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(準証拠資料)文化論講座2010年7月10日(土) 報告者:井上×××「「現代思想入門」ゼミ、及び「舞台芸術」(表象文化論)講義 は学生の思考をどこに連れていくか」

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フランツ・カフカ『掟の門前』(「Before The Law」)のデリダ、カッチャーリ、アガンベンによる解釈を参照しつつ、現代の資本主義社会に生きる人間たちの存在様態、「掟の門」の外部としての内部への完全なる締め出し状態=純粋遺棄状態を内視する。

否定神学システムとしての資本主義システムにおいて、それを存続させる自己言及の無限循環運動は致命的な機能不全に陥っているのではないか?

つまり、労働力商品としての身体たちの剰余価値の再生産は加速的に困難になっているのではないか?

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■「現代思想入門」ゼミ、及び「舞台芸術」(表象文化論)講義は、それを聴講することによって学生たちが、知らないうちにカフカの描いた「掟の門前」に召喚されているような展開になることを目指す。

――授業に継続して参加しているうちに、学生たちは「何ものか」に、「掟」に(?)、「掟の門」の「内部」にあるはずの「掟」に(?)呼びかけられ、カフカの描いた「田舎者」のように、いつのまにか「掟の門前」に連行されている自分に気づく(はずである)。

■最初に明示しておきたい「掟」の「正体」、及び学生たちを「掟の門前」に召喚しなくてはならない切実な必要性について

「掟の門前」の向こう側、すなわち「掟の門」の「内部」、つまり「掟」とは何であるのか?

権力体

それも、学生の生そのもの、私たちの生そのもの、私たち自身の生そのもの、あらゆる個々の人間の生そのものである権力体である。                

私たち自身の生そのものである以上、どんな抵抗もアプリオリに無効であり、抵抗しようという意志の萌芽すら抱くことが限りなく不可能に近い権力体。

(ラカンの用語法を使って言えば、私たちを根底から作り上げているシニフィアンの体制=「大文字の他者の法」という権力体)。

(アルチュセールの用語法を使って言えば、私たちを根底から作り上げている<イデオロギーと国家のイデオロギー諸装置――AIE=appareils idéologiques d’État>という権力体)。

私たち一人一人を支配している権力体としての「主人」は、ジュディス・バトラーによれば、次のように絶えず密かに囁いている。

「おまえは、わたしのために、わたしの身体という存在でなくてはならぬ。だが、おまえの存在である身体とは、実はわたしの身体であることを、決してわたしに知らしめてはならぬ」(バトラー「ヘーゲルの『不幸な意識』論を読む――執拗な取り憑きと身体の主体化(サブ)(ジェク)隷属化(ション)」)。

私たちは「主人」の「奴隷」であるが、「主人」は私たちにそのことを決して気付かせないばかりか、私たちは「他者」の「奴隷」などでは絶対になく、私たち自身の「主人」であると完全に思い込ませる。

権力体=「主人」の身体的存在は、二重の側面から否認される。

(1)「主人」は自分の身体的存在を否認し、自分は身体を離れた欲望であると装うことで、「奴隷」に対し、「わが身体として行動せよ」と強要する。

(2)「奴隷」は、自分がたんに主人の身体として行為を成すにすぎない事実を否認し、そのうえで「わたしは自身の意志に従う行為者である」と振る舞わなくてはならない――あたかも「奴隷」が、「主人」のために我が身をもって労働に勤しむのは、「主人」にそうせよと命令されたからではなく、自主的な活動の所産であるかのように・・・。

             (バトラー「ヘーゲルの『不幸な意識』論を読む」から要約)

以上の理由により、学生たち(のみならず私たち)には、ほかならぬ自分自身の生と身体が権力体(自分以外のものの使者、権力の執行吏)=「掟」であるということには、決して気付くことができない。

模範的な「掟」であればあるほど、学生たち(私たち)は「自由に」活き活きと生を営むことができる。

「掟」の純粋な受肉化であればあるほど、学生たち(私たち)は「掟」に守って貰うことができる。

「掟」に守られているということは、逆説的にも「掟の門前」から無限に遠ざかっているということ。「掟」から無限に遠い「外部」にいることによって、逆に「掟」そのものとして「掟」の「内部」にいるということ。「掟」の存在を完全に忘却しているということ。リアルな世界(≠現実世界=可能世界=偶然性だけの世界)に対し、絶対的に盲目でいられるということ。

為すところを知らざればなり

      「他者」=「掟」の「内部」への疎外=完全なる締め出し              

純粋遺棄状態

☆権力に抵抗したいと思うほかならぬ自分自身が権力体=「掟」(正義と暴力の区別がまったくつかない不分明地帯)であるならば、一体どのようにして権力に抵抗したらよいのか?                           ↓

カフカの描いた「田舎者」のように、「掟の門前」にはるばる(大変な苦労をして)来訪することがまず必要である。

この「田舎者」に近い存在は、『ローマ人への手紙』のなかのパウロの言葉。

――→「わたしは、自分のしていることがわかりません。わたしは自分がしたいとおもうことではなく、憎んでいることをしているからです」(『ローマ人への手紙』七章)15-19節)。

「あらゆる時代の同時代人」(アラン・バディウ『聖パウロ』)であるパウロの言葉は、「掟」の「内部」への純粋遺棄状態そのものである為すところを知らざればなり状態に、まさに「入っていこうと」する痛みを放っている。

「掟の門」の「外部」としての「内部」ではなく、「主人」=「掟」の支配が及んでいない彼の身体の極微の「内部」に、「残りのもの」=「残余」の(非)場所に、「入っていこうと」する静かな痛み。

生物学的生を生きる存在(=動物=自然状態)と、言葉を語るロゴス的存在(=人間=文化状態)が、一度分離されて、分離されたまま接合されているのが人間(人間動物)である。

――そう、私たちはたんに「人間」=文化状態=法治状態であるのではない。「人間動物」という、<文化状態=法治状態>と<自然状態>の境界が完全に不分明である混淆状態である。

(アガンベンは、「人間」をそのような不分明地帯である「人間動物」として創造した権力の秘法を、「分接の秘儀」と呼ぶ。「分離=接合の秘儀」と)。

パウロの痛みは、分離=接合されたその不在の結合地帯に、微かに「残り続ける」両者の「断絶」にどこまでも宙吊りになろうとする痛み。

――→アガンベンは、その「断絶」を「閾」と呼ぶ。

「掟」の「内部」=「掟」の全的支配が及んでいない(非)場所に(パウロのように)「入っていく」ためには、「掟の門」の「外部」としての「内部」=完全なる締め出し状態から外に出て、「掟の門前」に自らを連れていかなくてはならない。

――「内部」に入るために「外に出る」とは、したがって自己言及をすることである。しかしこの自己言及は、「剰余価値」を無限に再生産する運動としての否定神学的(テレオロジー的)自己言及ではまったくない。

この自己言及は、「恥ずかしさ」としての自己触発である。

「恥ずかしさ」とは、生と死がつねに連続していることへの覚醒である。

「恥ずかしさ」とは、今日と明日の過激な不連続が連続していることへの覚醒である。

「恥ずかしさ」とは、自分が「他の誰(の運命)でもあり得る」という可能性の現実性(その可能性だけが唯一のリアルであるということ)への覚醒である。

(この可能性の下では、「私」の固有名は失効して単なる普通名詞になる。「私」は誰でもいい誰かとして、まったく出鱈目に選別され、告発されたり廃棄されたり排除されたり殺害されたりする――カフカ『審判』のヨーゼフ・Kのように)。

※『掟の門前』の初出が、『審判』の後半におけるエピソードであったことをここで想起しておきたい。

※『掟の門前』において、門の前に立っている大男の門番の相貌(ex.「ダッタン人のような鼻」→ファルスを想起させる)と「田舎者」に向けられた韜晦的な諸言説のほうこそ、否定神学的自己言及である。

■「掟の門」の「内部」に、なぜ人は入ることができないのか? 門は開いているというのに?

「<法>は、自らを守ることなく自らを守る。何も守ってはいない門番に守られて。門は開かれたままだが、何に向かっても開かれていない」(デリダ「先入見――法の前に」)。

「門がすでに開かれているのに、「開ける」という希望をどのように持てるだろうか? <開かれているものに入ること>など、どのように考えることができるだろうか? 開かれたものにあっては、人はもうそこにいるのであり、物事は与えられており、人は入りはしない。[・・・]我々は、開くことのできるところにしか入ることができない。<すでに開かれているもの>は動きを封じる[・・・]。田舎者が入ることができないのは、<すでに開かれてあるもの>に対しては、入るということが存在論的に不可能だからである」(Massimo Cacciari, Icon della Legge

デリダとカッチャーリの解釈、とりわけカッチャーリの解釈は、「掟」の「正体」をめぐる先述の見解を明らかに支持している。

――→「掟の門」の中に入ることができないのは、門が開いていて、人はもうその中に(入って)いるからであり、すでに(入って)いるところには、門を開いて入っていくことができないという難攻不落のアポリアゆえである。

私たちはつねにすでに法の化身であるがゆえに、法の化身になることによってしか私たちに、自分自身になることができない。

同様の事態を、ラカン派の精神分析の言説で表現すると、次のようになる。

――→XがXになるためには、直接Xであることを放棄しなくてはならない。Xの外に出て、Xそのものは不在にならなくてはならない=中身のない状態にならなくてはならない。

     (スラヴォイ・ジジェク『厄介なる主体――政治的存在論の空虚な中心』より)

ここで言われている「中身」こそ、私たちが決して入ることができない「掟の門」の「内部」である。

――私が私になるためには、私は私を「喪失」しなくてはらない。「自分の場所」=「中身」=「身体」を不在にして、「掟の門」の「外部」としての「内部」に純粋遺棄されなくてはならない。

私たちの生は、つねに漠然と二重化されている。

――自分が不在の場所で、半透明な自分の分身として、等身像として、生と死の境界線上を幽霊のように彷徨っている(したがって、つねに「破滅」を潜在的に含んでいる)。自分自身と、つねに無関係という関係を結んでいる(「掟」によって結ばされている。→「掟」からの/「掟の門」の「外部」としての「内部」への完全なる締め出し)。

「掟の門」の「内部」に入ることの、以上のような「存在論的不可能性」を図示してみると、次のようになる。

自分が不在であること=不在である場所にそれでも存在する自分とは「掟」以外のなにものでもないこと=法の潜勢力に丸ごと引き渡されていること

↓↓

  (法の空虚な)潜勢力   潜勢力――→現勢力 (移行) ↓ グレーゾーン=不分明地帯  

潜勢力(しないことができる)から現勢力(することができる)への移行そのものが、法の空虚な潜勢力の「内部」で生起する。

――→したがって、「掟の門」の「外部」としての「内部」=法の潜勢力から外に出ることはできない。つまり、「掟の門」の「内部」に入ることはできない。

※「潜勢力にあるものとは、潜勢力があると言われるものの現勢力が実現されるとき、そこに何も潜勢力にないものがない、そのようなことである」(アリストテレス『形而上学』)

この一文は、「存在することも存在しないこともできる」という潜勢力が実現されるにあたっての条件を裁可する。潜勢力にあるものは、「存在しないこともできる」という自分の「非の潜勢力」を棄却することによってのみ、現勢力へと移行することができる。

☆「非の潜勢力」=人間動物の/という不分明地帯における両者の(「人間」と「動物」の)「断絶」に宙吊りになることそのものである。「非の潜勢力」に宙吊りになること、「中身」に留まろうとすること、否定神学的ではない自己言及をすること。「言語活動における口では言えないものを純粋きわまる仕方で殲滅すること」(ヴァルター・ベンヤミン『書簡』)。そのことだけが、「言葉に対して拒まれているもの」(偶然性だけの世界=可能世界)へと私たちを導くことができる。

ベンヤミンの言う「言語活動における口では言えないもの」とは何か?

――→起源=終局の目的(=テロス)、純粋現前、享楽(ラカン)、抑圧された欲望(フーコー)、「神の名」(デリダ)。あるいは、事件、出来事、自分がその渦中にいた経験などの「全的な意味」=言語以前の、言語に先行する、言語とはまったく無関係な「事実」の「全的な意味」=イデア的同一性。

☆現在の学生たちは、こうした「言語活動における口では言えないもの」を「殲滅」したというより、もはや喪失してしまったか、あるいはそうしたものに拘泥していないように見える。――→世界の「意味」、経験の「意味」をほとんど探求しない。つまり、否定神学的自己言及をほとんどしない。――→動物化している(ように見える)。

彼ら彼女らは、「法の空虚な潜勢力」に全面的に引き渡され、「掟の門」の「外部」としての「内部」に見事なまでに純粋遺棄されている(ように見える)。

彼ら彼女らは、模範的なまでに「中身のない人間動物」であるように見える。

――→思考することが何もない。彼ら彼女らが非思考状態であるというより、思考(自己言及)を促してくる「欠如(ファルス)」=「神の名(永遠に翻訳不可能なもの)」が、現代の資本主義社会にはもう開いていない。――→「象徴界の失効」、「第三者の審級の不在」、「擬似環境の再構築は不可能」などと言われることもある。

『アンチ・オイディプス』のなかでドゥルーズ=ガタリが述べたように、否定神学システムとしての資本主義は、自らにとっての「死のイマージュ」である「反生産」にほかならない「分裂症」状態を開放しては外部へと拡張し、「生産」を存続させるためにそれをまた内部(内在野)へと伝播させ限定するという循環運動を続けてきた。

フロイトの言う「反復強迫」とは、一人一人の「人間」におけるこの否定神学的循環運動と考えてよい。――→「象徴界」=「人間の世界」=「交換関係のネットワーク」(における自らの交換価値としての使用価値)の、執拗な存在喚起。無為(=「反生産」=脱人間化=世界の喪失)への執拗な抵抗)。

――→しかし、現在のポストフォーディズムの資本主義社会においては、この循環運動はもはやほとんど停止状態に陥っている。つまり、「分裂症」状態は、開放されっ放しになっている。

「分裂症」の症候である「欠如(ファルス)」の不在が、ほとんどあらゆる領域における「人間」の言語活動に取り憑いている。――→ポストフォーディズムの資本主義社会における最大の「労働力商品」と言われる「コミュニケーション能力」とは、内容(意味)はおよそ無関係な単なる「言語を話すこと」(生物学的不変項)という事実でしかない。

生産活動(labor)と「反生産」(=無為rest)が一致している。労働時間と非労働時間が一致している。「起源」と「歴史的時間」が前代未聞の一致を遂げている(パオロ・ヴィルノ『ポストフォーディズムの資本主義社会』より)。

――→資本主義が自らに対し、「神的暴力」(ベンヤミン『暴力批判論』)を行使しているといっても過言ではない。

☆学生たちは言語を話す。話しまくる。一体何を「交換」しあっているのか? 「交換」するものなど、もはや何もないように思えるのに。

――→「言語はつねに声の不意を突き声の先を行く・・・」(アガンベン「思考の終わり」)。ところが、彼ら彼女らの言語からは、まるで声だけしか聴こえてこないように思えるときがある。フォネーとしての声(「今・ここ」に中心化された()()意識(ネー))ではなく、言語の物質的次元としての、エクリチュールとしての声。――→「声はつねに言語の不意を突き言語の先を行く」ように聴こえることがある。

「私たちが思考することができるのは、言語が自分の声ではないからにほかならず、私たちが声のなさを言語において根底に至るまで――じつを言えば根底などないのだが――計り知るからにほかならない。この底なしの深淵こそ、私たちが世界と呼んでいるものである」(アガンベン「思考の終わり」)

――→学生たちが(もしかしたら私たちも)今日、思考することができなくなっているのは、言語がついに自分の声になってしまったからではないだろうか。言語がシニフィアン(他者の声、意味作用を偽装する声)としてではなく、エクリチュール(シニフィアンの支持体、物質的次元)としてしか聴こえてこなくなってしまったからではないだろうか。

「底なしの深淵」としての「世界」が、世界から消滅してしまったからではないだろうか。

「思考すること」が「経験すること」と不即不離であるならば、現在の世界は限界的な「経験の貧困」(ベンヤミン)を、学生たちに(私たちに)強制しているのではないだろうか。

――→「分裂症」の症状としての「世界没落」が常態化している信じられない世界。

実は「正常人」である私たち自身も、ひとつの巨大な妄想世界を分有する「妄想型分裂症患者」である可能性は大いにある。分有する者たちの数が圧倒的多数なので、私たちの「世界」がとりあえず「正常」とされているだけである。(木村敏『時間と自己』より)

■法の空虚な潜勢力、否定神学システムとして機能しない否定神学システムについて

「掟の門」の「外部」としての「内部」に純粋遺棄されているということ=法の空虚な潜

勢力に全面的に引き渡されているということ(先述の図を参照)。――→人間」の生が、このような状態(潜在的な例外状態)に露出させられていなかったことは、おそらく一度もないのではないか。

「抑圧されている者の伝統が我々に教えるのは、我々の生きている「例外状態」は規則だ、ということである。我々は、この事実に対応する歴史概念に到達しなければならない。したがって、我々の認めるのは、我々の務めは実効的な例外状態(the real state of exception)を産み出すことだ、ということである」(ベンヤミン『歴史哲学テーゼ』より)

このことを、ラカンの精神分析理論の用語を用いて、別の角度から説明してみたい。

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門番は、「田舎者」が「掟の門」の中に入ろうとするのをなぜ拒絶するのか?

「田舎者」が参拝(?)することを切望する、ありがたい「掟」が「掟の門」の中には実は不在であるからではないのか?

不在であるからではない。「掟」は確かに存在している。では、門番が知られたくない不在とは、一体何の不在なのか?

「掟」=「大文字の他者の法」=「シニフィアンの総体」には、「田舎者」が無邪気に想定しているらしい首尾一貫性、整合性、超越性、純粋性、無矛盾性、善性、完全無欠さ、無条件の真面目さといったものは、実は不在である。

ありとあらゆる「掟」、哲学の「掟」、学問の「掟」、芸術の「掟」、文学の「掟」などには、こうしたものは不在である。――→カフカは、文学の「掟」(の首尾一貫性・・・)の不在を、したがってその本質的な偶然性と蒙昧性を恐ろしいほどに知悉していた(デリダ『カフカ「掟の門前」論』より)。

この不在をこそ、門番は知られたくない。――→私(デリダ)は、哲学の「掟」(の首尾一貫性・・・)の不在を秘匿しておきたいため、哲学の「掟の門前」に立ちはだかる門番である(『カフカ「掟の門前」論』より)。

門番とは誰か? というより何か? 

――→「大文字の他者の法」=「シニフィアンの総体」が自らに欠如している首尾一貫性・・・を無限に欲望し続けるために、無限に再生産し続けなくてはならない自らの「欠如」である。

→「掟の門」の中に入れば、また「掟の門」があり、その中に入れば、さらにまた「掟の門」があり・・・という具合に「掟の門」が奥に向かって延々と続いていて、どの「掟の門前」にも門番が立っている・・・と、最初の門番が「田舎者」に言う。

「欠如」=ファルス(「欠如」の実体化)=「小文字の他者objet a」=剰余価値=他者の欲望の原因となる対象=「私の中にあって、私を超えた、私以上の何か」=アガルマ(秘密の宝物の隠し場所)。

門番として具現化された(ファルスとして実体化された)「欠如」は、「掟」(の首尾一貫性・・・)そのものの「欠如」であると同時に、「掟」=「大文字の他者の法」に首尾一貫性・・・が欠如していることを隠蔽する役割を担う。

――→「大文字の他者の法」に、自らに首尾一貫性・・・が欠如していることを完全に忘却させる役割を果たす。

<「大文字の他者の法」は「大文字の他者の法を破壊する法」である>(ラカン)。

――→「大文字の他者の法」=「シニフィアンの総体」は、自らが支離滅裂であること、偶然性と蒙昧性、無法性と無秩序、無意味ないし意味の壊乱に貫かれていながら、そのことをまったく知らない。

自らが自らを破壊する法であることを知らない限りにおいて、「大文字の他者の法」の中心に開いている「穴」である「欠如」=「剰余価値」は、無限に再生産される。

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以上は、否定神学システムの構造である。

「掟」の首尾一貫性・・・の「欠如」が、「掟」に首尾一貫性・・・を執拗に、無際限に欲望させる。――→先述した無限循環運動、反復強迫とはこのことである。

シニフィアンの連鎖(表象=再現前化の運動)=消費によって「欠如」は満たされるが、その充足はつねに「過不足」のある充足でしかなく、すぐにまた「欠如」が開く。

――→安定化させつつ不安定にする。不安定にしつつ安定化させる。「穴」は開いては閉じ、閉じては開く。=否定神学的自己言及。――→世界(=偶然性だけの世界=可能世界=現実的に「私」が他の誰でもあり得る世界)に開かれることに対する防衛。

――→否定神学システムは、世界(「実効的な例外状態the real state of exception」でしかあり得ない世界)への「開かれ」=「穴」を縫合する役割を果たす。

否定神学システムにおいては、可能世界においてのみ出会うことができる現実の他者(生者であれ死者であれ)と出会うことは絶対にない。

「今・ここ」という時間的総合における「過去把持」、「未来把持」としての「表象=再現前化」によって、その都度イデア的に同一化された他者の「仮象」と出会うだけ。

☆根本的な問いかけ

――→否定神学システムの無限循環運動は、現在でも機能していると言えるのか?

先述の考察からすれば、機能していると同時に機能していないと言うほかはない。

1.「大文字の他者」の「欠如」が消失してしまえば、もはや欲望する必要がなくなった「大文字の他者」は閉じた構造となり、主体は「大文字の他者」の中へと自らを全面的に疎外するしかなくなる。――→自らを破壊する法としての「大文字の他者」(=首尾一貫性を欠いた支離滅裂なシニフィアン)が、Xから、つまり主体ではなく主体の身体から、直接現前してくる。

2.「大文字の他者」の「欠如」のおかげで、主体はラカンが「分離(セパラシオン)」と呼ぶ「脱‐疎外」を達成することができる。

――→現在の学生たち(私たち)の生においては、この両者が同時的に生起しているという極めて異様な、前代未聞と言ってよい事態がリアルに生起している(ように見える)。

「巨大な疎外」に包含された「脱‐疎外」と考えれば、以下の図のようになる。

  

  巨大な疎外(脱主体化)   疎外(脱主体化)――→脱‐疎外(主体化)          (移行)           ↓      グレーゾーン(不分明地帯)  

        

この図は、先の図と完全に相同的である。                    

否定神学システムであると同時に否定神学システムではない純粋遺棄状態。

――→「大文字の他者の(狂った)法」との純粋関係。

    =「起源の時間」と「歴史的時間」が前代未聞の統合を遂げている。

「巨大な疎外」とは、それ自体、「法の空虚な潜勢力」に全面的に引き渡されているということ。「掟」=法の「内部」にいながら、法の身体として生きることで、法から(つまり法の「外部に」)全面的に締め出されているということ。

     ↓

    中身のない(中身を絶えず抹消され続ける=去勢され続ける)身体。

    亡霊的身体(デリダ、スピヴァク)。

    労働力の商品身体=不在の身体=補綴の身体(マルクス)――労働者の生身の身体を、労働へと接合するために、両者の間に資本が絶えず挟みこむ身体。

     ――→このような空虚な身体(精神的身体、人間的身体)が同時に生身の身体(物質的身体、動物的身体)でもあるという前代未聞の事態。

                ↓

         動物(環境世界):知覚と行動の間に完璧な循環(円環)がある。

         人間(擬似環境世界):知覚と行動の間に無限の深淵が開いている。

                               ↓

                           労働はここに宿る。

           つまり、知覚と行動の間に資本(否定神学システム)が擬似循環を作り出す(本源的蓄積=「原罪」による「楽園追放」)。

               ↓

           擬似環境の再構築が不可能になり、擬似循環(否定神学システムの無限循環運動)が破壊される。

      労働(labor)と非労働=無為(rest)の一致という前代未聞の事態が起こる。

      =「楽園追放」されていながら同時に「楽園」にいるという事態。    

               ↓

    つまり、「起源」の時間と「歴史的時間」が一致しているという前代未聞の事態。

    ――以上が、上記2つの図で示した、極めて現在的であると思われる事態である。

「人間動物」は、労働に従事しながら、それが「中身のないコミュニケーション能力を全開させること=単に話すという生得の能力に全力で身を任せること」に等しいがゆえに、何をしているのかもはやまったく分からなくなっている。

不確定性、不安定性、エートスの破壊、方向喪失状態のなかを、もはや安定化させる=再帰化する余白を完全に奪われたまま、ひたすら分裂的に多方向に疾走し続ける。

迷子状態、ネオテニー的迷走状態(ネオテニー:身体的に成熟したのちも、人間動物だけに保存され続ける幼形状態)。→「成熟しないこと、大人になれないこと」そのものが、ポストフォーディズムの資本主義社会においては「労働力商品」となっている。

――→労働力の商品身体(不在の身体)であると同時に、完全に生物学的身体(物質的身体)でもあるという前代未聞の事態。

=どこにも居場所がない。どこに行っても余所者である。安定化=再帰化を保証してくれる帰属感が、どこに行っても得られない。その状態の無時間的持続。

   ↓

知覚的刺激の過剰と氾濫に恒常的に晒されている。

知覚的刺激から人間動物を守ってくれていた擬似文化的ニッチ(擬似環境、象徴界)の保護膜、遮蔽膜が、もはや完全に無効化している。

――→世界の「内部」に、剥き出しの状態で晒され続けている。

   世界への「開かれ」から、もう何も身を守ってくれるものがない。

               ↓

それにも関わらず、学生たち(私たち)は、「開かれ」ではなく「開かれへの閉ざされ」(の幻覚)から依然として覚めることがない(ようにも見える)。

目は開いていても、何も見ていない(ように見える)。

「意識とは眠りである」(レヴィナス)という覚醒睡眠状態が、限界まで深まっているように見える。

               ↑

         先の2つの図が示している状態。

           =潜在的な例外状態

実効的な例外状態(the real state of exception)が「実効的real」であると言えるのは、パウロのように「わたしは、自分のしていることがわかりません」という「主体の分裂」を示す告白が、身体の「内部」へと通じる傷口を穿ち続けている限りにおいて。

(身体の「内部」=「掟の門」の内部=「善悪の彼岸」)

               ↓

「善悪の彼岸にあるのは、生成の無垢などではなく、罪も責任も知らない恥ずかしさである」(アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』)。

「脱主体化にして主体化という二重の運動、それが恥ずかしさである」(『アウシュヴィッツの残りのもの』)=「主体の分裂」というパウロの体験において訪れたもの。

               ↓

「人間」が明け渡されている「根源的反復可能性」、つまり「その度ごとに反復かつ最初の一度、しかしまた反復かつ最後の一度」(デリダ『マルクスの亡霊たち』)という否定神学的システムの無限悪循環を切断することができる、おそらく唯一の契機。

               ↓

「我々は潜在的な屍肉である」(ドゥルーズ)。

――→「死」=「欠如」=「ファルス」に依存し、駆動されている否定神学システムは、身体がつねに物質的な死への通路であること、身体がつねに死の潜勢態であること、つまり「身体がいつでもどこでも死ぬことができる」ということを、完全に忘却させる

私たちが必ず「死んで朽ち果てる」ということを、完全に忘却させる

「死」を観念化、理念化することによって。

「死」は永遠に翻訳不可能な「未知」であるというフィクションの捏造によって。

「死の永遠の未知性」が、「無限」の幻想を「人間」にもたらす。

「死の永遠の未知性」が、すなわち「無限に」再生産される「剰余価値」であり、「剰余価値」は「私」の「固有名」に宿る。

「私」=「固有名」とは、つまり理念化された「死」=ファルスである。

(この「私」の「中身」は空虚、空っぽである。あらゆる「人間」が自分のことを「私」と言うから――→この「私」は、エクリチュールに宿るsingularity=「種散」の力によって可能世界のみを生きる「ほかならぬこの私」とはまったく異なる。「ほかならぬこの私」にとっては、「固有名」はもはや「普通名詞」でしかない)。

理念化された「死」の「永遠の未知性」について。それは、「享楽」と言われる。

                ↓

★「享楽」=宇宙は永遠に開かれている(ラカン)。

そのはずだった。

ところが現在、安定化=再帰化のための「余白」を喪失した「人間動物」は、かつて経験したこともないような閉塞感に押し潰され、今にも窒息しそうになっている。

――→「無限」の観念が失われ、「無限の執行猶予期間(がある)」というテレオロジー的「永遠」の時間感覚が失われた。息をすること(自然に欲望すること)を可能にしてくれていた無限の「未来」という「欠如」が、毎日欠如している。

           ↓

         ジジェクによるニーチェの「永遠回帰」の定義と合致する。

         =曲がり角を曲がっても、もう何も待っていない。

          「未来」からもうどんな「未知」の芳香(アガルマ)も漂ってこない。

          「幸福」が待っていようと「不幸」が待っていようと、「勝利」が待っていようと「敗北」が待っていようと、生の存続が待っていようと死による生の唐突な切断が待っていようと、まったく同じことである。

          一切が偶然だけになり、その状態だけが必然となる。

「耐えられない存在論的閉塞」、それが永遠回帰である。

それにも関わらず、ほとんど誰も、学生たちも私たちも、「わたしは、自分のしていることがわかりません」という「主体の分裂」によって、すでに再構築不可能になっている擬似文化的ニッチの保護膜の執拗な幻影を、切開しようとはしない。

微かに切開すれば、垣間見えるはずの「実効的な例外状態」を決して見ようとはしない。

そこに見えるはずの「怪物」としての、「無価値な者」としての自分の姿を決して見ようとはしない。

                    ↓

    

  「わたしは世の屑、すべてのものの屑になってしまいました」  

            (パウロ『コリント人への手紙 Ⅰ』四章13節)

「死が無意味化している」という言葉が、人口に膾炙するようになってすでに久しいというのに。

――→「掟の門」の「外部」としての「内部」においては、どんな主体位置から誰がどんな言葉を言おうと、「クッションの綴じ目」(=象徴化=限定作用)としての効果を担うことはできず、言葉の意味作用はたちまち空洞化される。

空虚な形骸だけの言葉が、偶有性だけが荒れ狂う「潜在的な例外状態」には些かも接近することができないまま、単なる音の羅列として虚しく反復され、すぐに忘れ去される。

                

それでも、「掟の門」の「外部」としての「内部」=「潜在的な例外状態」に純粋遺棄されている「人間」たちは、相変わらず「善意の法とその法を遵守する善意の人間たち」から構成される「暴力とは無縁で民主主義的で、自分だけは(永遠に)死なない世界」に、つまり「存在しない世界」=「非世界」に、依然として生きているつもりになっている(ように見える)。        

「根源的反復可能性」の透明な皮膜(保護膜)にすっぽりと覆われていて、「亡霊的身体」としての彼ら彼女らの亡霊性はますます猛々しいものになっていくように思われる。

なぜか?

「恥ずかしさ」としての「脱主体化にして主体化という二重の運動」ではなく、彼ら彼女らの生においては、脱主体化と主体化が完全に一致していて、そこにはもはや1ミリ程度のズレ(否定神学的自己言及)もないから。

「自分自身(固有名としての「私」)の破産、自分自身(固有名としての「私」)の喪失の証人になる」という経験、つまり「恥ずかしさ」=「主体の分裂」などという経験とは、もはや無限大の距離があるから。

※アガンベンの言う「残余=残りのもの」にほかならない「恥ずかしさ」は、否定神学的残余(剰余)とは無縁である。

それは、可能世界だけを生きる、もはや「固有名」=「剰余価値」を失った「ほかならぬこの私」のことである。

「恥ずかしさ」を知らない彼ら彼女らは、例外なく自分自身が「神」なのであり、その「神」であるところの「大文字の他者の(狂った)法」に、当然のことながらどんな懐疑も抱くことができず(否定神学的自己言及が一切できず)、それと完全に一体化している。

――→形而上学なき形而上学、形而下的形而上学とでも言うしかない。

「大文字の他者の(狂った)法」の話す言葉は、「他者」の言葉であると同時に「他者」の言葉ではなく、彼ら彼女ら自身の声なのである。

            ① 聞かれる声(エクリチュール=khôra)

 パロール(①+②)   

         ② 聞かれる存在(意味作用=シニフィエを装うシニフィアン)

表象=再現前的思考(現前の形而上学+否定神学的思考)においては、①は決して聞かれず、①はつねに②としてしか聞かれない。

――→①は「沈黙を守る声」(デリダ『声と現象』)としてのエクリチュール。

ところが、現在の「人間動物」たちのパロールにおいては、この①と②の関係が逆転しているように思われる。

②はほとんど聞かれないか、聞かれるとしても②ではなく、ほとんど①としてしか聞かれていないように思われる。

■法の空虚な潜勢力、「啓示の無」、「キリスト教的メシア」としての「田舎者」について

以上の根本的な問いかけに対し、ゲルショム・ゲルハルト・ショーレムの「不完全なニヒリズム」とベンヤミンの「メシア的ニヒリズム」を対置する考察が、説得力のある答えを開示してくれるように思われる。

啓示の無について

――→カフカが『審判』で描き出した法の様態を、ショーレムは「啓示の無」と定義している(1934年9月20日付、ベンヤミン宛て書簡より)。

「啓示が、意味するところがないのに効力をもつ、ということによって、なおも啓示自体を肯定するという側面である。意味の豊かさがなくなり、いわば啓示自体の内容のゼロ点に還元されたものであるように現れているものが、にもかかわらず消滅してしまわない(啓示とは現れる何かのことであるが)、そのような場において無が現出する」。

現代が解決できずにいる「掟」の「外部」としての「内部」への/「掟」からの全面的「締め出し」(=「主権的締め出しの構造」)を、ショーレムは「啓示の無」という定式によってもっとも上手く説明している(アガンベン『ホモ・サケル』より)。

「主権的締め出しの構造とは、効力をもつにもかかわらず意味することのない法の構造、これ以外の何だというのか? この地上のいたるところで人間は今日、法の締め出しと伝統の締め出しの内に生きている。これら法や伝統は、遺棄という純粋関係の内に人間を包含することによって、もっぱらそれら自体の内容の「ゼロ点」として自らを維持している。あらゆる社会、あらゆる文化は(民主主義的であろうと全体主義的であろうと、また、保守主義的であろうと進歩主義的であろうと)今日、正当性の危機に入り込んでいる。そこにおいて法は(この用語で、統制的な様相を呈している伝統的なテクストのすべて、すなわちユダヤの律法(トーラー)、イスラムの戒律(シャリーア)、キリスト教の教義、世俗の規範(ノモス)のいずれをも指すことにするが)、純粋な「啓示の無」として効力をもつ」(『ホモ・サケル』、下線井上)

意味なく効力をもつ法のもとに置かれた生とは、「潜在的な例外状態」における生である。

「例外状態においては、もっとも無垢な身振りや些細な忘却が極端の極みといった帰結を引き起こすこともある。[・・・]カフカが描き出しているのはまさにこのたぐいの生であり、そこにおいて法は、あらゆる内容を欠いていればこそ浸透するのであり、何の気なしに叩いたドアのノックが制御不可能な訴訟を引き起こしてしまう」(『ホモ・サケル』)

これは、「実効的な例外状態the real state of exception」であるが、先に確認したように擬似文化的ニッチの保護膜の執拗な幻影が、この限界的な状態に対して私たち(学生たち)の目を決して開かせない。

意味のゼロ点に還元されているにも関わらず、法として効力をもつ法。

――→『実践理性批判』のなかでカントが「法の単なる形式」と呼んでいるもの。

   意味なく効力をもつ法のもとに生きる者、いかなる決まった目的を命令することも禁止することもないままに効力をもつ法のもとに生きる者の条件を、カントは「尊重(尊敬)」(=「崇高な道徳的感情」)と呼んでいる。

             ↓

ショーレムの「啓示の無」はカントの「法の単なる形式」の延長線上にある。

ジジェクはそれを「イデオロギーの崇高な対象」と呼ぶ。ファルスとしての法。

カントによれば、道徳法のもつ純粋に形式的な性格は、いかなる状況においても法が適用されるという普遍的主張に基礎を与える。

――→これが、法の空虚な潜勢力である。

                 ↓

『審判』のなかでカフカが描き出す村では、法の空虚な潜勢力は「効力をもつがゆえに」生と区別がつかなくなっている。

――→ヨーゼフ・Kの実存、彼の身体そのものは、最終的に<訴訟>と一致する。彼の実存、彼の身体そのものが<訴訟>である。  

            →これは、依然として「潜在的な例外状態」である。

                 ↓ 

「啓示の無=意味なく効力をもつ法」というショーレムによる法の定義に、ベンヤミンは反駁する。

ベンヤミンの主張――→「内容を失った法は法として存在することを止め、生と区別がつかなくなる」(『ベンヤミン-ショーレム往復書簡』)

ショーレム:「きみがいう学生は、聖書を紛失した学生なのではなく、[・・・]聖書を解読できない学生なのだ」

ベンヤミン「学生が聖書を紛失したのだろうが解読できないのだろうが、結局は同じことだ。というのは、聖書固有の鍵(尊敬、ないし崇高な感情)がなければ、聖書はまさしく聖書ではなく、生だからだ。それは城のそびえる山の麓の村で生きられる生だ」(( )は井上)

                 ↑

「法を生から区別できないということ」(「例外状態」の本質的な性格)をめぐって、両者の解釈は対立している。

ショーレムの解釈:意味なく効力をもつこと、内容の彼方に法の純粋な形式を維持することを、そこに看て取る。

         「潜在的な例外状態」=意味なく効力をもつという形式の内で「無」(=「欠如(ファルス)」)が無際限に存続することを許容してしまう不完全なニヒリズム。

ベンヤミンの解釈:規則と化した「例外状態」は「法の消尽」をマークし、法が法の統制すべき生(剥き出しの生)と見分けがつかなくなるということをマークする。

         「実効的な例外状態」=「無」をさえ無化し、法の内容の彼方で法の形式が価値をもつことを許さないメシア的ニヒリズム。

 

「鍵」が失われ、もはや生と見分けがつかなくなっている律法(トーラー)に対して、ベンヤミンは「聖書のなかへと全面的に解かれた生」を立てる。

――→「生が聖書に変容するという試みに、私はカフカの寓話の多くが向かっている逆転の意味を看て取る」(『往復書簡』)。

「我々の務めは実効的な例外状態を産み出すことだ」(『歴史哲学テーゼ』第8テーゼ)。

――→「実効的な例外状態」においては、「生」と区別ができない「法」に一つの「生」が対応する。その「生」は、ちょうど正反対の身振りで、「法」へと全面的に変容する。

                 ↓

解読できなくなり、今や「生」として姿を現す聖書の不加入性に、聖書の内に全面的に解かれた「生」の絶対的な認識可能性が対応する。

        ↓

 擬似文化的ニッチの保護膜の幻影がついに機能しなくなり、私たちの目がついに世界に、つねにすでに「例外状態」であった世界に開かれる。

私たちの学生も(私たちですらも)、「聖書」に固有の「鍵」をだいぶ前から失っていて、「聖書」を解読できなくなっているのではないだろうか?

つまり、「聖書」をシニフィアンとして解読することはできなくなっているのではないだろか?

「聖書」は、学生たちの目に(私たちの目に)エクリチュールとしてしか、つまり「象形文字」としてしか見えなくなっているのではないだろうか?

学生たちの生も私たちの生も、「聖書」=法のなか、「掟の門」のなかへと全面的に解かれつつあるのではないだろうか。

デリダの言う「原=エクリチュール」は、ベンヤミンの言う「神的暴力」を強く喚起してくるのだが、そうであるとすれば、既述のように(6ページ)資本主義が自らに対し、「神的暴力」を行使しているという見解にも説得力のあるリアリティーが感じられるはずである。

――→「原=エクリチュールは、道徳性と不道徳性との根源である。つまり、倫理学の非=倫理的開始であり、暴力的開始である」(デリダ『グラマトロジーについて』、下線井上)

そう考えると、『掟の門前』にはるばる来訪した「田舎者」とは一体誰であるのか、別の視点からの、はるかにリアリティーのある解釈(アガンベンの解釈)も可能になる。

物語の末尾で門番によって語られる数語:「他の誰もここを入れなかった。というのは、この入り口はおまえだけに向けられたものだったからだ。さあ、私はもう行く。門を閉めよう」。

「掟」=法の難攻不落の権力を可能にし、法に特有の「力」を形成していたのが、その門がまさに構成上「開いている」(=「欠如」=巨大な「穴」)ということであったなら、「田舎者」の門番に対する態度や「門」を前にしての振る舞いは、「閉門」を獲得して「門」の効力を断ち切るための、実に複雑で周到で忍耐強い「戦略」であったと考えることもできる。

「田舎者」は、おそらくは自らの生を代償にして(物語は、彼が実際に死んだのかどうかは明記していない。語られているのは、ただ彼が「終わりに近づいて」いるということだけである)、本当に「戦略」を実現させる。

つまり、「田舎者」は、「掟の門」を永久に閉めさせることに成功する。

(事実、この「門」は、「(ほかならぬ)彼だけのために」開いていた)。

          ↓

「これは、意味なく効力をもつ法に対して適用される唯一の戦略であり、あまりに開けているがゆえに入ることを許さない門に適した唯一の戦略である。[・・・]そうすると、「田舎者」のメシア的任務は、潜在的な例外状態をまさしく実効的なものにし、門番に対して法の門を閉めることを強制するということなのかもしれない。というのも、メシアは、門が閉められて初めて、つまり、意味なく法が効力をもつということが停止して初めて、入ることができるからだ」(アガンベン『ホモ・サケル』、下線井上)。

         ↓

アガンベンによれば、これが、カフカが「八切版ノート」に書いた謎めいた一節の意味である。

「メシアは、自分の必要がなくなって初めて到来するだろう。彼は自分の到着の一日後にならないと到来しないだろう。彼は最後の日には到来しないだろう。彼が到来するのは一番最後の日だろう」

     ↓

「[・・・]物語が語っているのは、何も起こっていないように見えるのに、いかにして何かが起こったのかということであり、「田舎者」のメシア的アポリアがまさに表現しているのは、主権的締め出しに決着をつけるにあたって現代が直面している困難なのである」(『ホモ・サケル』、下線井上)

☆「妨げられたキリスト教的メシア」――→クルト・ヴァインベルクが『掟の門前』を解釈するにあたって、臆病ではあるけれども執拗な「田舎者」に看て取った形象。

    ↓

この示唆は、次の点を忘れなければ受け容れることができる(アガンベン)。

「メシアとは、三大一神教が法の問題に決着をつけようとして用いた形象のことであり、メシアの到来が意味するのは、ユダヤ教においてもキリスト教においてもイスラーム教シーア派においても、法の完成とは法の全面的な消尽だ、ということである。[・・・]メシア主義とは宗教的経験の限界概念であり、宗教的経験が自らを乗り越え、それ自体を法として問いただす点である」(『ホモ・サケル』、下線井上)。

    ↓

法をめぐるメシア的アポリアの数々はここに由来する。

――→・パウロ『ローマ人への手紙』

   ・サバタイ・ツェヴィ(Sabbatai Zevi)――英語表記

           (1626-1676。近代ユダヤ民族史にもっとも影響を及ぼした偽メシアとして知られるユダヤ人。彼を救世主と信じた集団は「シャブタイ派」(サバタイ派)と呼ばれ、急進的なメシアニズムを掲げて17世紀半ばのユダヤ人社会を熱狂の渦に巻き込んだ。衰退後の18世紀においても、ツェヴィの信奉者は継続的に一定の勢力を保ち、後に誕生したハシディズムに影響を与えた。ツェヴィはのちにイスラーム教に改宗している)。

    ツェヴィの教義においては、「律法の完成はその侵犯である」。

                      ↓

                  「例外状態」の逆説。

                      ↑

「例外状態」にあっては、法の侵犯を法の執行から区別することができない。

したがって、規範にかなうものと規範を犯すものは、「例外状態」においては余すところなく一致する。

――→これが、ユダヤ教の伝統においてのみならず、あらゆる純正なメシア的伝統において、メシア到来のときに起こるとされている状況である。

     ↓

この到来の第一の帰結は、法(カバラー学者の言うベリアーの律法、すなわち人間の創造からメシアの到来まで効力をもつ律法)の完成と消尽である。

                    ↓

この完成は、旧い法が単に、先行する法と同様であるが異なる命令と禁止を含む新しい法で置き換えられる、ということを意味するのではない。

――→カバラー学者によれば、メシアによって回復されるはずの原初の法、すなわち「アツィルート(第一世界)の律法」は、戒律も禁止も含まず、無秩序な文の錯綜でしかない。

                        ↓

                   律法の完成は律法の侵犯と一致する

                        ↑

        サバタイ・ツェヴィの格言「律法の完成は律法の侵犯である」。

「政治的-法的な視点からすると、メシア主義は例外状態の理論である。ただ、その例外状態を効力あるメシアが布告するのではなく、権力を転覆するメシアが布告する、という点だけが異なっている」(『ホモ・サケル』)。

「アツィルート(第一世界)の律法」が、戒律も禁止も含まず、無秩序な文字の錯綜でしかないというカバラー学者による示唆は、「聖書」が私たちの目にエクリチュール(=象形文字)としてしか見えなくなっているということと、完全にアナロジカルである。

法の純粋形式とは、関係の空虚な形式(「掟の門」の「外部」としての「内部」に純粋遺棄されていること)である。

けれども、関係の空虚な形式はもはや法とは言えない。

それは、法と生の見分けが完全につかなくなる不分明地帯、つまり「例外状態」である。

               ↓

「ここで立てられているのは、ハイデガーが『哲学への寄与』の「存在の遺棄」の項で対決している問題と同じものである。すなわち、存在による存在者の遺棄の問題である[・・・]ここでの存在とは、存在者の遺棄されてある存在(こと)、存在が存在自体へと置き戻されてある存在(こと)にほかならない。存在とは、存在者の締め出しにほかならない」(アガンベン『ホモ・サケル』、強調アガンベン)。

「何が誰によって遺棄されるのか? 存在者が、その存在者に所属する存在、その存在者にしか所属しない存在によって遺棄されるのである。そこで、存在者はそのように現れる。存在者は対象のように、用いることのできる存在(もの)のように、まるで存在が存在しないかのように現れる[・・・]。そこで、次のことが示される。すなわち、存在が存在者を遺棄するということが意味するのは、存在が存在者の明白である存在(こと)の内に自ずと隠れてしまうということである。存在自体は本質的に、この抜き取られた隠れこみとして規定される[・・・]。存在の遺棄とは、存在が存在者を遺棄するということ、存在者が存在者自体へと引き渡され、策謀の対象になってしまうということである。このことは単に「失墜」をなすのではない。これは、存在自体の第一の歴史である」(ハイデガー『哲学への寄与』、下線井上)

                ↓

歴史に初めてその「空間」を開くのは、ラング(あらゆる言表の潜勢態)とパロール(ないしディスクール)の間、境界、不連続、断裂点である――という『幼児期と歴史』におけるアガンベンの思索を想起させる。

つねにすでに言語のなかに存在しているということが「人間の本性」であるとしても、「人間」はインファンティア〔言語活動をもたない状態〕をもっているために、つねにすでに語る存在ではないために、「人間の本性」は独自な仕方で分裂しているのである。

インファンティア(幼児期)が、「人間の本性」のなかにラングとパロールの間の不連続、差異、断裂点を絶えず導きいれるから。

この差異、不連続、断裂点にこそ、「人間存在」の歴史性は初めてその基礎を見出だす。

      ↓

これこそ、「ほかならぬこの私」の声、自分の声、つまり「原=エクリチュール」であって、「私の声」を偽装する「(大文字の)他者の言葉=シニフィアン」ではない

「ほかならぬこの私の声」が、つねにすでに語らない(語ることができない)「ほかならぬこの私の声」が、偶然性だけが遍在する「空間」=「例外状態」を第一の歴史として歴史のなかに開き、世界全土にそれを拡大していく

そうすると、ハイデガーのテクストにおける「存在という存在者の遺棄」は、「何も意味することのない効力」、あるいは「法自体以外の何も命じない法によってその法へと遺棄されてあること」という意味ではないように思われる。

そのように読むことは、「ニヒリズムの内部に留まること、つまり遺棄の経験を極限まで推し進めないこと」(アガンベン)でしかないように思われる。

法や運命をめぐるあらゆる理念(カントによる「法の単なる形式」という理念も、「啓示の無」=「意味のない効力」という理念も含めて)から解き放たれて初めて、遺棄は遺棄として本当に体験される。

  ↓

遺棄という関係は関係ではない。

存在と存在者が共にあるという存在は関係という形式をもたない」(『ホモ・サケル』)。

                     ↓

      存在と存在者という2つのものは、関係がないという状態にある。

      存在と存在者の関係は「解除」される。

                  ↓

「ほかならぬこの私の声」だけで語らざるを得なくなった者たち(学生たち、私たち)は、「つねにすでに語らない/語ることができない」というインファンティア(幼児期)に支配されているために、語るそばから彼ら彼女らのシニフィアンは、シニフィアンにつねにすでに取り憑いているエクリチュールの暴力に掻き消されていく。

      彼ら彼女らの「自分の声」はもはや「沈黙を守る声」ではない。

「自分が語るのを‐聞く」という(不純な)自己‐触発、あるいは「語のテロスには、それを発声する者によって聞かれるということが含まれている」(デリダ『声と現象』という現象学的経験から、彼ら彼女らは決定的に切り離されつつある。

彼ら彼女らが語る「自分の声」は、「意味の充溢と自己現前の担い手としてではなく、意味のないオブジェ、つまり意味作用の――物質的残滓、残り物」であり、「意味を生み出す<キルティング>の遡及的作用をシニフィアンから引き去った後に残るもの」(ジジェク)に限りなく近い。

――→「大文字の他者」の関数である意味は、<キルティング>の遡及的効果として、浮遊するシニフィアン相互の関係が共時的・象徴的コード(大文字の他者)への参照を通じて固定される点(クッションの綴じ目)から、遡及的に生み出される・・・

はずであったが、諸要素の意味はもう限りなく固定されづらくなっている(クッションの綴じ目はもう、限りなく「役に立たなく」なっている)。

※クッションの綴じ目=主体がそれを通してシニフィアンに「縫いつけ」られる点、シニフィアンの連鎖が主体化される点。

              ↓ 

何を言っても、「同じ言葉」にしか聞こえなくなっている。

「この声の物質的状態がもっとも明瞭かつ具体的に表現されたものが、催眠的な声である。同じ言葉が無限に反復されると、われわれは混乱し、言葉はその意味の最後の痕跡をも失い、残っているものといったら、眠気を催させる一種の催眠力を発揮する、その不活性な存在様態だけである」(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)。

ネオテニー(成熟したのちも保存される幼形性)が「労働力商品」となり、インファンティア(幼児期)の恒常的な非時間的干渉によってもはや語ることができなくなった/語ることがなくなった学生たち(私たち)は、それでも語ることを止めてはならず、語ることを続けなくてはならない。

    ↓

「大文字の他者の法」=「シニフィアンの総体」が彼ら彼女らの声を借りて語るのではなく(「欠如」=「去勢のシニフィアン」が、他のすべてのシニフィアンに対して「主体」を代理するのではなく)、「欠如」を失った「大文字の他者の(狂った)法」が彼ら彼女ら自身の声そのものとなって語る。

語れないはずなのに、語ることはもう何もないはずなのに、それでも語る。

気がついたら、つねにすでに語っている。

気がついたら、つねにすでに沈黙している。

語ることは、語らないことと同じなのだ。

「語ることは語らないことと同じ」ということ自体が、彼ら彼女らが「可能性の深淵」(アガンベン『バートルビー――偶然性について』)に、バートルビーのように突っ立っているということなのだ。

バートルビーのように「唯一の労働となった無為」のなかに突っ立っているということが、ネオテニーの迷走状態の渦中につねにすでにいるということなのだ。

偶然性だけが荒れ狂う、直線的時間表象(資本主義の時間)が解体した「可能世界」のなかに、つねにすでに生きているということなのだ。

「(自分の)声が決して存在したことがなかったのなら、思考が(自分の)声の思考であるのなら、思考にはもはや思考すべきことなど何もない。完成した思考にはもはや思考はない」(アガンベン『思考の終わり』)

「したがって、言語が、私たちの言語が、私たちの声である。今きみが語っているその語り方、それが倫理だ」(『思考の終わり』)

「倫理とは、罪も責任も知らない世界である。それは、スピノザがよく理解していたように、幸福な生の教えである」(アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』)

「私たちがすべてのものに対して――また、存在するかもしれないすべての読者に対して――行っている恐るべき排除について。地球全体。さまざまな「最終解決」のなかでも最悪の、際限のない最終解決、これこそ私たちが、君と私が、すべてを暗号化することで、宣言していることだ、私たちの衣服、私たちの一歩一歩の歩み、私たちの食べるものにいたるまで」(デリダ『絵葉書』)

「私はまだ第二のホロコーストを夢見ている、それはそれほど遅くやってくるのではないかもしれない。私にはそれへの準備はできていることを知って欲しい、それが私の誠実さだ。私は誠実さの怪物だ、もっとも倒錯した不誠実な者だ」(『絵葉書』)。

   ↓

ここでデリダが書いていること(アガンベン以上に「過激」である)が、私(井上)が現代思想ゼミ、及び「舞台芸術」(表象文化論)講義を通じて、学生たちを連れていきたいと思っている「掟の門前」である。

学生たち(私たち)は、「掟の門」の「内部」としての「外部」に本当に純粋遺棄されているのだろうか?

彼ら彼女らに、「わたしは、自分のしていることがわかりません」という「主体の分裂」、つまり「掟の門」の「内部」=「偶然性だけの世界」に入っていくための「恥ずかしさ」という契機は、本当に存在していないのだろうか?

彼ら彼女らは、この世界には自分の「居場所」はないと、本当はつねに感じている。

自分はこの世界の「余所者」であるということを、本当はつねに知っている。

それが、彼ら彼女らの「恥ずかしさ」なのだ。

「世界は消え失せている、私はきみを担わなければならない」    

     Die Welt ist fort, ich muss dich tragen.

             (パウル・ツェラン『息の展開Atemwende』の最後の一行)

デリダが『雄羊Béliers』のなかで試みているようなこのテクストの読解は完全に無視して、私(井上)はこの一行を私の文脈のなかで勝手に使う。

世界は没落している。

交換関係のネットワーク、つまり自分の使用価値が交換価値として通用する「人間世界=資本主義世界」の執拗な存在喚起が、もうできない。

「私」の/という「剰余価値」はもう再生産されない。

「消費」は「私」をもう救わない。

「可能世界」として初めから存在していた世界が、今、初めて誕生する。

世界没落として誕生する。

学生たち(私たち)は、世界没落としての世界を担わなくてはならない。

自分の声でしか語れなくなった彼ら彼女らは、「語ること(消費すること)と語らないこと(消費しないこと)が同じ」というすっかり無為となった労働を、それでも続けていかなければならない。

語っても何も語らないことで、彼ら彼女らは「身振り」だけで話をしているとも言える。

「居場所がない」という「恥ずかしさ」が、「掟の門」の「内部」への微かな通路を彼ら彼女らの身体に穿っている限りにおいて。

「名前をもつことは罪である。正義には名前がない、ちょうど魔術のように。名前をもたない幸福な被造物は、身振りだけで話をする魔術師たちの国の扉を叩く」

                              (アガンベン『瀆神』)