TAGTASのこの結成プロジェクト、そしてその統一テーマである「百年の<大逆>」という複雑な文脈の生成過程から、半ば意志的に、半ば不可抗力的に、今日に至るまで、私はほとんど自己排除をしてきてしまいました。
「百年の<大逆>」というテーマをめぐる問題意識を共有していないというのではなくて、それを共有するための前提となる何かが、私には欠落していると感じるからです。その何かとは、<起源>なるものへの遡行が可能であるという信憑です。起源、あるいは歴史的過去における出来事や事件を、翻訳し、還元していくという解釈学的運動が、不可避的に帯びざるを得ない弁証法的性質への同意、と言ってもいいです。つまり、過去に<事実>として起こった事件の全貌や意味の多義性が、完全に解明される時点が、どんなに遠くても未来のどこかに、理念的にであれ想定できるという確信です。そうした信憑、同意、確信が、私には欠落しています。過去-現在-未来が、一直線に配列されて、そのうえで過去と未来が繋がって円環を形成するという思考は、やはり弁証法としてのテレオロジーではないかと、どうしても考えてしまうのです。
「百年の<大逆>」プロジェクトは、過去に起こったとされる<事実>の豊かさ、あるいはその背後や深層を共有する、一種の解釈学的共同体であると考えてよいのでしょうか。もしそうであるとすれば、誤解を恐れずに思い切って言えば、例えば大澤真幸がコミュニタリアニズム(伝統)と同一視している「真理への執着」(としての原理主義)に、とても近い運動のように思えてきてしまいます。「真理への執着」の対立項は、リバタリアニズム(ポストモダン)と同一視されている「物語る権利」(としての多文化主義)なのですが、現在の歴史的状況のなかでは、「物語る権利」は「真理への執着」に、リバタリアンはコミュニタリアンに、実に容易に反転してしまいます。要するに、コミュニタリアニズムとリバタリアニズムの、伝統とポストモダンの区別は、もはやつかなくなっているのです。ラディカルなleftに好まれる多文化主義が、ニューライトたるネオリベにとって、あるいはグローバル資本主義の発展にとって、極めて好都合な主張になってしまっているという点に、そのことは顕著です。したがって、一見自明すぎるほどthe far leftである「百年の<大逆>」プロジェクトは、それとまったく同程度に、the far rightなプロジェクトであると言うこともできてしまうのです。いずれであっても同じである、あるいは両極端が無差異である、無差異になってしまうということこそが大問題です。「百年の<大逆>」という革命的プロジェクトが結成されなくてはならなかったのも、差異と無差異が一致してしまう、あるいは世界が可能世界だけになってしまうという、この極めて今日的な大問題に対処する方法を、限界まで追求するためだったのではないかと思っています。
しかし、パオロ・ヴィルノが示唆するように、ポストフォーディズムの資本主義社会においては、<革命>を起こさなくても、社会のほうが<革命>をもう成就させてしまっているとするならば、それをどう経験・分節・表象するか、あるいはそれをどう耐え凌ぐかのほうが、より火急の課題であると私には思われるのです。ヴィルノにとって、ポストフォーディズムの資本主義社会における革命とは、あるいはその効果とは、まさしく無差異と差異が一致すること、メタ歴史という「起源の時間」と歴史的時間が前代未聞の一致を遂げてしまったということ、歴史的時間を可能にしていた「生物学的人間」と「文化的人間」の分裂がついに終焉を迎えてしまったということです。この前代未聞の歴史的状況は、『経験と貧困』のなかのベンヤミンの言葉を借りれば、私たちに「経験からの全面的免除(あるいは排除)」を容赦なく強制してくるように思われます。それは、分裂症的経験に限りなく近いもの、あるいは分裂症的経験そのものです。『アンチ・オイディプス』のなかのドゥルーズ=ガタリによれば、資本主義は、自らの死のイマージュであり、外なる極限である分裂症を押しのけ置き換えて、これを自分自身の相対的な、内在的な極限にどこまでも代えていくはずでした。ところが、ポストフォーディズムの資本主義は、資本主義そのものの「外なる極限」である「分裂症」に、恒常的な社会現象として完璧な外観を保証し、それを、ごく日常的で経験的な出来事の表面に、完全に露出させてしまったのです。『厄介なる主体』のなかで、ジジェクは、ある者がXになるためには、直接Xになることを放棄するしか方法がないという弁証法のパラドックスを、ラカンが「象徴的去勢」と呼んだものであると言っていますが、ポストフォーディズムの資本主義社会のなかでは、この象徴的去勢は事実上無効化していると言っていいと思います。ポストフォーディズムの生産様式は、人間の恒常的幼年期ないしは<幼児性>としての潜在力を<労働力商品>として利用しているからであり、そのことによって人間はもはや人間ではなく、知覚的刺激と行動の間に文字通りの断絶・深淵がある人間動物に、絶え間なく還元されてしまうからです。その意味で、ヴィルノは、ポストフォーディズムにおいては、労働時間と非労働時間が一致してしまうと言ったのです。剰余価値の生産・再生産によって、自分が自分自身よりも価値があるがゆえに、私たちは人類を自分自身よりもより大きな存在として定義することができる、これは自己-差異に基づいて人間を名づけることである、というようなことをスピヴァクが言っていますが、ポストフォーディズムの資本主義社会においては、この剰余価値の生産・再生産の運動が、つまり自己-差異化の運動が、もう決定的に上手くいかなくなってしまったのだと思います。つまり、私たちは、もう人間を名づけることができなくなってしまっているのではないでしょうか。
「生産のもっとも重要な条件」としての「生産の諸条件の再生産」の機能を担うとアルチュセールが言う、国家のイデオロギー装置AIE――宗教的AIE、教育的AIE、家族的AIE、法律的AIE、組合的AIE、情報的AIE、文化的AIEなど――は、かつては協働して人々の心の風景となっていたのでしたが、ヴィルノの言うネオテニー的迷走状態によって、その心の風景は支離滅裂に攪乱され、引き裂かれて、その巧妙な支配的な力を確実に喪失していきつつあると考えざるを得ません。例えば文化的AIEには、文学、美術、スポーツ、出版などが含まれていますが、おそらく演劇やダンスも含まれていますが、それらはもはや一様に、アガンベンが「類的存在の、ありうべき唯一の物質的経験」であると説明する、マルクスの言う一般的知性に横断されています。等価原理に立脚した交換価値の大きさによる宣伝や喧伝が、もう何の意味も持ち得ないということです。結果として、当事者たちの剰余価値の再生産にも、自己価値増殖にも、一種の空洞化や無益さの感覚が生じてくるのではないでしょうか。そしてもう一つ、労働力商品としての人間や剥き出しの生としての人間の再生産工場としての家族も、<家族の排除>という形で、そのAIEとしての機能を加速的に失いつつあると思われます。
アガンベンによれば、過去-現在-未来という直線的な時間表象は、資本主義による時間の変造の産物ですが、起源の時間と歴史的時間とが前代未聞の混合を遂げてしまったポストフォーディズムの資本主義社会においては、私たちはもう、直線的な表象によって時間を体験することがほとんど不可能になったと思います。無時間のなかにいる、あるいはヴィルノが引用しているマルティーノの言葉を借りれば、「まるで歴史の中にいないかのように歴史の中にいる」という感覚がすっかり恒常的となっています。アガンベンによれば、歴史に初めてその空間を開くのは、例外状態としての収容所空間を開くのは、ラングとディスクールの断裂点に存在するインファンティアなのですが、時間の直線的な表象が不可能になった現在、私たちは、潜在的には「物言わぬ」体験しか、「語りえないもの」としてのインファンティアしか、語ることができなくなっているのではないかと思います。「歴史は語る存在としての人間の直線的時間にそった不断の進歩ではなく、その本質において間隙であり、不連続であり、エポケーなのだ」と述べるアガンベンにとっては、革命の身振りも言語も、インファンティアなのであり、その換喩としての証言なのです。「言語の外部と内部のあいだの想起不可能なつながり」に宙吊りになったままで、無力さにおいてのみ語る力が生起してくるとき、その語れなさ、語ることの潜勢態を、証言というのだと思います。革命の身振りでもあり言語でもある証言が、証言するのは、先に引用したベンヤミンの「経験からの全面的免除(排除)」だけです。パウロの言葉を借りれば、「すべての人に対して、私はすべてのものになっている」という偶有性の感覚だけになった、あるいは可能世界だけになった収容所空間としての世界だけです。その意味で、革命の身振りと言語は、遂行的なのではなく、むしろ「遂行中断的afformative」なのです。「遂行中断的」とは、ベンヤミンのブレヒト論で言及されている「行為の中断としての身振り」であり、パフォーマンスを中断してそれを宙吊りにすることです。「経験からの全面的免除」とは、ベンヤミンにとって明らかに神的暴力のことであり、「遂行中断的」である神的暴力とは、端的に証言なのです。あるいは、世界中に拡大した例外状態、収容所空間としてのインファンティアなのです。ポストフォーディズムの資本主義社会がついに規則化するに至ったメタ歴史的ネオテニーとは、「遂行中断的」である証言の「遂行中断性」の、いわば限界的な連続体なのだと思います。その意味で、革命は、革命の身振りと言語は、潜在的にですが、やはり、すでに成就しているというしかないと思います。
しかし、もしそうだとしても、この革命は、あるいは資本主義による資本主義自身への神的暴力は、決して現勢化することがないまま、あらゆる人間を幼児期へと、インファンティアへと限りなく還元しながら、無時間のなかを突き進んでいくのだと思います。現勢化することがないのは、あらゆる人間が幼児期へと還元されているからですが、同時に、人間が依然として大人の地平に、有意味性の地平に、テレオロジー的弁証法の地平に、あるいは虚構としての現実世界の地平に脱出しようとするからです。そうすればするほど、幼児期へとますます還元されていくので、これは不毛な悪循環です。しかし、そうしないではいられないのは、潜勢態のまま進行中の革命は、資本主義によって瑕疵ある者として創造された人間にとっては、その瑕疵を治癒されてしまう破局としてしか映らないからなのです。歴史に初めて開いた空間、収容所空間のなかにすでにいる以上、資本主義による詐術としての時間のなかにもういない以上、破局とは、人間にとって終わりの感覚が終わってしまうことです。終わりの感覚が終わってしまうということは、あらゆる選択性=再帰性がことごとく無効化されてしまうということ、どんな現実も必然として引き受けられずに、可能世界だけを唯一の現実として引き受けるしかなくなるということです。この破局を、ジジェクはかつて、存在論的閉塞、存在の耐えられない閉塞と言いました。私たちの自由を保証する宇宙はもう閉じていて、曲がり角を曲がってももう何も待っていない、何が待っていようとまったく同じことである。したがってこの破局は、あらゆる規範や正義が、そしてあらゆる倫理が、完全なる偶有性にしか支えられていないことを根本的に暴露してしまうのです。
そうすると、原理主義によるテロや頻発する殺害やリストカットのように、どんな革命的運動も、芸術的運動も、この破局としての革命に対する防衛としてしか、不可避的に機能しないのではないかと思えてくるのです。防衛、あるいは、唯一の必然となった可能世界から現実へと、身体へと、剥き出しの生へと、さらには超越論的歴史へと避難する試みです。以上のような見通しからすれば、「百年の<大逆>」プロジェクトも、破局からの防衛であるとする解釈を免れることは、なかなか困難であると言わざるを得ないかもしれません。しかし、本日の円卓会議のテーマが「演劇の自由と倫理」となっているので、革命を、破局としての革命を、現勢化させる契機がどこかに潜んでいるということは、十分にあり得ると思います。
革命を、破局を、もし引き受けるとして、その場合には、演劇にはどんな自由も倫理もなく、同時に、あらゆる自由と倫理があるという言い方しか、取りあえずはできないように思います。国家のイデオロギー装置がまだ機能しているとして、その役割とは、想像の舞台に群集を参加させることによって、現存権力の正統性に対する承認の身振りを、自ら演じるように群集に仕向けることなのです。どんな演劇も、演劇である限り、文化的AIEであることを免れないとすれば、どんなに抵抗しても、その役割を引き受けることを余儀なくされてしまうだろうと思うのです。もし仮に、想像の舞台から群集を引きずり下ろすことができ、彼ら彼女らがいるのは世界中に拡大した収容所空間なのだということに、彼ら彼女らを覚醒させることができるとすれば、そのとき、演劇は、革命を現勢化させることができると思います。ベンヤミンの言葉を借りれば、例外状態を実効的なものにすることができると思います。そんなことが可能になるかどうかはともかくとして、現在の歴史的状況において演劇を実践する意味があるとすれば、もはやそこにしかないと私は思います。そんな演劇を仮にも実践することができるとすれば、その条件は、倫理の極小値から極大値までの全体が無効になった倫理の外部に、あらゆる倫理の外部という倫理に、演劇の主体が自らを繋留し続けることかもしれません。
その意味でアンティゴネーは、否認の拒絶によって想像の舞台から下りて、生産の諸条件の再生産を担う主体であることを完全に止めて、破局としての革命の主体になったのだということもできます。ハイデガーの語彙を借りて言えば、アンティゴネーの現存在は、自らに際限のない暴力を行使する存在の支配に対し、存在に現象する場所を与えないことによって勝利したわけです。存在が現象する場所とは身体であり、その身体=生命を維持していくための生活手段が保証されるのは、生産の諸条件の再生産を担う主体、脱主体化した主体になることによってのみです。妻になること、女になること、母になることという、再生産のための労働力の商品身体になることへの拒絶が、つまり、国家=資本に包摂されることへの拒絶が、最初の否認の拒絶にすべて含まれていると言っていいと思います。そこに、現に、存在するということは、もはや、そこに、存在しないということの可能性そのものであり、アンティゴネーという人間、非人間は、破局が、自らの偶有的可能性のなかに刻み込まれていることを知っているのです。そのことを、否認したくないのです。
そこで思い出すのは、『アウシュヴィッツの残りのもの』のなかで、アガンベンが倫理について書いていた箇所です。車での移送中に、SSによって出鱈目に選ばれて銃殺される直前に、ボローニャの大学生が赤面したこと、そして『審判』のなかで処刑されるときにヨーゼフ・Kが赤面したことに触れて、アガンベンはこう書いています。「あたかも、その頬の赤さは、限界が一瞬触れられたこと、倫理の新しい素材のようなものが生者のうちで触れられたことを教えているかのようである」と。したがって、倫理とは、破局が、あるいは死が、自らの偶有的可能性のうちに刻み込まれていることへの絶えざる自己触発なのだと思います。限界に触れられ続けることへの、恥ずかしさという自己触発です。演劇の実践において倫理が可能になるとすれば、もはやそれしかないという気がしますが、それでも演劇の実践を続けていく意味がどこにあるのかは、今の私にはわかりません。