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(証拠資料)「『最終解決個人版・未遂の記――絶滅を待望された被害者の証言』完成版のためのノート(2)――「人権」を絶滅させるテロ行為としての本件大組織犯罪」全文(井上作成)

『最終解決個人版・未遂の記――絶滅を待望された被害者の証言』完成版のためのノート(2)――2022年1月3日

「人権」を絶滅させるテロ行為としての本件大組織犯罪

井上 ×××

1.「人権」について、及び「人権」を絶滅させるテロリズムについて

 「人権」の実体、あらゆる文脈を貫いて絶対的に不変である「人権」のオリジナルな中身について真剣に考えたことがある人はいるだろうか。「人権」の意味ではなく、「人権」という記号が指示する「人権」という記号の外、言葉の外に現実的に存在する「人権」の実体について。

 大部分の人は日本国憲法を反射的に参照し、「永久に保証された不可侵の基本的人権のことであり、<内在的制約>に反しない限り、十分に尊重されなくてはならない」(11条、12条)、「個人の尊重、生命・自由および幸福追求の権利」(13条)、「全ての国民は法の下で平等であり、人種・信条・性別・社会的身分などにより差別されない」(14条)などの文言を、「人権」のオリジナルで不変の定義であると考えるだろう。しかし、憲法の条文は「人権」という記号の飽くまでも定義であり意味内容であって、「人権」という記号が指示する純粋に言語外の「人権」のオリジナルな実体へと私たちを送り届けてはくれない。もし、あらゆる文脈を貫いて絶対的に不変である「人権」があらゆる人間に生得的に内在しているのであれば、16の「主な人権課題」(法務省ホームページ)に法務省が取り組む必要はないことになるし、自分以外のあらゆる他者に不可侵の身体の一部のように「人権」が実在していることをどんな人間でも畏怖の念とともに知覚し得ないはずはないことになる。「主な人権課題」で取り上げられている一切の「人権問題」、「人権侵害」は、原理的には起こり得ないことになる。

 そうすると、あらゆる文脈を貫いて絶対的に不変である「人権」のオリジナルな中身、「人権」という記号が指示する純粋に言語ではない「人権」の実体は、おそらく誰もがそう感じているように存在していない。存在しているのは、あらゆる文脈を貫いて絶対的に不変であることを常に既に目指されている「人権」、しかしその実現が常に既に先送りされ続ける「人権」、侵害されることに依存しなければ(侵害されることに先行されなければ)自らを主張できない「人権」、即ちその実現が常に既に不可能であり続ける「人権」である。したがって存在しているのは、それが指示したい実体を言語外に絶対に見出すことができない「人権」という記号だけである。自らに宿したい「絶対的価値」を、いつまで経っても言語の外に現前させることができない「人権」という記号だけなのだ。

 記号である「人権」は、「人権擁護」「人権尊重」「人権侵害」「人権蹂躙」「人権問題」「人権課題」「人権派」といった表現で使用されるいずれの「人権」とも一致しない。しかし同時に、不変的でオリジナルな意味=価値をもたないために、いずれの「人権」とも不完全に一致してしまう。「人権」という同じ一つの記号は、それ自体としては空虚な容器である。人間世界に溢れ返る事件や暴力行為の潜在的には無数の文脈のなかを「人権」という同じ一つの記号が反復的に通過し、反復される度に「人権」という同じ一つの記号は異なった意味を受け取り、「人権」という同じ一つの記号は異なった意味が増殖するばかりの容器となる。だからこそ「人権」は、「人権」という記号が付けられた複数の表現で使用されるいずれの「人権」とも一致せず、同時に不完全に一致してしまうのである。一致せず、同時に不完全に一致する。しかし、「人権」が「人権」という記号の外に、自らと完全に一致する「絶対的価値」の純粋現前を希求しながら生き延びていくための、それこそが条件なのだ。「人権」の「絶対的価値」の純粋現前は永遠に未到来であるとしても、この永遠の未到来だけが人類をして「絶対的価値」としての「人権」の追求を停止させない条件なのだ。逆に言えば、どこかの「人権」勢力・「人権」集団・「人権」団体が、自分たちこそが「人権」の「絶対的価値」の体現者であり、自分たちだけに「人権」のオリジナルで純粋な意味が宿ると主張したとき、そして特定の他者たちの「人権」を一切の対話・関係を排除して完全否定したとき、人類による「人権」の追求は強制的に停止させられる。「人権」は永遠に未到来であることを止め、未来のどこかに存在し得る可能性を完全に喪失する。「人権」という記号は、それを独占した者たちが他者たちの「人権」を完全否定する凶器としてのみ存在し続け、無数の文脈の中を通過する記号としての性質を失い、無数の異なった意味を受け取る容器であることを止める。

 「人権」を独占すること、他者の「人権」を完全否定することは、「人権」の「絶対的価値」の飽くことなき追求の過程にのみ存在し得る「人権」そのものを完全否定すること、「人権」(の到来可能性)を殺すこと、即ち「人権」を人間世界から絶滅させることである。中央大学、中央大学が癒着・一体化してきた「人権」勢力、和知孝紘の親族、渋村晴子を始めとした弁護士たち、太田武聖を始めとした裁判官たち、森川久範・二瓶祐司を始めとした検察官検事たち、当時の最高幹部検事たち、その他一切の共犯者たち・協力者たちが本件大組織犯罪を通じて実行したことは、私とMの「人権」の完全否定であり、したがって「人権」そのものの完全否定であり、「人権」を絶滅させるという未曾有の大悪事にほかならない。未来というヴァーチュアルな空間だけに存在する可能性の空気が吸えず、彼ら彼女ら自身も「存在の耐えられない閉塞」に苦しめられるとしても、この未曾有の大悪事を私は迷うことなくテロリズムと呼ぶ。

 もし、貨幣があらゆる商品の価値鏡であることを止めてしまったら、あらゆる商品と交換できる唯一の商品であることを止めてしまったら、貨幣は単なる物質に還元され、人間世界は崩壊してしまうだろう。あらゆる商品は貨幣という鏡により自らの価値を表現するが、どれほど貨幣を反復的に費やしても商品の価値が十全に現前することは決してない(現前したと錯覚するのは常に商品の剰余価値である)。商品の価値が常に非現前であるからこそ、貨幣はあらゆる商品の価値鏡であることを止めず、したがって貨幣という第三項によって吊り支えられている人間世界は崩壊することを免れ続ける。

 「人権」という記号の役割はどこか貨幣の役割と似ている。「人権」は人間の価値(とりわけ「生命の尊さ」という価値)を映し出す殆ど唯一の価値鏡であり、人間は他者との関係におけるあらゆる行為様態を「人権」という鏡に映し出すことにより、人間としての自らの価値を表現する。しかし、「人権」が他者との関係における人間の行為様態をどれほど反復的に映し出しても、人間の価値が十全に現前することは決してない(商品と同様に、現前したと錯覚するのは常に人間の剰余価値である)。実際にいじめ、虐待、DV、マイノリティー差別、あらゆる領域に存在し続ける意識化困難な無数の差別など、人間の価値を下落させる暴力行為で人間世界は溢れ返っている。もし、「人権」という価値鏡が失われてしまったら、自己反省・自己対話のための僅かな距離も撤廃され、自己の姿・行為を映し出す鏡のない世界で、剥き出しの生と一致した人間は世界の崩壊に向かって盲目的に直進していくことになるだろう。人間の価値(とりわけ「生命の尊さ」という価値)は剰余価値としてしか現前せず、常に非現前であるからこそ、「人権」は人間の価値鏡として存続していくことができるのである。

 したがって、「人権」は貨幣と同様に人間世界を「常に未来に到来する価値の潜勢態」として吊り支えており、人間世界が崩壊する危険性を押し止めている。「人権」を独占すること、「人権」という価値鏡には自分たちの「絶対的価値」だけが映し出され、自分たちの「絶対的価値」だけが十全に現前していると主張することは、「人権」という価値鏡を破砕し、人間世界を吊り支えるというその比類ない役割を停止させてしまうことだ。「人権」を独占し、人間世界を崩壊の危機から守り続けるという役割を「人権」から抜き取ることは、「人権」そのものを絶滅させること、人間の価値(とりわけ「生命の尊さ」という価値)の現前の可能性を未来から完全に抉り取ること、未来そのものを到来不可能にすることだ。  

 これを他の人間たちの生存に敵対する、国家に敵対するテロリズムと呼ばないとしたら、一体何と呼ぶのだろう。中央大学と全共犯者・全協力者が本件大組織犯罪を通じて実行したことの代償は、それゆえ測り知れないものだ。

2.最初から最後まで私的「戒厳」のなかで

 私とMは3年ほど前からツイッターとブログにおいて本件大組織犯罪の「証言」を不断の決意で行っており、両媒体には中央大学が幾つもの刑法犯罪を実行したことを証明する複数の証拠が公開されている。それにも拘らず、刑法犯罪を実行したという事実など一度も存在したことがなかったかのように中央大学は広報を通じて、2023年4月から法学部が茗荷谷キャンパスに全面移転することを宣伝して止まない。直近の宣伝で私たちを最も驚かせたものは、「東京の中央で/リーガルマインドを/その手に 法学部1~4年生が2023年4月から茗荷谷キャンパス(東京都文京区)に移転します」(中央大学広報室ツイッターアカウント、2021年12月23日付のツイート)という宣伝文句だ。中央大学の法学部とは、本件大組織犯罪を引き起こした中心的犯罪主謀者である中央大学現副学長の橋本基弘が公法学(主に憲法)の教授として所属し、橋本基弘の大悪事に加担・協力した大勢の教職員が所属する法学部である。その法学部が「東京の中央」に移転し、そこで法律を学習すれば「リーガルマインド」を会得できるらしい。主に法学部所属の教職員が強要罪、偽造証拠作成・提出を始めとした数々の刑法犯罪を実行したという事実(井上のツイッターアカウントの固定ツイートには、中央大学が裁判に提出した偽造反訳書の一部が証拠として公開されている)と、上記宣伝文句とりわけ「リーガルマインド」との間には、正気の沙汰とは到底思えない恐ろしい断絶がある。中央大学における「人権」という価値鏡の不在が、「人権」の体現者は自分たちだけであるという中央大学の強烈な主張が、この断絶には実に見事に宿っている。

 茗荷谷キャンパスで「リーガルマインド」を養成するため中央大学法学部の専門科目の担当教員たちは、「平時」の憲法・法律を本当に何事もなかったかのように教えられるのだろうか。その可能性に信憑性が全く伴わないのは、2012年4月11日に強要罪を実行して私とMを大学から追放・抹殺するため、前日の4月10日に橋本基弘が私的な「戒厳令」を発令し、「平時」の憲法・法律の効力を停止して以降、10年近い年月が経過した現在に至ってもそれは解除されないままであるからだ。言い換えれば、中央大学は現在に至るまで法治国家に回収されず、法治国家の内部における外部として、即ち無法治状態として存在し続けることを自らに容認しているからだ。したがって、(本当に実現するとすれば)法学部の茗荷谷キャンパスへの全面移転も「リーガルマインド」を含む上記宣伝も、私的「戒厳」のなかで、無法治状態のなかで行われる/行われていることにしかならない。

 橋本基弘たちは不正な「利権獲得」への欲望を共有する和知孝紘の親族と共謀し、欲望の実現にとって最大の障碍である井上とMを大学から追放・抹殺するため、井上とMが和知孝紘に対し「重大な人権侵害」を行なっているという虚偽の物語を捏造した上で、その虚偽の物語を「緊急事態」とした。井上とMを確実に追放・抹殺するため、国民の権利を保障する憲法・法律の効力を一時的に停止してもよい条件を自分たちが捏造した虚偽の物語によって作出し、偽りの「緊急事態」に基づいて私的な「戒厳令」を発令した。戒厳とは、通常の民事法・刑事法の適用は一部乃至全部が停止され、行政権・司法権の一部乃至全部が軍部の指揮下に移行することだ。中央大学にとって軍部に相当する者たちとは誰々だったのか。中央大学自身、そして中央大学が癒着・一体化してきた「人権」勢力である。中西又三による自殺誘導を狙った文字通りの「重大な人権侵害」の直後に井上が本当に自殺していれば、私的「戒厳令」は直ちに解除され、憲法・法律の効力の停止は一時的なもので済んでいたことだろう(橋本基弘・中西又三たちは、2012年4月11日の強要罪をなかったこととし、井上の自殺との間にどんな因果関係の痕跡も残らないように画策していた)。ところが井上は自殺せず、Mや支援者たちとともに中央大学への抗議活動を開始した。この瞬間から私的「戒厳令」は二度と解除できなくなり、憲法・法律の効力を期限不確定の状態で延々と停止し続けなくてはならなくなった。私たちが救済を求めた文科省にも違法に介入して私たちの救済を阻止し、またも「緊急事態」を利用して理事長の決済を取らずに「偽装解雇」を強行し、司法権を剥奪して裁判所の法廷を組織的殺人の犯罪実行の舞台に変容させた。行政権(検察権)にも違法に介入して強要罪に刑事訴訟法を適用させず、最終的には中央大学の全犯罪を二度と申告させないよう告訴権・告発権を剥奪させるという超法規的暴力を当時の最高幹部検事たちに行使させた。2012年4月から2016年4月までの過程において民事法・刑事法の一切の適用が停止され続け、恐るべきことに裁判官・検察官・弁護士は彼ら彼女らの武器である法律を何一つ使用できない状態に繋留され続け、「人権」勢力と一体化した中央大学は憲法・法律の拘束を一切受けずに憲法・法律の上位審級であり続けた。

 『現代思想と証言』に公開中の対中央大学訴訟第二審に提出したNN弁護士作成の「証拠申立書」の「第2 立証の趣旨」を参照して頂きたい。「(2)本件閉講措置による出勤停止の措置は、権利濫用により無効であること(3)本件解雇が権利濫用により無効であること」。「権利濫用により無効であること」を現実化させないため、橋本基弘は偽りの「緊急事態」を作出して憲法・法律の効力を停止させる「戒厳令」の私的発令に及んだのである。田村幸一の心証では4つの「立証の趣旨」は立証するまでもなく自明であり、和知孝紘の証人尋問など中央大学が同意するはずがないことも自明であった。田村幸一は中央大学を逆転敗訴させるつもりでいたと私はますます確信する。そこで「人権」勢力と一体化した中央大学は第1回口頭弁論のあとで再び司法権を剥奪し、ひと月半ほどの間に田村幸一の姿を同一人物とは思えないほど変貌させ、第一審に続いて法的根拠の全くない判決書を書くことを強要した(第二審判決期日には、中央大学側の代理人弁護士は勿論欠席したので、田村幸一が強要を受けた「証拠」として法壇で曝したその変わり果てた姿を目撃していない)。

 「緊急事態」を捏造し、それに基づいて私的な「戒厳令」を発令し、自らを「戒厳司令官」とした橋本基弘に代表される中央大学は、中央大学と一体化した「人権」勢力の軍事力ならぬ暴力により、司法権と行政権(検察権)を剥奪して自分たちの利権獲得にのみ全面的に奉仕するよう強要したのだ。私とMを標的とする組織的殺人行為に加担・協力するよう強要したのだ。これを、国家作用を致命的に壊乱するテロリズム、国家権力に敵対するテロリズムと呼ばないとしたら、一体何と呼ぶのだろう。

  ・どこまでの成果・被害をもって勝敗が決し戦闘を終結させるかについての指針がない。

  ・暴力の行使について法的な根拠がない。または訴訟、告発、裁判を回避するために暴力を行使する事がある。

  ・犯罪を犯した構成員が適切に処罰されていない。

  ・紛争に勝利し戦略目標を完遂した後の政治的展望がないか、実現不可能と目されるような展望をもっている。

 (以上のような条件を満たせば、テロリズムと呼ばれることになる。【テロリズム】(てろりずむ)『航空軍事用語辞典++』から引用)

 法律を適用する国家作用を連続的に破壊し続けた私的な「戒厳」により、私とMの「人権」(の内在可能性、生きるに値する生である可能性)は完全否定の暴力を延々と受け続けて今に至る。既述のように特定の他者の「人権」の完全否定は、人間の価値鏡である「人権」そのものを完全否定することだ。人間の価値(とりわけ「生命の尊さ」という価値)の現前可能性が唯一宿る未来を到来不可能にしてしまうことだ。もっと言えば、中央大学と、中央大学と一体化した「人権」勢力だけに「人権」は内在するので、彼ら彼女らの「絶対的価値」の純粋現前を妨げる者は粛清してかまわないということだ。他の人間は、私たちは、人間ではなく虫けら同然でもなく最底辺に棲息する虫けらなので、法律が適用されない無法地帯で殺害してもかまわないということだ。私的な「戒厳」によって、恐怖の権力によって法律という武器の使用を禁止された法律家たちも、おそらく殺されないために彼ら彼女らの「絶対的価値」の持続的現前に協力を惜しまず、私とMを標的とする組織的殺人行為に加担した。法治国家の崩壊の序曲、人間世界の崩壊の序曲はもう始まっているというしかない。

 「人権」勢力の「人権」ではなく、あらゆる人間がその潜勢態を内在させている「人権」は、<他者>の他者性、あるいは<他者>の異邦性に似ている。レヴィナスが「倫理」と呼ぶ<他者>の異邦性を中央大学と「人権」勢力が記憶の深みから呼び戻さない限り、人間世界の崩壊の序曲は止められないだろう。

  <同>の審問が<同>の自我中心的自発性においてなされることはありえない。<同>の審問は<他>によってなされるのだ。他者の現前によって私の自発性がこのように審問されること、われわれはこれを倫理と呼ぶ。<他者>の異邦性とは<他者>を<自我>、私の思考、私の所有物に還元することの不可能性であり、それゆえ<他者>の異邦性はほかでもない私の審問として、倫理として成就される(エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限――外部性についての試論』46‐7頁、合田正人訳、国文社、1992年)。

3.真偽の彼岸、出来事の証言の彼岸で「神」のごとく

 中央大学、中央大学と共謀した和知孝紘の親族、そして中央大学と一体化した「人権」勢力は、私とMに限らず誰にとっても不意に到来する「出来事」の外にいる。彼ら彼女らは「出来事」(例えば強要罪という「出来事」)をあらかじめ準備し、「出来事」の意味をあらかじめ全的に所有し、自分たちを除く「出来事」の参加者からその「出来事」の意味の所有権をあらかじめ完全に剥奪し、「出来事」から派生する一切の影響を受けないという自由をあらかじめ確保している。まるで、ライプニッツが『モナドロジー』で描出している過去の情報の総体、未来の情報の総体を保持している完璧な記録保存者である「神」のように彼ら彼女らは時間の外にいて、時間の影響を受ける法律より上位の存在であると自負しているかのようだ(そうでないとすれば、「中央大学は世界一」などという誇大妄想的評価をどうして自己に与えることができるだろう)。勿論そんなことはあり得ない。彼ら彼女らは、常にこれから到来する自分たちの支配が及ばないかもしれない「出来事」には参入せず、その意味と効果・結果の所有権を自分たちが独占できると確信した「出来事」、あるいは独占できるようにあらかじめ準備・操作した「出来事」にしか参入しない。次に引用するリオタールの一節にあるように、「出来事は、己れが何であるかを自己が所有し制御することを不可能に」してしまうからだ。

  「今」が絶対的であるという事実によって、「今」が現前させる現在は把捉不可能です。それは「いまだなお」、あるいは「もはやすでに」現在ではないのです。現前化そのものを把捉してそれを現前化するには、つねに早すぎるか遅すぎるのです。出来事の特殊で逆説的な構成とはそういうものです。何かが到来するということ、つまり出現が意味することは、精神が所有権を剥奪されているということです「~が到来する」という表現は、自己による自己の非支配の定式そのものです出来事は、己れが何であるかを自己が所有し制御することを不可能にします出来事は、自己が本質的に、回帰する他性を感受する存在である、ということを証言しています(ジャン=フランソワ・リオタール『非人間的なもの――時間についての講話』80頁、篠原資明/上村博/平芳幸浩訳、法政大学出版局、2010年、下線井上)

 したがって、2012年4月11日から10年間の長きに亘り私とMの生の自由な展開可能性が破壊され続け、それどころか生存可能性がいつ切断されても全く不思議ではない極限状態に私たちが絶えず繋留され続けたのは、中央大学と和知孝紘の親族、そして中央大学と一体化した「人権」勢力が、本件大組織犯罪という巨大な「出来事」によって「己れが何であるかを自分たちが所有し制御することを不可能に」されてしまうことに全力で抵抗し続けたからだ。本件大組織犯罪という巨大な「出来事」によって、彼ら彼女らの「自己が本質的に、回帰する他性を感受する存在である」ということを「証言」されてしまうことに全身全霊で逆らい続けたからだ。憲法・法律の上位に君臨する最終審級としての「神」であり続けるため、人間の精神のように不完全なモナドには永遠に非現前である未来の情報を含んでいるがゆえにその過去把持が必ず完全である「神」であり続けるため、「世界一」であり続けるため。私たちの「証言」は、本件大組織犯罪という巨大な「出来事」を彼ら彼女らに「到来させる」ため、「自己による自己の非支配の定式そのもの」、「(彼ら彼女らの)精神が所有権を剥奪されているということ」、したがって彼ら彼女らは「神」ではなく不完全な人間であることを彼ら彼女らに思い出させるため、そのためだけに続けられる。

 彼ら彼女らの自己は「回帰する自己の他性」に対する感受性を、彼ら彼女らが独占する「人権」の「絶対的価値」の純粋現前を阻害する感受性を、どれほどの対価を払って抑圧してきたことだろう。そんな感受性を不用意に喚起されてしまえば「法の下での平等」を思い出すことを余儀なくされ、私たちに対する(及び別の他者たちに対する)生命を脅かすほどの自分たちの暴力行使は「人権侵害」ではあり得ず、私たち(及び別の他者たち)のあらゆる行為・言説は自分たちに対する「人権侵害」の潜勢態であり、それを現勢化させる権限は自分たちだけに属するという絶対的非対称を放棄せざるを得なくなるだろう。

 

 中央大学が「人権」勢力と癒着・一体化してきた背景には、憲法・法律より上位に君臨する最終審級=「神」でありたいという欲望が存在していたことはおそらく間違いない。即ち、憲法・法律に違反する行為や刑法犯罪を実行しても決して事件化させず、看過黙認させる恐怖の権力=超法規的権能を身に帯びたいという欲望だ。証拠や事実確認という法律的糾明による拘束から「真偽」を解き放ち、「真偽の彼岸」に逸脱して自分たちの都合のいいように「真偽」を操作し、あるいは「真偽」に拘泥する一切の法的・社会的責任とは絶縁してしまいたいという欲望だ。「真偽の彼岸」においてしか獲得できない不正な利権を「人権」勢力と親密な関係を築くことで共に追求し、獲得した利権をお互いの永続的発展のために相互協力的に使用するようになったのだと推察する。

 では、中央大学が癒着・一体化してきた集団がなぜ「人権」勢力であるのか。彼ら彼女らはどんな文脈・状況・関係においても自分たちの位置を無条件に「差別される側」「人権侵害を受ける側」として固定化し、一切の反論・説得・異議申立て・別の視点の提示も論拠を示さず撃退するどころか、それらも自分たちに対する「差別」「人権侵害」として糾弾する。いかなる対話・議論・意見交換・相互理解・相互尊重の余地もない。なぜなら彼ら彼女らの自己定義は「絶対的被差別者」であり、常に既に「人権侵害を受ける被害者」であり、それ以外の者として彼ら彼女らを認識することもまた「差別」「人権侵害」であり、したがってそれ以外の者として彼ら彼女らを認識する自由・権利は最初から彼ら彼女らによって剥奪され禁止されているからである。どんな自己言及・自己対話・自己懐疑の空隙も彼ら彼女らの内部に開かせることは不可能である。利権を共有していない「人権」勢力集団外のいかなる他者との関係空間も、意味の決定権は彼ら彼女らにしか帰属していない以上、関係不在の閉塞した空間となる。「絶対的被差別者」という自己定義から一歩も外に出ない彼ら彼女らは、「常に既に差別される被害者」としてしか自分たちを現前させないことにより、利権を共有していない自分たち以外のあらゆる人間を自分たちに対する潜在的「差別者」「加害者」として断定しており、いつ「差別者」「加害者」として顕在化させられ、糾弾対象にされるかは全く分からない。法律家であろうと官僚であろうと大学教員であろうと、彼ら彼女らに対する「差別者」として認定されたら、「差別」したことに対する報復を法律の外で、私的制裁として受けることを免れない。したがって、唯一の「絶対的被差別者」という不動の自己定義により、「人権」勢力は誰に対しても超法規的暴力を行使することを自らに許容し、社会的・生物学的に抹殺されるかもしれない恐怖によって誰であれ許容してしまうという意味で、法治国家の外部・上位に君臨する全能の「神」の位置を確保している。自分たちの利権獲得に貢献しないあらゆる人間の生殺与奪権を、唯一の「絶対的被差別者」という自己定義を無敵の武器、無敵の根拠として「人権」勢力は所有するに至ったのである。法律家や捜査機関ですら恐怖のあまり統御することができない「人権」勢力のこの無敵の武器、全能の「神」の位置こそ、中央大学が彼ら彼女らと癒着・一体化してきた最大の理由であると確信する。

 そうすると、中央大学が教育理念としている「一切の差別を許さない」を到底文字通りに受け取ることはできない。それは、本当は「人権」勢力に対する一切の差別を許さない」の「「人権」勢力に対する」を周到に隠蔽(=故意に省略)した表現なのである(「人権問題講演会」が毎年開催され、2011年まで「人権」勢力に対する差別問題が頻繁に主題とされた。2012年以降一度も主題化されていないのは、強要罪と偽装解雇の根底には「人権」勢力に深く関わる動機が存在していたことの無言の「自白」である)。「人権」勢力に対する潜在的「差別者」「加害者」としてあらかじめ断定されている「人権」勢力集団外の(不正な利権獲得に貢献しないか、あるいはその障碍となる)中央大学内部の任意の人間を「差別者」「人権侵害の加害者」としてある日突然顕在化させ、憲法・法律に全く依拠しない私的制裁を加えられる絶対条件を、教育理念の名を借りて脅し文句として定着させたのだ。「人権」勢力に対する「差別者」「人権侵害の加害者」としてある日突然顕在的に特定された人間は、彼乃至彼女の言動の一体何が「差別」「人権侵害」に相当するのか分からず、茫然自失状態に陥る。「差別」の有無、「人権侵害」の有無を決定する権利は彼乃至彼女からあらかじめ剥奪されており、彼乃至彼女の言動の何が「差別」「人権侵害」に相当するかを決定する権限は中央大学内部の私的制裁の代行機関、ハラスメント防止啓発運営委員会に独占されている。

 詳しくはMが作成した証言、『和知孝紘という固有名を用いた組織的殺人行為としての本件大組織犯罪』を参照して頂きたいが、中央大学ハラスメント防止啓発委員会によるハラスメントの定義は以下のようなものである(但し、これらは中央大学ハラスメント防止啓発委員会のガイドラインにも規程にも存在しない。組織的殺人行為としての対中央大学訴訟が進行中であった2013年度の中央大学報告書「第6章 学生生活支援」の「3)ハラスメント防止啓発活動等」には「学内各所におけるハラスメント防止ポスター「NON HARASSMENT MOVEMENT」の掲示」という一節があり、同ポスターに記載された「ハラスメントとは」に回答する形で定義されている。「学部生・院生編」と「教職員編」の二つの若干異なるハラスメントの定義が明記されている。以上は、Mが大変な労力を費やして調査してくれた結果、初めて露見した極めて重要な情報である。私がこれらの情報をMと共に「証拠」として開示できるのは、煩瑣な調査作業を辛抱強く行なってくれたMの身体的・知的労力の惜しみない使用のおかげである。この場を借りてMに限りない謝意を表しておきたい)。「本人の意図に関わらず、相手方が不快に思ったり、不利益を受けたと感じた場合、その発言や行動はハラスメントです。ハラスメントは人権侵害行為であり、その発生によって、被害者の修学、就業環境は大きく損なわれます」(学部生・院生編)。「ハラスメントは、受け手の判断が重要視されます。こちらに悪意はなかった「つもり」でも、相手が不快に感じたら、それはハラスメントとなりえます。この言動をしなければハラスメントにならないと言う絶対の安全基準はありません」(教職員編)(下線井上)。

これらの定義は代表的な「人権」勢力の執行委員長であった朝田善之助氏が確立した「人権」擁護理論、所謂「朝田理論」と酷似しており、同理論を全面的な参照項にしているとしか考えられない。「不利益と不快を感じさせたら全て差別となる。差別か否かというのは被差別者にしかわからない。差別と感じた者に全ての決定権と主導権がある」(朝田理論)。同理論を無批判に踏襲したハラスメントの定義は、したがって何がハラスメントであるかを決定する権限は「申立人=自称被害者」の感受性のみに帰属し、彼/彼女に不利益・不快を感じさせたら、文脈や状況がどうであれ(真偽は関係なく)一切の発言・行為・態度は無条件にハラスメントと認定され、断罪されるというものである。特に教職員編のハラスメントの定義は、教職員はハラスメント加害者の常に既に潜勢態であり、ハラスメント加害者としての認定・断罪を回避できる安全圏は中央大学には存在しないと事実上脅迫している。超法規的暴力が恒常化している中央大学という例外空間、即ち真偽の彼岸では、「最も無垢な身振りや最も些細な忘却が極端の極みといった帰結を惹き起こすこともある」(ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』80頁、高桑和巳訳、以文社、2003年)ということだ。 

 「朝田理論」とその明白な相似形である中央大学ハラスメント防止啓発委員会によるハラスメントの定義は、「差別されたと主張する者」「不利益と不快を感じたと主張する者」は絶対に過ちを犯さず、出来事の唯一絶対の意味は彼ら彼女らの経験にだけ宿るということを盲目的に前提にしている。「差別したと断定される者」「不利益と不快を感じさせたと断定される者」も「同じ」出来事の参加者であるが、彼ら彼女らの経験(の仕方)には出来事の意味が宿る余地は一切ないとあらかじめ決定されている。即ち、「同じ」出来事の「異なる」意味が、「同じ」出来事が「異なる」出来事にもなり得る一切の可能性が、「差別者」「加害者」は「差別者」「加害者」という意味に回収しきれないかもしれない一切の可能性が、あらかじめ徹底的に排除されている。「被差別者」「被害者」の経験だけを絶対的に純化させたいという不可能な欲望の実現は、真偽を見極めようとする一切の態度・一切の他者の介入との絶縁によってしか、即ち真偽の彼岸という例外空間によってしか可能にはならない。冤罪の生産は、「被差別者」「被害者」と彼ら彼女らの私的制裁の代行者にとっては、どんな罪悪感も伴わない「正義」の遂行の結果なのである。法的手続においては、出来事・事件の経験の意味を勿論誰にも独占させず、経験の純化を人間に可能な限界まで推し進めていくため、証拠の調査や複数人の証言を始めとした厳正な審理過程を必ず辿る。したがって、対中央大学訴訟も対中央大学新聞学会訴訟も、強要罪の「刑事捜査」も法的手続である資格を故意に完全に放棄しており、2012年4月11日の「正義」の遂行、即ち冤罪の生産を最終的に完成させるためにのみ存在した。「被差別者」「加害者」の範疇に自動的に分類されないため、分類に必ず後続する恐怖の私的制裁を免れるため、社会的・生物学的に抹殺される可能性を自分たちの未来から完全に排除しておくため。そのためだけに、中央大学、和知孝紘の親族、中央大学と一体化した「人権」勢力が法律の破壊行為を、「人権」を絶滅させるテロ行為を推し進めるに任せ、あまつさえ法律家である自分たち自身もテロ行為に加担した。

 朝田善之助氏は「差別者をつくるのは簡単だ」と絶えず豪語していたそうだ。中央大学も、私的制裁の代行機関であるハラスメント防止啓発委員会を使えば「ハラスメントの加害者、人権侵害の加害者を捏造することは簡単だ」と密かに豪語していたように思える。「正義」の遂行は勿論第三者の目を欺くための見せかけであり、和知孝紘という固有名だけを用いて「ハラスメントの被害者、人権侵害の被害者を捏造することも簡単だ」と密かに豪語していた可能性さえ十分に想定できる。中央大学においては、「人権侵害」は任意の人間・組織・共同体・公的機関などが他者に対して犯し得る様々な暴力行為を指示する記号では全くない。「人権」勢力と一体化した中央大学にとっては、「人権侵害」は不正な「利権獲得」のための手段でしかあり得ず、その手段を指示する記号としてのみ暗黙裡に共有され、使用されているのだ。憲法・法律の上位審級として絶えず君臨するため、どんな法令違反にも犯罪行為にも法律を適用させない特権を享受し続けるため、即ち真偽の彼岸において「中央大学は世界一」であり続けるため。

 中央大学、及び中央大学が一体化している「人権」勢力による他者の絶対的排除、したがって彼ら彼女らにおける自己言及の絶対的不在は、一見形而上学システムの内部で生きている者たちの存在様態に似ていると感じさせる。形而上学システムにおいては価値の階層構造、意味の位階序列が最終審級である神によって安定的に決定されているため、どんな被差別感情も喚起されることなく人々はそれらに同化し、一切の懐疑や自己言及を極めて自然に禁止して貰っている。しかし、中央大学及び中央大学が一体化している「人権」勢力は、自分たちが価値の階層構造、意味の位階序列を決定する最終審級=「神」として常に君臨することを欲し、自分たちが欲望する通りの世界に現実の世界を一致させるためならどんな暴力行為、どんな犯罪行為も厭わないのだ。本来の形而上学は、「真」なるものと一致するように語り、「善」あるいは「正義」と一致して行動することを可能にしてくれる基礎を神として人間に自ずと提供している。ところが中央大学及び中央大学と一体化している「人権」勢力は、自分たちこそが、自分たちだけがその基礎であると認識することを自分たち以外の殆どあらゆる他者に、法律家や官僚や捜査機関にまで最大限の暴力行使を用いて強要してくるのだ。真偽の彼岸で自分たちが決定した「真」なるものとだけ一致すること、善悪の彼岸で自分たちが決定した「善」及び「正義」とだけ一致して行動することを強要してくるのだ。

 彼ら彼女らが決定した「真」なるものとは、あらゆる文脈を貫いて自分たちは「絶対的被差別者」「人権侵害の絶対的被害者」であり、しかし同時にその唯一絶対の意味を誰にも侵犯させない恐怖の超法規的権能を独占的に所有しているがゆえに「神」であるという物語である。そう、それは物語であり、事実ではない。この物語の両立不可能な二要素――一方では「絶対的被差別者」「人権侵害の絶対的被害者」、他方では「神」――を、彼ら彼女らは自分たち自身の力で両立可能にしているのではない。彼ら彼女らによって「差別者」「人権侵害の加害者」として一方的に断定され、反論や異議申立ては勿論いかなる釈明も「差別」「それも人権侵害」として糾弾され続ける他者の絶対的無力という力に全面的に依存して初めて、彼ら彼女らが「真」として決定した物語の両立不可能な二要素は両立可能になるのだ。言い換えれば、彼ら彼女らは常に既に、あらゆる他者とは勿論あらゆる仲間との関係の外にたった独りでいても、「絶対的被差別者」「人権侵害の絶対的被害者」という意味で自分たちの精神と身体を充満させ続けることはできないのだ。「絶対的被差別者」「人権侵害の絶対的被害者」という意味で彼ら彼女らが自分たちの全存在を充満させるためには、彼ら彼女らによって「差別者」「人権侵害者」として一方的に糾弾され、一切の言説を「全て差別」「全て人権侵害」として彼ら彼女らに延々と封殺され続ける他者の存在が必要不可欠なのだ。自分たちが「絶対的被差別者」「人権侵害の絶対的被害者」として現前するため、あるいはそうでしかあり得ないことを反復的に思い出すため、再確認するため、絶対に出会わないことをその精神と身体に暴力的に刻み付けるためだけに他者と出会うことを必要とする。彼ら彼女らとの間に関係・対話・相互理解が発生する一切の可能性を彼ら彼女らによって暴力的に否定され、無力さの塊となって彼ら彼女らに侮蔑的に見下されるままになる他者、他者性・未知性のオーラを完全に抜き取られた他者の出現を必要とする。自分たちとの一切の交換可能性から排除された生贄のような惨めな他者、他者の残骸だけが「絶対的被差別者」「人権侵害の絶対的被害者」としての彼ら彼女らを同時に「神」の位置に押し上げてくれるのだ。

 彼ら彼女らにおける自己言及・自己対話・自己反省の絶対的不在を可能にしているのは、それゆえ形而上学の神ではない。彼ら彼女らが超法規的暴力の連続的行使によって自分たちとの一切の関係から排除し、一切の言説を剥奪して沈黙を強要し続け、その他者性・未知性・予測不可能性(即ち「人権」)を無力さの極点で完全否定されるままになる他者なのである。あるいは、自分たちと対等な関係を持とうとする他者を、言葉を持たない人間外の虫けらに貶める彼ら彼女ら自身の恐怖の超法規的暴力そのものである。「差別者」「人権侵害の加害者」と一方的に断定し、断罪と糾弾の限りを尽くした他者たちが、他者たちを「差別者」「人権侵害の加害者」として真偽の彼岸で差別する「絶対的被差別者」たち・「人権侵害の絶対的被害者」たちに「絶対的支配者」の位置を、即ち「神」の位置を、「至高の審判者」の位置を保障してくれているのだ。「絶対的被差別者」「人権侵害の絶対的被害者」という自己定義は、彼ら彼女らが法治状態の外で「差別の構造」を絶えず逆転させ、自分たちが「差別者」「人権侵害の加害者」として差別した他者たちを経由しない限り、彼ら彼女らにもたらされることは絶対にない。「絶対的被差別者」「人権侵害の絶対的被害者」という自己定義の反復再生産は、彼ら彼女らに「差別者」「人権侵害の加害者」として差別され、他者性(=「人権」)を完全否定された他者たちに全面的に依存している。他者の他者性・異邦性(=「人権」)の完全否定そのものに全面的に依存している。

 「絶対的被差別者」「人権侵害の絶対的被害者」は絶対に過ちを犯さず、出来事の唯一絶対の意味は彼ら彼女らの経験(の仕方)だけに宿るという「人権」勢力、及び「人権」勢力と一体化した中央大学の盲目的な前提を、以上の論理は完璧に切り崩し、破綻に至らしめたと考える。以上の思考の論理的帰結もまた「差別」「人権侵害」であると主張するためには、自分たちが「絶対的被差別者」「人権侵害の絶対的被害者」であることを一切の他者との関係不在という関係に依存せず、自分たちだけの力で厳密な論理により証明しなくてはならない。それだけではない。「絶対的被差別者」「人権侵害の絶対的被害者」という「神」の位置が、不正な「利権獲得」の手段として使用されたことは一度もないという命題を論証しなくてはならない。

 このような論理的要請も「差別」「人権侵害」であると本気で主張するとしたら、「人権」勢力であれ大学教員であれ、また法律家であれ、「法」という第三項の介入による剥き出しの生の否定を絶対に受け容れず、それゆえ彼ら彼女らは法的秩序・象徴的秩序への参入を頑迷に拒み続ける「イマジネール共同体」であると断言するほかはなくなる。

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 本件大組織犯罪の実行過程は、真偽の彼岸で井上とMを「絶対的差別者」「人権侵害の絶対的加害者」に暴力的に一致させようとし、井上を人間外の「寄生虫」に貶めた2012年4月11日の強要罪の連続的な反復である。

 不正な「利権獲得」を共通の目的とする「人権」勢力と一体化した中央大学・中西又三は、「人権侵害の絶対的被害者」の私的制裁の代行者として「神」のごとく振る舞った。自分たちとの関係・対話から井上を完全排除し、殆ど一切の言語を封殺することで井上における他者性・未知性(という不可侵の「人権」)を完全否定した。

 2012年7月26日、文科省の密室で梅木慶治氏の隣に座った暴力団紛いの男もまた、「人権侵害の絶対的被害者」の私的制裁の代行者として「神」のごとく振る舞った。自分との関係・対話の中に入ることを根拠なく禁止し、真偽の彼岸でMの言説を悉く圧殺するとともに井上からは全言説を剥奪してひたすら沈黙を強要し続けた。

 2013年1月30日に開始され、2014年2月26日に終結した対中央大学訴訟第一審では、中央大学の代理人弁護士・渋村晴子と古田茂、及び裁判長裁判官・市村弘と太田武聖が「人権侵害の絶対的被害者」の私的制裁の代行者として「神」のごとく振る舞った。裁判全体が自分たちとの関係・対話に井上とNN弁護士が対等に参加することを強硬に阻止し続けた。とりわけ渋村晴子は、真偽の彼岸で井上を「人権侵害の絶対的加害者」として執拗に断罪し、井上たちとの関係・対話の中には絶対に入ろうとせず、井上の他者性・未知性を完全に無視した上で「人権侵害の絶対的被害者」の代理人として井上を激しく糾弾し続けた。凄まじい悪意と憎悪を宿した口汚い言葉で井上を罵倒し続け、未来の生に繋がる一切の抵抗力(=「人権」)を井上から奪い取る目的で渋村晴子の準備書面も、太田武聖の「殺人判決書」も書かれていた。

 強要罪の捜査担当検事・森川久範と二瓶祐司は、NN弁護士を告訴人代理人として利用するという方法で自分たちとの関係・対話から井上を全面的に排除し、「人権侵害の絶対的被害者」の私的制裁の代行者として密かに「神」のごとく振る舞った。「鑑定に出す」と井上を散々欺罔した挙句、鑑定には決して出さずに真偽の彼岸で被疑者全員を不起訴処分とした。鑑定には出さないこと、被疑者全員を不起訴処分とすることを民事訴訟の裁判官たちに確約し、裁判における井上の「人権」の完全否定に積極的に加担した。

 「人権侵害の絶対的被害者」の私的制裁の代行者として、真偽の彼岸で最大級の超法規的暴力を井上とMに差し向けてきた「神々」は、2016年4月1日と14日に私たちから告訴権・告発権を剥奪した当時の最高幹部検事たちである。同書面は事実上の「死刑宣告」であり、私たちの「人権」の完全否定の最終的完成を告知している。同書面を作成・送付するという行為が、この国の真の支配者は「絶対的被差別者」としての「人権」勢力、及び彼ら彼女らと一体化している中央大学であり、彼ら彼女らはその受難の経験の唯一=特異性により憲法・法律の上位に君臨することを先験的に許容されているという物語(フィクション)への絶対的同意でないとしたら、一体何であるというのだろう。

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 現実世界が、あるいは法治国家が、恐怖を媒介としてその支配が浸透することをある程度受け容れてこざるを得なかったと思われる物語。

「人権」勢力、及び「人権」勢力と一体化した中央大学は、あらゆる文脈を貫いて「絶対的被差別者」「人権侵害の絶対的被害者」であり、しかし同時にその唯一絶対の意味を誰にも侵犯させない恐怖の超法規的権能を独占的に所有しているがゆえに「神」であるという物語。捜査機関でさえ恐怖で震撼させられてきた物語。

 この物語が、「人権」勢力及び「人権」勢力と一体化した中央大学が欲望している通りに「真」として現実世界に受け容れられていたがゆえに、空前絶後の規模の本件大組織犯罪は引き起こされた。しかしこの物語は、本当は「真」ではなかったため、ライプニッツの充足理由律がそうであり得たようには第一原理あるいは「根拠」なるものがこの物語には存在していないため、他者の「人権」(=他者の他者性・異邦性として成就される倫理)を完全否定した本件大組織犯罪は、あらゆる人間の生存権とそれを保障する法治国家に敵対するテロリズムとならざるを得ない。一人の人間の「人権」が完全否定され得るなら、あらゆる人間に「人権」なるものは本質的に宿っていないことになるからだ。「人権」とは人間の価値(とりわけ「生命の尊さ」という価値)の潜勢態を絶えず未来に映し出していく価値鏡であり、「人権」を絶滅させるということは人間の価値の現前の絶えざる約束である未来を到来不可能にしてしまうということだからだ。未来と呼ばれる時間は訪れても、極端ないじめや暴力による他者の存在否定・殺人を平然と実行できる非・人間で世界はますます溢れ返ることになる。

 しかし、本件大組織犯罪という未曾有の巨大な出来事は、犯罪実行者たちの一人一人がまだ人間であり、自分たちが破砕したとしても「人権」という価値鏡の本質的な役割を漠然とであれ知覚できるならば、彼ら彼女らの感受性に彼ら彼女ら自身の恐ろしい他性を必ず回帰させるだろう。

 私とMの3年に亘る証言が、本件大組織犯罪という怪物的な出来事を彼ら彼女らの元に到来させ、自分たちの精神がその出来事の所有権を剥奪されていることを彼ら彼女らは少しずつ思い出すだろう。自分たちが「神」ではないこと、未来が常に既に与えられている絶対的な記憶の所有者ではないことを、漸く思い出すだろう。

 本件大組織犯罪という狂気を内包する過去の出来事の未来からの到来は、自分たちが一体何ものであるかを彼ら彼女らが所有し、支配し、制御することを完全に不可能にしてしまうだろう。

 

 必ず回帰してくるあなた方が感受しないではいられないあなた方自身の他性。それが、あなた方が完全否定した私とMという他者の他者性の記憶、あなた方が知ることを最後まで拒否し続けた他者の圧倒的異邦性の記憶だ。

                                (未完)