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<性的差異「以前」という残余、あるいは無気味なもの> 資料
■ 私たちがすべてのものに対して――また、存在するかもしれないすべての読者に対して――行っている恐るべき排除について。地球全体。さまざまな「最終解決」のなかでも最悪の、際限のない最終解決、これこそ私たちが、君と私が、すべてを暗号化することで、宣言していることだ、私たちの衣服、私たちの一歩一歩の歩み、私たちの食べるものにいたるまで。
■ 私はまだ第二のホロコーストを夢見ている、それはそれほど遅くやってくるのではないかもしれない。私にはそれへの準備はできていることを知って欲しい、それが私の誠実さだ。私は誠実さの怪物だ、もっとも倒錯した不誠実な者だ。
1.
そのことは、とりわけ『家族、私有財産、国家の起源』から出発してなされる。エンゲルスのタイトルは、ヘーゲルのSittlichkeitの最初と最後の契機を再生産し、バッハオーウェンとモルガンの家族民俗学的研究から出発して、西洋キリスト教的中心の外に分析をもたらすのである。(ジャック・デリダ、『弔鐘』)
2.
このキリスト教的モデルの機能は、いかなるものか? いかなる意味において、それは思弁的な存在論-神学にとって範例であるのか? 与えられた歴史的条件に結びつけられた有限で特殊な構造として、その輪郭を描き、その位置をずらすことはできるのか? ここで表象されている歴史とは別の歴史を問うことはできるのか? 地平を、論理を、変えることはできるのか? (『弔鐘』)
3.
大文字の母なるもの――残余(する)。(『弔鐘』)
4.
私の母は、彼女自身を私として(私において)呼ぶのだが、そのような母を、私は私自身と〔=私自身に〕呼ぶ。(『弔鐘』)
(母によって刻印づけられた主体は自分自身を統合することはできず、ただ自分自身を母を介して呼び戻すことしかできない。主体性そのものを「基地」とするこのような呼び戻しは、象徴界の現前性を、そしてもちろんのこと男性主体の同一性を、破砕する。『弔鐘』におけるデリダのパフォーマンスは、みずからの去勢を拒絶する男性主体として行われている――ドゥルシラ・コーネル)
5.
私は母である=に付随する(Je suis la mère)。テクストである母。母は背後にある――私がそれであり、それを為し、それであるように見えるすべてのものの背後にある――母は付随する。母は絶対的に付随するのだから、決して現前化できないことになるだろう未来として、母は立ち会いつつもつれない仕方で、しかし魅惑的で挑発的な仕方で、みずからが産んだことになるだろうものよりも、常に生き延びるのである。(『弔鐘』)
6.
分析してみて、母が退行期すなわち究極的シニフィエを示すことになるのは、ただ、母が名指すあるいは言わんと欲するものが何なのか、すなわち母が懐胎するものが何なのか、あなたが知っている場合のみである。ところで、あなたがそのことを知ることができるのは、テクストによって母の席に置き入れられる他のすべてのもの、すべての対象、すべての名(ガレー船、ギャラリー、死刑執行人、あらゆる種類の花々などは、そのいくつかの例にすぎない)を汲み尽くした後になってようやくなのである。これらの語、これらの事物のそれぞれをあなたが深く判読し終えないうちは、母について何かが残余することだろう。(『弔鐘』)
(デリダにおける母の想起を、さらにはっきり言えば、みずからが母の後を追っているのだということを想起する責任を、主体性の完成には母殺しが必要なのだというクリステヴァの主張と対比してみてもいい。デリダにとって、母殺しはこれにて落着という形で完遂されることなど絶対にない。・・・母の痕跡は残余し、たとえ象徴界の王国に主体が入国するとしても、主体は母の痕跡を刻印されている。この刻印――あるいはもっと書記的に言えば、この傷痕――は、成就した喪によって単に拭い去られたり首尾よく移し変えられたりされえない。成就した喪は、それ自体において大文字の他者――ここでは、母として抑圧されたもの――の他者性の否認である――ドゥルシラ・コーネル)。
7.
弾劾の主題=主体――みずからを私と(私において)呼ぶ私の母を、私は私と呼ぶ(=私は私に呼ぶ)。与えること(donner)、告発すること(accuser)。与格(datif)、対格(accusatif)。私は母の名を担い、私は母の名である=に付随する(Je suis le nom de ma mère)。すなわち、私は私の母を私に呼び、私は私の母を私のために呼び、私は私の母を私において呼ぶ、つまり私を私の母へ立ち戻らせる〔=私を私の母において呼び戻す〕。いずれの場合にせよ、私は同じ一つの従属を格変化させているのだ。(『弔鐘』)
8.
単婚は決して個人的な性愛の果実ではなく、これとは絶対的に無関係であった。というのも、婚姻は依然として便宜婚であったからである。それは、自然的条件ではなく経済的条件に、つまり本源的で自然発生的な共同所有に対する私的所有の勝利に基づく、最初の家族形態であった。家庭内での夫の支配と、彼の子であることに疑いがなくて、彼の富の相続者に定められている子を産ませること――これだけが〔・・・〕一夫一婦制の唯一の目的であった。(フリードリッヒ・エンゲルス、『家族、私有財産、国家の起源』)
9.
このように、一夫一婦制が歴史に登場するのは、決して男女の和合としてではなく、いわんやその和合の最高形態としてではない。その反対である。それが登場するのは、一方の性による他方の性の圧制としてであり、それまでの先史の全期を通じて知られることのなかった両性の抗争の宣言としてである〔・・・〕。歴史に現れる最初の階級対立は、一夫一婦制における男女の敵対関係の発展と合致し、また最初の階級抑圧は、男性による女性の抑圧と合致する。(『家族、私有財産、国家の起源』)
10.
婚姻締結の完全な自由は、資本主義的生産とこれによって作り出された所有関係とが除去されて、今なお配偶者の選択にきわめて強い影響を及ぼしているすべての副次的な経済的配慮がそれによって取り除かれたときにこそ、はじめて一般的に達成できるのである。そのときには、もはや相互の愛情以外のいかなる動機も残らないのである。(下線、井上)
(『家族、私有財産、国家の起源』)
11.
デリダが同性愛と異性愛は現行のジェンダー分割の下では「同じこと」であると主張するとき、彼は異性愛の支配的基盤を擁護しているのではもちろんない。そうではなくて、家父長的秩序は同性愛を、二つのセックスあるいは二つのジェンダー分割の内部において、異性愛の対立物として、異性愛の他者として規定することしかできない、とデリダは指摘しているのである。同性愛が同―性愛的であること(homo-sexuality)と厳格に規定されるのは、支配的な異性愛の構造の内部――その内部で同性愛は忘却される(禁止される)、とりわけ女性たちの間では退行として忘却される(禁止される)――においてのみである。生きられるセックスに対して限界的読解を与えるのは、セックス/ジェンダー分割そのものなのだ。どのようにすれば、思考されえない通路をせめてほのめかすことだけでもできるだろうか。そうする一つの道は、差異を喚起することであり、さらにありていに言えば、性的差異「以前」としての贈与を喚起することであるが、この「以前」とはいかなる厳密に時間的な意味で言っているのでもない。なぜなら、そうした時間的意味だとすると、またもや、根源的/派生的という分割を復元することになってしまうだろうからである。
(ドゥルシラ・コーネル、『脱構築と法――適応の彼方へ』)
12.
性的差異――例えば、女性らしさ――は、それがいかに還元不可能であろうとも、贈与あるいは命運についての思考と較べれば、派生的で、従属的なものにとどまるのではないか。〔・・・〕私にはわからない。「差延」を「性的差異」以前に考えるべきなのか、あるいは性的差異「から出発して」考えるべきなのか。この問いは、意味を持ちはしないかもしれないが(私たちは、ここで、意味の起源にいるのであって、意味の起源は「意味を持つ」ことができない)、少なくとも、なおも何ものかを切り開くチャンスを(たとえそのチャンスが不適切なものに見えようとも)持っているのだろうか。(『弔鐘』)
13.
デリダによる言語効果の女性化は、イリガライやシクスーにおける「女性的な」セックスのエクリチュールとは異なる。デリダの目的は、比喩の作り替えによって女性の「セックス」を肯定することに直接あるのではなく、言語効果の男性化の中に反映しているジェンダー・ヒエラルキーに挑戦し続けることにある。このような言語効果の導入は、完全には見積もり得ない、ある遂行的な側面を有するのだが、この側面は、中性性の仮面を暴き、「これが男性的であり、これが女性的である」と厳格に割り振るような、両性間の分割線を問いただす。(『脱構築と法――適応の彼方へ』)
14.
かくして、「多性的なpolysexual」声のコーラスにおいて書くというデリダのスタイルそのものが、男性か女性かのどちらかのセックスへ具現化させることと結託するジェンダー・アイデンティティの、その規範秩序を破裂させようとする彼の欲望を表してもいる。デリダにとって、「私たちは性的には誰なのか」という問い〔・・・〕に対する「答え」へは接近不可能である――すなわち、男性か女性かどちらかの視座が具現化されて、著者〔=デリダ〕がある統一的なジェンダー化された立場から語り、書くことになるならば、不可能である。(『脱構築と法――適応の彼方へ』)
15.
近親姦タブーは族外婚と同盟という社会目的を、セックスと出産という生物学的事象に押し付けるものである。近親姦タブーは、性対象の選択領域を、容認される性パートナーと禁止される性パートナーという、この二つのカテゴリーに分割する。(ゲイル・ルービン、「女の交易――セックスの『政治機構』」)
16.
近親姦タブーが前提とするのは、それに先立ち、それよりも分節化されていない同性愛タブーである。いくつかの異性愛の結合の禁止は、非異性愛の結合に対するタブーという形をとる。ジェンダーは、ひとつのセックスに自己同一化しているというだけでなく、性的欲望がべつのセックスに向けられることも、当然ながら意味している。性の分業は、ジェンダーの両面に関与し――男と女を作り出し――異性愛者を作り出す。(「女の交易――セックスの『政治機構』」)
17.
否認不可能なものは去勢不可能なものである。
このことが意味するのは、去勢が存在しないということではなく、この存在する(il y a)ということが場をもたない、ということである。フェティッシュに認められる相反する二つの機能を分断することができず、また事物そのものとその代補物とを分断できない、という事態が存在するのだ。また両性を分断することも同様にできない。(『弔鐘』)
18.
私が二つのテクストを書けば、あなた方は私を去勢する〔=私の一部を切除する〕ことはできなくなる。私が脱・単線化すれ=輪郭を描けば(delinearize)、私は勃起=創設(erect)することになる。しかし、それは同時に、私の行為〔=現実態〕と欲望を分割することでもある。私が分割を刻印すると同時に、分割が私を刻印する。そして常にあなた方から逃れながら、私は止むことなく偽装し、いかなる場所においても享受することがない。私は自分自身を去勢し〔=自分自身を一部切除し〕――そのようにして私は私に留まる――そして私は「享受の真似事をする」。(下線――井上)(『弔鐘』)
19.
したがって、性的差異自体の真理自体などは存在せず、すなわち男性自体や女性自体の真理自体などは存在せず、逆に、存在論全体は決定不可能性を前提とし、それを内に隠し持っているのである。つまり、存在論は決定不可能性を理性化し、我有化し、同定し、またそれの同一性を確証することの効果〔=結果〕なのだ。(Jacques Derrida, Spurs)
20.
それは、現存在が、事実的にあるいは存在的に、一つのセックスに属していないということではなく、また、現存在がセクシュアリティを欠いているということでもなくて、現存在として、という限りでは、両性のどちらかであるという対立あるいは二者択一の諸刻印をもっていないということなのだ。これらの刻印は、少なくともそれらが対立的かつ二項的である限り、実存論的構造ではない。その点で、原初的であれ付加的であれ、なんらかの両性性への言及は一切ない。・・・それ〔=現存在の分析論〕は、性的差異とその二項対立づけ以前へ(セクシュアリティそのもの以前へではないにせよ)立ち返るくだんの中性化の賭け金を推し量ることである。ここでは名指すことで満足せざるを得ない巨大な問題のタイトルは、したがって、存在論的差異と性的差異、となるだろう。(下線、井上)
(Jacques Derrida and Christie MacDonald, “Choreographies’)
21.
私はこう言いたかっただけだ、すべての女性は(とはいえ、私はひとりしか知らない)、「はい」と言って美しいとき、君なのだ、と――そして君は男だ。(ジャック・デリダ、『絵葉書Ⅰ』)
22.
この暗号化された手紙は何を意味しうるだろうか、私のとても優しい、贈り与えられた運命の女性、途方もなく、すぐ近くにいる、未知なる女性よ? たぶん、このことだ、つまり、たとえそれがよりいっそう神秘に満ちたものだとしても、私が同性愛を発見できたのは君のおかげだ、そして私たちの同性愛は壊れない。私はすべてを君に負っている、また私は君にまったく何も負っていない。私たちは同じ性である、このことは、二足す二が四、あるいは、SがPであることと同じくらい真理である。(『絵葉書Ⅰ』)
23.
しかし、絶対的対立のなかで私たちの両性的性格がいかにはっきりと表面化し、荒れ狂っているとはいえ、私たちの一人が両性具有者だと言っているのではなく、私たちがヘルマフロディトス本人、本来の意味でのヘルマフロディトスだと言っているのだ。(『絵葉書Ⅰ』)
24.
私は一定の国語をもたないし、ジェンダーをもたない(性も、ということだ)、・・・君は私を助けてくれる、私たちは死ぬのをお互いに助けあう、そうだろう? きみはそこにいるだろう (『絵葉書Ⅰ』)
25.
doom〔運命、破滅、世の終わり〕、つねに子どもをより愛すること。自己の内の子ども。
(『絵葉書Ⅰ』)
26.
「すべての天使はおそろしい」〔リルケ『ドゥイノの非歌』〕第一の非歌〕、・・・
(『絵葉書Ⅰ』)