度と不可能になります。
そのような次第で、井上×××の2つの告訴状と、同一の刑事事件をそれぞれ別の角度から告発しているMの告発状、○○○○の2つの告発状を、最高検が特捜部を通じて、異例の速さで返戻してくるしかなかった理由も自ずと判然としてきます。○○大学、民事裁判所、東京地検立川支部という、それぞれ法に携わる組織に属する者たちの共謀による、○○大学の犯罪の完全隠滅などという前代未聞の大規模な違法行為を、仮にも立件して公にしようものなら、法的秩序と国家秩序が崩壊してしまうという判断に、恐怖とともに咄嗟に辿り着いたからであるとしか考えようがありません。その完全隠滅という犯罪を完遂するために作成された、特別公務員職権濫用罪の構成要件に十分に該当していると思われる自殺教唆判決書が仮にも公になったりすれば、裁判所や裁判官に対する国民の信頼が完全に失墜して、司法秩序が根底から瓦解してしまうという判断に、戦慄とともに即座に辿り着いたからであるとしか考えようがありません。即ち、法の番人たちの共謀によるこのような空前絶後の大犯罪、そしてその大犯罪の核心に位置する自殺教唆判決書の存在は、「裁判所では、どんな犯罪も自由自在に隠蔽できる」、「裁判所とは、社会的強者の犯罪を隠蔽=抹消するためなら、どんな違法判決書でも躊躇なく作成する」、「どんな犯罪を実行しても、裁判官が率先してやっているのだから大丈夫だ」といった通念を、国家全土にたちまち疫病のように蔓延させてしまうという判断を最高検は下したのであると、私たちは確信しています。つまり、そのような至極もっともな理由により、最高検は、井上×××によって告訴されている法治国家を解体させかねない大犯罪を「隠蔽」することに決定したのであると、私たちは確信しています。さらに言い換えれば、その大犯罪を「隠蔽」することにより、その大犯罪の瀕死の被害者である井上×××を見捨てる、見殺しにする、加害者たちの犠牲になって死んでいくかもしれないが(法治国家の見せかけの維持のために)犠牲になってもらうことに決定したのであると、私たちは確信しています。
しかし、最高検がどこまで自覚的であるのかは分かりませんが、このような判断が根本的に転倒していることはあまりにも自明です。国家秩序を脅かし、司法秩序を解体の危機に晒したのは、大犯罪の被害に遭ってその被害事実を告訴した井上×××では断じてありません。大犯罪を実行した加害者たちの方であることには、万人が同意するはずです。繰り返しますが、国家に逆らって法的秩序を崩壊の危機に導いたのは、まずは○○大学であり、それから○○大学の犯罪を隠蔽した国家機関に属する民事裁判所の裁判官たちであり、同様に○○大学の犯罪を隠蔽した国家機関に属する東京地検立川支部の検察官検事たちなのです。国家秩序に実際に逆らったこれらの違法行為の実行者たちが国家によって、法によって、しかもその頂点に君臨する最高検によって保護され、なぜ彼ら彼女らによる大犯罪の被害者である井上×××は、法による保護の外に延々と捨て置かれ、法によって、国家によって見殺しにされ続けなくてはならないのでしょうか? 国家秩序に逆らった国家機関に属する者たちの違法行為、もっと端的に言えば、国家の違法行為はどんなことがあっても隠蔽されなくてはならず、運悪くその被害に遭った者は、国家の違法行為の隠蔽のために犠牲になって死んでいかなければならないということなのでしょうか? もし、本当にそうだとすると、法治国家とは、法に守られた事実上の無法地帯であるということにはならないでしょうか? 法治国家においては、国家が必ず隠蔽してくれるので、国家機関に属する者たちは、違法行為を実行することを潜在的にはつねに許容されているということにはならないでしょうか? そうであるなら、法治国家において、法と無法を区別する境界はつねに恣意的に移動していることになり、法と無法を区別することができる者は一人として存在しないということになってしまいます。その事実上の無法状態、あるいは潜在的な例外状態を維持しておく必要があるために、国家機関に属する者たちによる違法行為の被害者は決して救済されず、犠牲者であり続けることを受け入れるしかないということなのでしょうか?
前田恒彦元大阪地検特捜部主任検事は、国家機関に所属していたにも拘わらず、大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件において、証拠隠滅罪で懲役1年6ヶ月の判決を受けるという刑事罰を課されました。しかしながら、この度の事件における、同様に国家機関に属する者たちである違法行為の実行者たちが、刑事罰を課されるどころか捜査対象にすらならないという実に目眩のするような非対称が許容されているのは、一体なぜなのでしょうか?
その答えは明白であると考えます。前田恒彦氏は、善意の検察官検事であり社会的正義という目的を実現しようとするが余り、許されない違法行為を実行してしまったが、その動機においては善意の検察官検事が実行した違法行為であるため、刑事罰を課しても国家秩序が揺らぐことはない。また、法に携わる者たちが軽微な違法行為を犯し、刑事罰を課されたとしてもそれは少数であり、大多数は善意を持って真摯に業務に従事しているため、刑事罰を課しても国家秩序が揺らぐことはない。即ち、国家秩序が揺らぐ危険性がない範囲内では、国家に対する違法行為に厳正なる刑事罰が課されるということです。
しかしながら、井上×××が被害者にされたこの度の国家の違法行為は、その質において根本的に異なります。民事裁判所の自殺教唆判決書は、社会的不正義を強引に受け容れさせるために、明確な悪意を持って一切の法的手続きを踏まずに出されました。そして、最高検までもが、違法行為を犯した者たち全員を許容し、犠牲者である井上×××を救済しないという決定を行ないました。これは、違法行為を取り逃すという社会的不正義に向かって、東京地検立川支部の検察官検事たちが悪意を持って違法行為の隠蔽を謀ったこと自体を完全隠蔽しようとする、最大の社会的不正義の行使以外の何ものでもありません。社会的不正義の実現に向けて裁判官と検察官が業務に従事していることが例外として起こっているのではない(=規則として起こっている)という真実が、周知の事実として国民の間に定着した瞬間に国家に対する国民の信頼は根底から瓦解します。私たちは、文字通り法の保護の外に捨て置かれた状態で4年余りの年月を闘い抜くことを通じて、国家秩序が揺らぐ程の違法行為が行われてしまった場合には、国家秩序を維持するという目的のために、違法行為の実行者たちへの刑事罰の適用は免除され、違法行為は完全隠蔽されるという事実を知悉するに至りました。したがって、前田恒彦氏の違法行為が処罰されたことに伴い、2010年9月21日、起訴休職処分が解かれ、厚生労働省に大臣官房付として復職し、自身の名誉と権利が回復された厚生労働省元局長・村木厚子氏のような救済は、国家秩序が揺らぐ程の違法行為の犠牲者とされた井上×××には決して訪れないという残酷な事実を、一点の曇りもない明証性の下に認識するに至りました。