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(準証拠資料)2009年9月15日トランス・アバンギャルド・シアター・アソシエーション(TAGTAS)で井上が3時間に亘り行ったレクチャーの原稿

TAGTASフォーラム レクチャー

性的差異「以前」という残余、あるいは無気味なもの

 フェミニズムの理論が折りに触れて依拠してきたのは、やっぱり、ごたぶんに漏れず、「起源」という考え方です。

 ここでの「起源」というのは、もちろん「家父長制」のまえの時代のことにほかなりません。つまり、女の抑圧の歴史が、偶発的なものでしかないことを立証するために、想像上の地平を提供してくれる時代のことです。

 家父長制以前の文化というものは存在したのだろうか、それらは、構造的には女家長的、もしくは母系的なものだったのだろうか、あるいはまた、家父長制がその始まりを持つということは、いずれ、その終わりも訪れるということなのだろうか。そのような問題提起が、これまで多くの議論によってなされてきたわけです。

 この種の問題提起の背後には、家父長制は必然であるという反フェミニズムの議論こそ、歴史的で偶発的な現象を物象化し、自然化してきたものだということを明らかにしたいという、フェミニズムの側からの熾烈な批判欲求が、当然のことながらありました。

 しかし、たとえ家父長制以前の文化状況に回帰することが、家父長制の自己物象化を暴くためであるとしても、この家父長制以前の図式もまた、別種の物象化の制度であることは、言うまでもないことです。

 「家父長制」という考え方こそが、ジェンダーの非対称性を様々な文化の文脈のなかで個別的に説明しようとする作業を妨害したり、あるいはそうした作業を乱暴に、限定的に、纏め上げてしまうような普遍化概念になる恐れがあるという批判が、随分前から出てきているようです。

 フェミニズムは、たとえば人種差別や植民地主義に対抗する闘争との連帯を強く求めてきたのですが、そのような場合に、実に多様で相互に異質な支配の配置を、「家父長制」という普遍化概念、あるいは超越概念で説明してしまうような、一種の認識上の「植民地化戦略」に抵抗することが重要なのではないかという批判が出てきているわけです。

 抑圧的で支配的な法が自己を正当化しようとするとき、法の出現のまえに関する物語に、つまりその法が必要不可欠な現在の形態をとって、いかに現れてきたかという物語に、その基盤を置こうとします。

 バトラーによれば、このような「起源の捏造」は、法のまえにどのような状況があったかを記述しようする傾向がありますが、そのような状況とは、実は、法の構築によって完結し、それによって法の構築を正当化するような、「必然」という見せかけをとる単線的な物語にほかなりません。

 したがって、「起源の物語」とは、回復不可能な過去について単一的で権威主義的な記述をすることによって、法の構築を歴史的に不可避のものに見せようとする語りの、戦略上の戦術ということになります。

 そのような「起源の物語」の極めて厄介な一例として、ここでまず取り上げてみたいと思うのは、エンゲルスの『家族、私有財産、国家の起源』というテクストです。エンゲルスがその唯物史観によって、資本主義的生産のまさに「起源」を、ほかならぬ一夫一婦制に見いだしているテクストです。

 社会主義フェミニズムや、構造主義文化人類学を根拠にするフェミニズムの立場と同様に、エンゲルスの考察においても特徴的なのは、ジェンダーの階層秩序を打ち立てる契機や構造を、歴史や文化のなかに位置づけようとする一つの試みであるという点です。

 女の従属を自然なものとみなして、それを普遍化する反動的な理論を拒否するためには、そのような構造や鍵となる時代を、歴史や文化のなかから抽出してこなくてはなりません。

 その限りでは、エンゲルスの考察は、「家父長的な」、あるいは「父権的な」抑圧の普遍化の身振りを批判的にずらし、資本主義的生産における自然化された抑圧構造に異議申し立てを行う理論の場の構築に、それなりに貢献し続けてきたと言っていいと思います。

 しかしながら、ジェンダーの階層秩序に対する有力な批判は、問題の多い規範化理念を生み出す前提的な虚構を使用している可能性が非常に強いというバトラーの警告は、残念ながらというか、当然のことながらというか、エンゲルスのテクストの読解においても強く鳴り響いてしまうのです。

 なぜなら、もう少し後で詳しくお話ししますが、エンゲルスはこのテクストにおいて、「愛」の「本性」を、異性愛的かつ単婚的(モノガミスティック)なものとして完全に自然化しているからであり、言い換えれば、強制的異性愛のマトリクスないしヘゲモニーという「前提的な虚構」を、どんな批判的懐疑的な視線を向けることもなく、度し難く無邪気に使用してしまっているからなのです。

 ところで、デリダは、Glas(『弔鐘』)の左欄、とりわけヘーゲルの『キリスト教の精神とその運命』の読解に当てられた箇所の冒頭において、次のような注記を付けています(ハンドアウト1、2を参照――、デリダがこの注記を付けているのは、より正確には、ヘーゲル哲学を「宗教の哲学」とみなして、そのキリスト教的傾向を示したあと、ハンドアウト2にあるような問いを提示した箇所において、です)。

1.

そのことは、とりわけ『家族、私有財産、国家の起源』から出発してなされる。エンゲルスのタイトルは、ヘーゲルのSittlichkeitの最初と最後の契機を再生産し、バッハオーウェンとモルガンの家族民俗学的研究から出発して、西洋キリスト教的中心の外に分析をもたらすのである。

 何が、「とりわけ『家族、私有財産、国家の起源』から出発してなされる」のかと言えば、デリダのテクストに即して考えてみると、ヘーゲル的な存在論-神学の歴史的な輪郭を描き出し、その位置をずらすこと、そこで自らを表象している歴史-哲学とは別の歴史、別の地平、別の論理を思考することだと考えられます。

 この冒頭の注記は、おそらく『弔鐘』の全体に関わっていますが、それにもかかわらず、『弔鐘』において、デリダはこれ以降、二度と再びエンゲルスのテクストに立ち戻ることはないのです。それは、おそらく『家族、私有財産、国家の起源』が、一つの失われた「起源」、『弔鐘』における一つの忘却された「起源」であるからなのです。

 いずれにしても、『弔鐘』には、エンゲルスの『家族、私有財産、国家の起源』が潜在的に反響していることは、間違いないと思われます。

 ヘーゲル的な、思弁的な存在論-神学にとって範例的であるところのその論理、その地平とは何か。デリダの読解に従えば、それは「親子関係」です。それは、「一つの父-息子関係、決して女性的ではあり得ない、一つの男性的な親子関係」なのです。

 神、人間、精霊、あるいは、父、息子、精神という三位一体こそが、ヘーゲル的、ないしキリスト教的な歴史-哲学の基礎を成しているのだとすれば、デリダが述べているように、「歴史としての精神の生は息子における父の死である」、あるいは、「精神とは、そのなかで種子が父へ回帰するところのAufhebungのエレメントである」ということになるのだと思います。

 それゆえ、このような歴史-哲学とは別の地平、あるいは別の論理を思考するためには、その基盤である男性的な親子関係とは別の歴史性を、導入することが必要になってきます。

 『弔鐘』の右欄では、左欄のヘーゲルについての考察と隣接させる形で、同性愛者であるジュネについての考察が展開されていますが、そこには、デリダによる母の想起というしかない表象が出現してくるのです。

 『弔鐘』におけるデリダのパフォーマンスは、完全な母殺しというものの不可能性を証言しており、つねにすでに主体に刻印されている母の痕跡を想起させ、そのような母の絶えざる呼び戻しを通して、父への必然的な回帰を――つまりヘーゲル的(あるいはラカン的な)回帰を――逸脱させるのである、というようなことをドゥルシラ・コーネルが指摘しています。

 『弔鐘』の右欄には、幾つか、驚くような記述を発見することができます。アトランダムに引用すると、例えば次のような記述です(ハンドアウト3、4、5、6、7を参照)。

3.

大文字の母なるもの――残余(する)。

4.

私の母は、彼女自身を私として(私において)呼ぶのだが、そのような母を、私は私自身と〔=私自身に〕呼ぶ。

(母によって刻印づけられた主体は自分自身を統合することはできず、ただ自分自身を母を介して呼び戻すことしかできない。主体性そのものを「基地」とするこのような呼び戻しは、象徴界の現前性を、そしてもちろんのこと男性主体の同一性を、破砕する。『弔鐘』におけるデリダのパフォーマンスは、みずからの去勢を拒絶する男性主体として行われている――ドゥルシラ・コーネル)

5.

私は母である=に付随する(Je suis la mère)。テクストである母。母は背後にある――私がそれであり、それを為し、それであるように見えるすべてのものの背後にある――母は付随する。母は絶対的に付随するのだから、決して現前化できないことになるだろう未来として、母は立ち会いつつもつれない仕方で、しかし魅惑的で挑発的な仕方で、みずからが産んだことになるだろうものよりも、常に生き延びるのである。

6.

分析してみて、母が退行期すなわち究極的シニフィエを示すことになるのは、ただ、母が名指すあるいは言わんと欲するものが何なのか、すなわち母が懐胎するものが何なのか、あなたが知っている場合のみである。ところで、あなたがそのことを知ることができるのは、テクストによって母の席に置き入れられる他のすべてのもの、すべての対象、すべての名(ガレー船、ギャラリー、死刑執行人、あらゆる種類の花々などは、そのいくつかの例にすぎない)を汲み尽くした後になってようやくなのである。これらの語、これらの事物のそれぞれをあなたが深く判読し終えないうちは、母について何かが残余することだろう。

 (デリダにおける母の想起を、さらにはっきり言えば、みずからが母の後を追っているのだということを想起する責任を、主体性の完成には母殺しが必要なのだというクリステヴァの主張と対比してみてもいい。デリダにとって、母殺しはこれにて落着という形で完遂されることなど絶対にない。・・・母の痕跡は残余し、たとえ象徴界の王国に主体が入国するとしても、主体は母の痕跡を刻印されている。この刻印――あるいはもっと書記的に言えば、この傷痕――は、成就した喪によって単に拭い去られたり首尾よく移し変えられたりされえない。成就した喪は、それ自体において大文字の他者――ここでは、母として抑圧されたもの――の他者性の否認である――ドゥルシラ・コーネル)。

7.

弾劾の主題=主体――みずからを私と(私において)呼ぶ私の母を、私は私と呼ぶ(=私は私に呼ぶ)。与えること(donner)、告発すること(accuser)。与格(datif)、対(accusatif)。私は母の名を担い、私は母の名である=に付随する(Je suis le nom de ma mère)。すなわち、私は私の母を私に呼び、私は私の母を私のために呼び、私は私の母を私において呼ぶ、つまり私を私の母へ立ち戻らせる〔=私を私の母において呼び戻す〕。いずれの場合にせよ、私は同じ一つの従属を格変化させているのだ。

 父の名としての大文字の他者ではなくて、母として抑圧されたものとしての大文字の他者の名を引き受けること、すなわち自分自身の内なる母の痕跡を呼び戻すことは、デリダにとっては、象徴界によって強制された去勢を拒絶することなのです。デリダにとって、母の否認は母を殺すことではまったくありません。この意味で、デリダは、前エディプス期をエディプス期によって完全に掩蔽(エンペイ)してしまうことに挑戦しています。

 このことについては、性的差異をめぐる諸問題と、ジェンダー・アイデンティティの形成や異性愛の生産にまつわる議論を検討する後半のレクチャーで、もう一度立ち返ることにしたいと思います。

 さて、『弔鐘』において、その反響を潜伏的遍在的に聴き取ることができるのは、まさにこの「母なるもの――残余」というモチーフなのです。

 デリダは、エンゲルスのテクストを主題的には一切取り扱ってはいませんが、とりわけ「父権性」の脱構築という視点において、『家族、私有財産、国家の起源』は、デリダにとっての「母なるもの――残余」という「起源」の、まさに「起源」となるテクストであるに違いありません。

 それでは、エンゲルスにとって、「家族、私有財産、国家の起源」とは何なのでしょうか。

 エンゲルスによれば、その答えは「婚姻」です。

 家族、私有財産、国家、それらの起源は同じ一つの結婚なのであり、結婚を端緒として、家族が構成され、私有財産が形成され、国家が編成されるというのです。

 エンゲルスの非思弁的な歴史-哲学は、人類の前史を野蛮、未開、文明の三つの段階に区分したあと、それぞれの段階において支配的であった婚姻形態を分析し、そうした発展段階が男性中心主義の確立に寄与してきたことを論証しています。

 この三段階の区別の規準となっているのは、もちろんそれぞれの段階における生産力です。野蛮期は採取と狩猟、未開期は牧畜あるいは農耕、そして文明期は本来的な工業の到来によって、それぞれ特徴づけられます。

 したがって、エンゲルスの歴史-哲学の主な研究対象は、資本主義的生産様式以前の社会、つまり「書かれた歴史」以前の歴史であるということになります。

 「特定の歴史的時代の特定の社会的制度は、労働と家族という二種類の生産によって条件付けられる、また、労働が未発達であればあるほど、家族による制約が顕著なものとなる」。

 そう、エンゲルスは述べていますが、そうであるとすれば、本来的な労働が定着する文明期以前の社会に遡行するためには、家族というもの自体の歴史を、その生成過程を、探究しなくてはならないことになります。

 つまり、家族の「起源」である婚姻の形態を系譜的に検討することによってのみ、家族と私有財産と国家によって基礎付けられる資本主義の、まさしく「起源」に接近することができるというわけなのです。

 しかし、何しろ「起源」を探究の対象としているために、エンゲルスは、まさに、「起源」のそのまた「起源」から、野蛮以前の段階から、探究を開始することを余儀なくされてしまうのです。

 それは、「あらゆる女があらゆる男に、またあらゆる男があらゆる女に、一様に属していた原始状態」であり、「無規律としか名づけようのない性的交渉の形態」であって、そこには、近親相姦の禁止を初めとする後代のあらゆる規律が文字通り存在しておらず、完全に「無制限な性的交渉」が行われていたのだそうです。

 逆に言うと、あらゆる「人類発展」は、そうした「無制限な、無規律な性的交渉」を制限することから開始されるのであり、その制限の程度によって、集団婚、対偶婚、単婚という三つの主要な婚姻形態が見出され、この三つの婚姻形態は、それぞれ野蛮、未開、文明という三つの発展段階に対応しているのであると、エンゲルスは分析しています。

 この三つの発展段階と婚姻制度の特徴を、ごく簡単に粗描してみます。

 まず、野蛮期=集団婚の時代です。

 まず、親子間の性的交渉が排除されることで血縁家族が誕生し、続いて兄弟姉妹間の性的交渉が排除されることで氏族制度が発達します。

 人類最初の家族である血縁家族に基づく氏族制度こそ、野蛮期における集団婚の典型となります。その特徴は、「どんな形態の集団婚家族でも、子の父が誰であるかは不確実であるが、その母が誰であるかは確実である」ということです。つまり、子を自分の腹から産んだ母だけが、彼ないし彼女を自分の子として認知できるわけです。

 「したがって、集団婚が存在する限り、血統が母方によってのみ証明され、したがって、女系のみが承認されることは明らかである」とエンゲルスは書いています。つまり、エンゲルスによれば、人類のあらゆる発展の「起源」には、一つの女権が、あるいは一つの母権が、存在したことになるわけです。

 最初期の家族形態においては、男たち、父たちは、どんな権力も支配力も有してはおらず、したがって、ここではまだ、男性中心主義のいかなる萌芽も見られません。採取と狩猟の経済は女たちが支配していたのであり、書かれざる歴史は、母たちによって編纂されていたわけです。

 次は、未開期=対偶婚の時代です。

 野蛮の上位段階で確立される氏族制度は、婚姻関係から血縁者を徐々に排除していったために、最終的には対偶婚が形成された、とエンゲルスは述べています。

 性的交渉の制限がさらに加速されていった結果、集団婚は事実上不可能となり、「多くの妻たちのうちに一人の主要な妻をもつ夫」と、「多くの夫たちのうちに一人の主要な夫をもつ妻」からなる婚姻形態が支配的になります。

 けれども、この「結びつきがルーズな一組の夫婦」は、その関係のあり方が依然として不安定で不透明なために、「以前の時代から受け継いだ共産制的世帯を解体することは決してない」のです。それゆえ、未開初期の家族も依然として女系家族であり、母方の血統が全世帯を秩序づけていたわけです。

 ところが、牧畜と農業の発達に伴う富の増大によって、事情が一変してしまいます。家畜の急激な増加によって、それまでのすべての食料調達手段が後景に退いてしまい、家畜の管理を行う所有者と、その世話を行う労働者の必要性が著しく増大してくるという事態が発生します。

 つまり、家畜の管理は、氏族による公的所有から家族による私的所有へと移行し、家畜の世話は、同じく家族が私的に所有する奴隷たちによって行われるようになったのです。

 また、家族内の分業においては、食料調達の役割を担っていたのが夫であったために、家畜と奴隷の所有権もまた、妻ではなく夫に帰されることになったとエンゲルスは述べています。

 かくして、家庭内における支配的な位置は、もはや女でなく男によって占められるようになり、さらには、私有財産の相続権が母の子ではなく父の子の手に渡るようになると、従来の母権制氏族は壊滅的な打撃を被ることになります。

 なぜなら、ここにおいて男系の血統が家族の構成原理となるからであり、これ以降は、家父長的な家族形態がついに一般化することになるからなのです。

 私たちの「書かれた歴史」は、まさにこのときから、始まったということになります。

 最後に、文明期=単婚の時代です。

 「母権制の転覆は、女性の世界史的な敗北であった」と、エンゲルスは書いています。つまり、父権制の勝利によって、まさに男性の世界史が開始されたというわけです。

 その開始の扉を開くのが単婚の確立であり、一夫一婦制は、男性による独占的支配の結果として、歴史に登場したということになります。

 つまり、このような大転換を規定しているのは、もっぱら経済的な諸事情なのであって、そこには、近代的な意味における「愛」が介在する余地はまったくなかったとエンゲルスは言っています。

 そういうわけで、「起源」としての共同所有が私的所有という新しい原理によって破砕されるとき、徹頭徹尾男性的な世界-歴史が開始されることになったのです。

 エンゲルスは次のように述べています(ハンドアウト8を参照)。

8.

単婚は決して個人的な性愛の果実ではなく、これとは絶対的に無関係であった。というのも、婚姻は依然として便宜婚であったからである。それは、自然的条件ではなく経済的条件に、つまり本源的で自然発生的な共同所有に対する私的所有の勝利に基づく、最初の家族形態であった。家庭内での夫の支配と、彼の子であることに疑いがなくて、彼の富の相続者に定められている子を産ませること――これだけが〔・・・〕一夫一婦制の唯一の目的であった。

 ここには、どんな妥協もなく、和解もなく、どんな愛も存在していません。存在しているのは、ただ一つの対立、抑圧、支配だけであり、夫と妻はつねに敵対しており、父と母は絶えず抗争のなかにいます。

 もちろん、勝敗は予め決まっていて、依然として便宜婚でしかない単婚は、つねにすでに男性にとってのみ都合のよい婚姻でしかありません。

 エンゲルスによれば、婚姻の条件がどこまでも経済的に規定されていたとしても、そのことが、必ずしも夫あるいは父の性的自由を拘束するということにはならず、それどころか単婚は、「姦通と売春によって補足される」というのです。

 野蛮から文明に至るまでの人類の先史時代の特徴として、「集団婚の性的自由が女性からはますます奪われていくのに男性からは奪われない」ということをエンゲルスは言っています。

 かくして一夫一婦制の成立は、女を男の支配下に従属させることによって、まさしくあらゆる文明の発展の条件である、あらゆる階級対立と階級抑圧を準備することになるのです(ハンドアウト9を参照)。

9.

このように、一夫一婦制が歴史に登場するのは、決して男女の和合としてではなく、いわんやその和合の最高形態としてではない。その反対である。それが登場するのは、一方の性による他方の性の圧制としてであり、それまでの先史の全期を通じて知られることのなかった両性の抗争の宣言としてである〔・・・〕。歴史に現れる最初の階級対立は、一夫一婦制における男女の敵対関係の発展と合致し、また最初の階級抑圧は、男性による女性の抑圧と合致する。

 エンゲルスの唯物史観は、このようにして資本主義的生産の「起源」を、一夫一婦制の成立に見出すことになります。

 単婚の確立とは、より正確に言えば、男系の血統による女性一般の支配、そして、父-息子関係による母権制一般の排除のことにほかなりません。

 ところで、エンゲルスのこのテクストは、家族に関する一種の民俗学的・文化人類学的研究であると同時に、その唯物論的・社会主義的研究でもあるがゆえに、資本主義の「起源」に限界まで遡行しながら、同時に資本主義の「終末」を思考しているテクストでもあるということを、ここで想起する必要があります。

 つまり、既存の国家を、資本主義的生産様式を、必然的に廃棄へと導くであろう私的所有から社会的所有への転化を強調し、それゆえ、まさに一つの「革命」を予言するテクストにもなっているということです。

 ここからが問題なのですが、それにも関わらず、エンゲルスは依然として男性的な地平、それどころかヘーゲル的論理の地平にさえ、留まっているように思えてくるのです。

 なぜかと言いますと、エンゲルスにとって来るべき社会における婚姻形態は、やはり単婚であり、近い未来に到来するであろう社会的変革は、一夫一婦制のもっとも純化された形態を実現することになると言われているからです。

 資本主義的生産様式が撤廃されれば、つまり、資本家が私的に所有する生産手段が社会的に共同に所有されるようになれば、その相続に伴うどんな再私有化も不可能になり、同時に女が売春を行う「必要」もなくなるがゆえに、婚姻形態はいわば非経済化される、というようなことをエンゲルスは言います。

 従来の単婚は、「姦通と売春によって補足される単婚」であったので、エンゲルスのこのような資本主義終末論は、したがって「姦通や売春」という「補足物」の、完全な除去を想定していることになります。

 単婚が、純化されたその本来的な形態を実現するためには、単婚は自らを補足するものから自らを完全に切り離さなくてはならない。その切り離しが、ついに全的に可能になるだろうと言っているのです。

 そのとき、婚姻は初めて一つの「全体」として実現されることになり、そこには一つの自由が、「相互の愛情」という唯一の自由な契機が、見出されるだろうとエンゲルスは言っているのです(ハンドアウト10を参照)。

10.

婚姻締結の完全な自由は、資本主義的生産とこれによって作り出された所有関係とが除去されて、今なお配偶者の選択にきわめて強い影響を及ぼしているすべての副次的な経済的配慮がそれによって取り除かれたときにこそ、はじめて一般的に達成できるのである。そのときには、もはや相互の愛情以外のいかなる動機も残らないのである。(下線、井上)

  

 「愛」とは何か、まるで完全に自明であるかのように、「愛とは何か」という問いがエンゲルスの脳裏に兆すことはまったくなく、その中身がいわば空洞化されたまま、「愛」という抽象的なものが、ここでは恐ろしいほどに自然化されてしまっています。

 とはいえ、エンゲルスは別の形で「愛」を、より厳密には「性愛」を定義することによって、自らの結論を正当化しています。その定義とは、以下のようなものです。「性愛はその本性からして排他的であるがゆえに〔・・・〕、性愛に基づく婚姻はその本性からして一夫一婦制である」。

 売春は、生産手段が社会的所有へ転化されることによって消滅することになるわけですが、単婚のもう一つの補足物である姦通もまた、エンゲルスによるこの「性愛」の定義によって、やはり密かに除去されることになるというわけです。

 要するに、エンゲルスにとっては、愛はあらかじめ姦通を、つまり婚姻を破壊する行為を、まさしくその「排他性」によって除去しているのであり、したがって愛とは、その「本性」において異性愛的(ヘテロセクシュアル)、かつ単婚的(モノガミスティック)であるということになるわけなのです。

 来るべき社会では、一人の男性と一人の女性の完全に自由な婚姻締結によってのみ、両性の歴史的な抗争に終止符が打たれるというわけです。

 つまり、「相互の愛情」は、一つの和解の原理として、あらゆる階級闘争と階級抑圧の最終的な和解の原理として、エンゲルスによって提示されているわけですが、この点に関しては、どんな問いかけも、どんな位置ずらしも見出すことはできないのです。

 というわけで、一見「革命的」であるかのように見えるこの言説もまた、極めて近代的、かつ文明的な「愛」の観念に汚染されていることがわかるのです。

 したがって、エンゲルスが最終的に想定している未来の婚姻形態、とりわけその基礎としての「性愛」の観念は、ヘーゲル的、あるいはキリスト教的な論理に、実は少しも反してなどいないのです。

 それどころか、エンゲルスが提示する資本主義終末論は、その核心に、「性愛」ないし「異性愛」という極めて伝統的な観念を置くことによって、むしろ既存の、男性的な地平と歴史を温存させてしまっているのです。

 というわけで、男性中心主義的な論理と訣別するように思えるまさにその瞬間に、エンゲルスの議論は自らが批判しているところのものへと回帰してしまうのであり、父権制に対する系譜論的な問いかけと探究にも関わらず、父権制ないし家父長制に対する彼の脱構築は、まったく不十分なものに留まるという結果に終わります。

 さて、言うまでもないことですが、私たちは、エンゲルスが予想していた社会的変革が、完全に挫折したことを知っています。資本主義的生産は、廃棄されるどころか、今や、世界全体に拡張されてしまい、資本主義に覆い尽くされた世界には、もはや外部というものは存在しなくなりました。

 言い換えれば、私たちは、エンゲルスが記述していた世界-歴史から、それほど遠ざかってはいないのであり、それどころか、エンゲルスが描いた世界-歴史の完全な延長線上にいるのです。

 つまり、売春や姦通は消滅するどころか、増大の一途を辿っており、一夫一婦制を補足するどころか、これをはるかに凌駕してさえいるのです。これが、社会主義的体制を世界中から追放したあと、グローバリゼーションの名において進行している事態にほかならず、私たちがその渦中にいるのは、ポストフォーディズムという資本主義的発展の最終段階にほかならないのです。

 したがって、エンゲルスの資本主義終末論に無効の烙印が押された以上、私たちは、彼が打とうとしたのとは別の終止符を、この狂気の世界資本主義に、あるいはその別名である永遠回帰するアウシュヴィッツに、打たなくてはならないように思えるのです。

 おそらく、『弔鐘』のデリダも、そのように考えていたに違いありません。

 『弔鐘』を書くことによってデリダが賭けていたのは、あまりにも不十分に終わったエンゲルスによる父権制の脱構築を、さらに推し進めることであったと思います。つまり、エンゲルスのテクストを出発点とする『弔鐘』は、父-息子関係に対する「母なるもの――残余」を強調するのみならず、家父長制を基盤とするあらゆる秩序を問題化しようとしているのです。

 『弔鐘』以降、デリダはセクシュアリティについて、文字通り主題的に問い始めるのですが、デリダにとっては、いかなる性(セックス)も、ジェンダー・アイデンティティも、性的差異も、おそらくまったく自明なものではないのです。

 「もし、性差が存在論的であるなら、人間が常にこのように二つに分割されることは避け難い。デリダはこのような閉鎖に抵抗しようと欲するのであり、デリダはまた、この閉鎖が<同性愛的/異性愛的>という対立に刻印を捺しているとも主張するのである」。このように述べたあと、ドゥルシラ・コーネルは、さらに議論を次のように展開していきます(ハンドアウト11を参照)。

11.

デリダが同性愛と異性愛は現行のジェンダー分割の下では「同じこと」であると主張するとき、彼は異性愛の支配的基盤を擁護しているのではもちろんない。そうではなくて、家父長的秩序は同性愛を、二つのセックスあるいは二つのジェンダー分割の内部において、異性愛の対立物として、異性愛の他者として規定することしかできない、とデリダは指摘しているのである。同性愛が同―性愛的であること(homo-sexuality)と厳格に規定されるのは、支配的な異性愛の構造の内部――その内部で同性愛は忘却される(禁止される)、とりわけ女性たちの間では退行として忘却される(禁止される)――においてのみである。生きられるセックスに対して限界的読解を与えるのは、セックス/ジェンダー分割そのものなのだ。どのようにすれば、思考されえない通路をせめてほのめかすことだけでもできるだろうか。そうする一つの道は、差異を喚起することであり、さらにありていに言えば、性的差異「以前」としての贈与を喚起することであるが、この「以前」とはいかなる厳密に時間的な意味で言っているのでもない。なぜなら、そうした時間的意味だとすると、またもや、根源的/派生的という分割を復元することになってしまうだろうからである。

 つまり、男/女という単純かつ強固なセックスないしジェンダーの二分割こそが、その内部において異-性愛/同-性愛という対立を構築しているのであり、この限りにおいて異性愛と同性愛は「同じ」である、すなわち同じ一つの分割に基づいているのであると、デリダ、コーネルは言っているのです。

 このような二分割が前提とされる限りは、家父長的異性愛的秩序は、つまり強制的異性愛体制のヘゲモニーは、同性愛を自らの他者として規定し、同性愛を抑圧し禁止することしかできない。とりわけ母権制を想起させるレズビアンは、もっとも疎遠な他者として排除されるというわけです。

 こうしたデリダ、コーネル的観点からみると、エンゲルスの「性愛」の概念が純粋に異性愛的で父権的であるのみならず、彼のテクストが「セックスあるいはジェンダーの分割それ自体」を無傷(むきず)のままに温存していることが、さらに明白になります。

 事実、エンゲルスは、彼が「両性の抗争」と捉えた文明期直前の段階にあるアテナイの家族形態と娼婦制(ヘテリズム)に触れたときにも、彼はゲイにまつわる契機を、ガニュメデスの形象にかこつけて、信じがたいことに「厭うべき男色」だと言って非難しているのです。

 しかし、いわゆる「少年愛」が不快で忌まわしいものであるというこの見解は、エンゲルスによる野蛮期以前の「無規律な性的交渉」の想定、あるいは肯定と衝突するように思われ、大変奇妙な印象を受けます。

 いずれにしても、セックスないしジェンダーの二分割をまったく疑問視することなく、完全に自然化し、内面化しているために、エンゲルスの分析はつねに異性愛的かつ父権的にならざるを得ないのです。

 たとえ、エンゲルスの唯物史観が男性中心主義に批判的であるとしても、それは、自らが前提しているものから、自らを分けるまでには至っていないのです。

 これこそ、ジェンダーの階層秩序に対する有力な批判は、問題の多い規範化理念を生み出す前提的な虚構を使用している可能性が非常に強いというバトラーの指摘の、典型的な一例なのです。

 ところで、デリダは、『弔鐘』のなかで、次のように述べています(ハンドアウト12を参照)。

12.

性的差異――例えば、女性らしさ――は、それがいかに還元不可能であろうとも、贈与あるいは命運についての思考と較べれば、派生的で、従属的なものにとどまるのではないか。〔・・・〕私にはわからない。「差延」を「性的差異」以前に考えるべきなのか、あるいは性的差異「から出発して」考えるべきなのか。この問いは、意味を持ちはしないかもしれないが(私たちは、ここで、意味の起源にいるのであって、意味の起源は「意味を持つ」ことができない)、少なくとも、なおも何ものかを切り開くチャンスを(たとえそのチャンスが不適切なものに見えようとも)持っているのだろうか。

 デリダのこの言説に対し、コーネルは、「彼は、両性への閉鎖を破り開くという倫理的欲望のために、差異を、すなわち性的差異「以前」の贈与を考えるよう誘惑されるのである」と書いています。

 しかし、この点については、コーネルはデリダに同意せず、「ただ性的差異の内部から出発することによってのみ、私たちは女性的なものを「肯定する」ことができる」と主張します。

 女性的なもの、あるいは母性的なものを、自らのフェミニズム的実践におけるもっとも重要な探究対象とする点で、コーネルの思想は、リュス・イリガライ、エレーヌ・シクスーなどの延長線上にあり、また、コーネルは、この二人のいわゆる「エクリチュール・フェミニン」を極めて高く評価しています。

 一方で、コーネルは、同じように女性的なもの、母性的なものを本質主義的、自然主義的に捉えるロビン・ウェストやジュリア・クリステヴァなどに対しては、情け容赦のない批判を差し向けています。

 さて、「性的差異の内部から出発しなければならない」ということは、「現行のジェンダー分割」の外部を想定することなしに、家父長的異性愛の他者たちを積極的に肯定していかなくてはならない、ということを意味しています。

 コーネルによれば、そのような肯定は、ロゴスの領域においてではなく、ミュトス-神話の領域においてなされるのであり、このことは、「隠喩的-メタファー的転移」の危険を冒すことによってのみ遂行されます。

 つまり、男/女というセックスないしジェンダーの二分割の内部から出発し、そのような分割にはもはや還元されない「女性的なもの」を思考することによってこそ、有史以来のヒエラルキー秩序を脱構築することができるのであり、そのような思考は、本質主義的ないし自然主義的なアプローチでは不可能であるがゆえに、まさにここで「隠喩的-メタファー的転移」が必要とされるというわけです。

 たとえば、コーネルが批判するキャサリン・マッキノンやロビン・ウェストのように、女が女であることを単純に言明しようとする「欲望」は、自らが転覆させるはずの性的差異を再-確立することになってしまうがゆえに、「女性的なもの」は、あくまで「隠喩」や「転移」に委ねられなくてはならず、「女性的なもの」は「女性的なもの」の「再解釈」、つまり「女性的なもの」の新たな解釈を通じて、再び、新たに、見出されなくてはならないというのです。

 つまり、既存の男根ロゴス中心的な歴史、地平、論理の奥底に沈潜する「女性的なもの」へと遡行しようとするからこそ、コーネルは「隠喩-メタファー」の非‐論理化を、したがってその新たな「再-隠喩化」を、強調するのです。

 「私たちは、神話の語り直しとその再-隠喩化を通じて女性的なものを肯定する必要がある」と述べるコーネルは、だからこそ、デリダのように「性的差異以前」に遡行することができないのです。

 コーネルの言う神話とは、「書かれた歴史」以前の歴史、母たちが編纂し女たちが司っていた歴史、コーネルの言い方を用いればher-historyであるところの歴史=物語にほかなりません。

 そのような神話が持つ「女性的なもの」への喚起力を、それを決して実体化することなく活かすこと、また、転覆すべきジェンダー・ヒエラルキーを再建することなしに、そうした歴史=物語を新たに神話化すること。「神話の語り直しとその再-隠喩化」とは、まさにこうしたものです。

 つまり、コーネルは、神話の新たな神話化を通じて、「女性的なもの」の自然主義化ないし本質主義化を、あるいは神話への純粋な回帰を、回避しようとするのであり、男根ロゴス中心主義への神話の還元になってしまう理性(ロゴス)による神話(ミュトス)の克服を、克服しようとしているわけです。

 コーネルにとっては、ロゴス/ミュトスという伝統的な二項対立も、おそらくまったく自明なものではないはずです。神話の再解釈、あるいはむしろ新たに神話化された神話の再解釈においては、狭義の意味での理性化も神話化も、両方ともつねに否定されているのであり、そのような二重の否定を通じて肯定されるものこそ、コーネルにとっての「女性的なもの」にほかならないのです。

 そして、そのような肯定がなされたときには、男のセックス/女のセックスという強固に規範化されたジェンダー二分割が解消されるのであり、同時に異性愛/同性愛という強制的異性愛体制下での区別もまた、消滅するということになるわけです。

 ところで、デリダは、「女性的なもの」を、コーネルのようには強調していませんし、また父権的秩序や強制的異性愛体制のヘゲモニーに関しても、やはり「性的差異以前」に遡行していくように思えるのですが、デリダが思考しているその「性的差異以前の贈与」こそが、実はコーネルによって「女性的なもの」と呼ばれているものに、ほかならないように思えるのです。

 つまり、デリダをして拘泥させてやまない「性的差異以前の贈与」は、あらゆる男根ロゴス中心主義を通過してなお、まさに「母なるもの――残余」として残っている、あるいは与えられていると、おそらくデリダは考えているように思われるのです。

 コーネルは、デリダのエクリチュールについて、例えば次のように述べています(ハンドアウト13、14を参照)。

13.

デリダによる言語効果の女性化は、イリガライやシクスーにおける「女性的な」セックスのエクリチュールとは異なる。デリダの目的は、比喩の作り替えによって女性の「セックス」を肯定することに直接あるのではなく、言語効果の男性化の中に反映しているジェンダー・ヒエラルキーに挑戦し続けることにある。このような言語効果の導入は、完全には見積もり得ない、ある遂行的な側面を有するのだが、この側面は、中性性の仮面を暴き、「これが男性的であり、これが女性的である」と厳格に割り振るような、両性間の分割線を問いただす。

14.

かくして、「多性的なpolysexual」声のコーラスにおいて書くというデリダのスタイルそのものが、男性か女性かのどちらかのセックスへ具現化させることと結託するジェンダー・アイデンティティの、その規範秩序を破裂させようとする彼の欲望を表してもいる。デリダにとって、「私たちは性的には誰なのか」という問い〔・・・〕に対する「答え」へは接近不可能である――すなわち、男性か女性かどちらかの視座が具現化されて、著者〔=デリダ〕がある統一的なジェンダー化された立場から語り、書くことになるならば、不可能である。

 それにもかかわらず、というか、だからこそ、とりわけ『弔鐘』やSpurs (『衝角』)や『絵葉書』のようなテクストに見られるデリダのエクリチュールは、「神話の語り直しとその再-隠喩化」と言ってもいいようなものであり、コーネルはそのことを、言おうとすることもなしに言っているように思われるのです。

 いずれにしても、今や決定的に明らかであるのは、私たちは、男のセックス/女のセックスというジェンダーの二分割を、もはや維持することはできないということです。同様に、異性愛/同性愛という対立も、保持するべきではないというより、保持することはできないということです。

 そして、このような分割と対立を基盤とした一夫一婦制こそが、資本主義の「起源」に見出されるのだとしたら、父権制の脱構築は資本主義の脱構築でもあることになります。

 私たちは、エンゲルスがそうしたように、文明以前の時代に、テレオロジー的な弁証法に憑依される隙を与えず、いわば非時間的に遡行する必要があるのであり、エンゲルスとはまったく異なる仕方で、「性的差異以前の贈与」としての「女性的なもの」を、思考していく必要があるのだと思います。

 それゆえ、エンゲルスのテクストが、そこに向けて出発せざるを得なかった「起源」が、やはり問題になります。なぜなら、今日のゲイやレズビアンが痛切に希求し、あらゆるセックスワーカーや情婦たちがそれを渇望している(かもしれない)性的自由は、そのような非時間的な「起源」にしか、おそらく場を持つことはないからなのです。

 その場とは、もちろん父権制の彼方であり、同時にまた、あらゆる資本主義的生産の彼方でもあります。エンゲルスが述べたような、ある種の無制限性こそが、そのような法=権利を与えることができるのであり、ある種の無条件性こそが、そのような法=権利を行使することができるのです。

 私たちは、文明の末端において、野蛮の先端に戻らなくてはならず、労働が終わりかけている時点において、労働がまだ開始されていない時点へと戻らなくてはならないのかもしれません。

 しかし、パオロ・ヴィルノが立証しているように、文明の末端と野蛮の先端は、そして労働と労働の不在は、現在のポストフォーディズムの資本主義においては、まさに「起源」と歴史的時間の前代未聞の一致という形で、すでに実現されてしまっているのです。

 そのような歴史的状況における性的自由とは一体何であるのか、仮にそれが場を与えられているとしても、それが、享受しているというに値する性的自由であるとはとても思えず、それどころか性的自由は性的自由の不在、無制限の性的自由は極限的な性的不自由、セックスという労働はセックスの空洞化(単なる形式化)であるという事態が、すっかり恒常化してしまったように思えるのです。

 性的行為と無為が、つまり何もしないことである反生産が、完全に同居してしまい、無為ないし反生産という潜勢態がいよいよ浮上してきて、性的行為を文字通りの無意味さと空虚さで侵蝕しているという事態が、多くの「人間」たちの生(life)に、ついに訪れるようになってしまったのではないでしょうか。

 今、「人間」という言い方をしましたが、潜在的にはもはや男のセックスでもなく女のセックスでもない者たちを、果たして「人間」と呼ぶことができるのでしょうか。

 以上が、大体前半部です。ここから、現代の非常に入り組んだジェンダー論を主な参照項とする、幾分込み入った議論になりそうな後半部に入りたいと思います。

 さて、これまでの言説においては、セックスという用語とジェンダーという用語をあまり区別せずに、というか、その二つの用語の区別を曖昧に開いたまま、かなり無作為に使用してきました。

 しかし、ここでは、この二つの用語の区別にまつわる問題を、まず明確にすることから始めたいと思います。

 フェミニズムの文脈で、セックスとジェンダーの区別がなぜ持ち出されるようになったというと、それは、<生物学は宿命である>という公式を論破しなくてはならないという要請があったからです。

 この区別は、セックスの方は生物学的で人為的な操作が可能だけれども、ジェンダーの方は文化による構築物であるという理解を、当然のことながら助長するものです。つまり、ジェンダーは、セックスから因果的に導き出される結果などではなく、また、セックスのように固定しているように見えるものではない、という理解です。

 もしも、性別化された身体が、身にまとう文化的意味のことをジェンダーと言うとすれば、ジェンダーはある一つの道筋を通じて、セックスから直接的に導き出される結果であると言うことはできなくなります。

 この論理を突き詰めると、セックス/ジェンダーの区別は、性別化された身体と、文化的に構築されるジェンダーとの間の、根本的な断絶を示唆していることになります。

 性別という安定した二元体は存在していると、とりあえず仮定したとしても、「男」という構築物がオスの身体から自然に生まれ、「女」はメスの身体だけを解釈するものであるということには全然ならないのです。

 二つのジェンダーという仮定は、ジェンダーはセックスを映す鏡であるとか、ジェンダーはセックスによって制約されているといったような、ジェンダーとセックスの間の模倣関係を、暗黙裡に信じていることから帰結します。

 したがって、構築物としてのジェンダーの位置は、セックスとは根本的に無関係なのです。

そのように理論づけて初めて、「ジェンダーは自由に浮遊する人工物となり、その結果、男や男性的なものがオスの身体を意味するのとまったく同様に、たやすくメスの身体を意味することもでき、また、女や女性的なものがメスの身体と同様にたやすくオスの身体を意味することもできるようになるだろう」と、バトラーは述べています。

しかし、そもそもセックスおよび/またはジェンダーは、一体どのようにして所与のものとなるのでしょうか。一体どんな手段によって、そのようなものが出来上がるのでしょうか。

 この問いは、大変重要なものであると思います。なぜなら、この問いを省略して、「所与の」のセックスとか、「所与の」ジェンダーに言及することなど、およそ不可能であると思えるからです。この問いに対する答え、というか、この問いをめぐるかなり複雑な議論については、もう少し先で検討したいと思います。

 とりあえず、セックスについて、それは自然であるとか、解剖学上のものであるとか、染色体であるとか、ホルモンであるとかといった、様々な科学的言説がありますが、このような科学的言説は、セックスの二元体が可変的な社会的構築物であることを、間違いなく隠蔽するために機能しています。

 セックスの自然な事実のように見えているものは、実は、それとは別の政治的、社会的、あるいは資本主義的な利害に寄与するために、こうした様々な科学的言説によって言説上、捏造されたものにすぎないのです。

 セックスには、通常考えられているような「不変性」などというものは存在せず、それは、ジェンダーとまったく同様に、社会的に構築されたものにほかなりません。したがって、バトラーの言葉をそのまま用いれば、「実際、おそらくセックスは、つねにすでにジェンダーなのだ」ということになります。

 セックスそのものがジェンダー化されたカテゴリーであるならば、ジェンダーをセックスの文化的解釈であると定義することは、もはやまったく無意味となります。

 ジェンダーは、法的概念としての生得のセックスに、文化が意味を書き込んだものではなく、ジェンダーとは、それによってセックスそのものが確立されていく生産装置のことであると、理解しなくてはなりません。

 したがって、セックスが自然に対応するように、ジェンダーは文化に対応するということにはならないのです。ジェンダーとは、言説/文化の一つの手段にほかなりません。

 ジェンダーというまさにその手段を通じて、「性別化された自然」とか「自然なセックス」とかといったものが、文化のまえに存在する「前-言説的なもの」として、つまり、「文化がそのうえで作動する政治的に中立的な表面」として、生産され、確立されていくことになるわけです。

 言い換えれば、セックスの内的安定性やその二元的な枠組みを、自然なものとして文化が打ち立てるためのもっとも効果的な方法は、セックスの二元体を言説以前の領域に、つまり「前-言説的な」領域に追いやってしまうことなのです。それゆえ、セックスを前-言説的なものとして生産することは、ジェンダーと呼ばれる文化構築された装置が行う結果であると、理解しなくてはなりません。

 さて、ここで、先の問いに戻りたいと思います。セックスおよび/またはジェンダーは、一体どのようにして所与のものとなるのか、という問いです。もっとも、セックスはつねにすでにジェンダーであるわけですから、ジェンダーは、一体どのようにして所与のものとなるのか、というのが正確な問いであることはすでに明らかだと思います。

 この問いについて考えていく過程で、前半部の最後に提出した問い、すなわち、潜在的にはもはや男のセックスでもなく女のセックスでもない者たちを、果たして「人間」と呼ぶことができるのだろうかという問いに対する答えも、自ずと明らかになってくるだろうと思います。

 この問いについて考えるためには、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの有名な一節から始めるのが有益であると考えます。

 周知の通り、『第二の性』のなかで、ボーヴォワールは「ひとは女に生まれない、女になる」と書きました。

 しかし、「女」になることを行う「ひと」とは誰なのでしょうか。適切な時期に、そのジェンダーになる人間がいるのでしょうか。その人間は、そのジェンダーになるまえは、そのジェンダーではなかったと考えていいのでしょうか。ジェンダーが構築されるときの時期、あるいはそのメカニズムは何なのでしょうか。一体、いつこのメカニズムが文化の場面に到来して、人間主体をジェンダー主体に変えるのでしょうか。

 あるいは、つねにすでにジェンダー化されていない人間というものは、これまで存在していたのでしょうか。

 ジェンダーのしるしは、身体を「人間の身体」として、いわば「資格づける」もののようなのです。すなわち、赤ん坊が人間化される瞬間は、「これは男の子か、女の子か」という問いに答えられるときなのです。

 どちらのジェンダーにも合致しない身体形態は、人間の「外」にあるもの、つまり非-人間的で、おぞましきものの領域を構築するものであり、そういうものとは区別して、人間なるものが構築されるのです。

 もしもジェンダーがつねにそこにあって、「人間の資格」を持つものを予め制限しているのであれば、あたかもジェンダーが文化によって付け加えられる補足であるかのように、ジェンダーになっていく人間について語ることなど、どうしてできるというのでしょうか。

 いずれにしても、ボーヴォワールが積極的に肯定しようとしていることは、ひとはあるセックスをもって、あるセックスとして、つまり性別化されて、生まれてくるということ、そして、性別化されているということと人間であることは同延上にあり、同時に起こるものだということです。

 セックスは人間の解剖学的な属性であり、性別化されない人間など存在しないのであり、セックスは「人間の資格」を与えるときの必要不可欠な属性なのであると、ボーヴォワールは言っているのです。

 しかしながら、ボーヴォワールは、セックスがジェンダーの原因であるとは考えておらず、またジェンダーがセックスを反映したり、表出したりするものであるとも考えてはいないようなのです。

 つまり、ボーヴォワールにとって、セックスは不変の事実であるけれども、ジェンダーは獲得されるものであり、セックスは変化することができないけれども、ジェンダーはセックスの文化的な構築物である以上、変化する余地があるものなのです。

 そうすると、ボーヴォワールの理論は、バトラーが指摘しているように、彼女自身が行った以上のラディカルと思える結論を暗示していることになります。

 すなわち、セックスとジェンダーが根本的に別々のものであるならば、所与のセックスであることは、所与のジェンダーになることでないという結論になるのです。つまり、「女」はメスの身体の文化的な構築物である必要はなく、「男」はオスの身体を解釈する必要はないという結論になるのです。

 性別化された身体は、数多くの異なったジェンダーの契機となり得るし、さらには、ジェンダーそれ自体が通常のように二つのジェンダーに限定される必要もないという極めてラディカルな結論を、ボーヴォワールの言説は彼女自身の意図を超えて、強く示唆しているわけです。

 もしもセックスがジェンダーを制約するものでないならば、セックスの二分法と思えるものに限定されないジェンダーが、つまり性別化された身体の文化的な解釈が、多数複数あるということになります。

 また、もしもジェンダーが、ひとが<なる>ものであって、もともとそうで<ある>わけではないものであるならば、ジェンダーとは一種の<なること>、つまり営為であって、ジェンダーは名詞や、実体的な事柄や、固定した文化のしるしづけとしてではなく、ある種の不断の反復行為とみなすべきであるという、さらなる結論も考えることができます。

 ジェンダーがセックスに、その原因としても、その表出としても、まったく結びついていないのであれば、ジェンダーは、セックスの二分法と思えるものによって押し付けられる二元的な制約を超えて、増殖していく可能性を持った行為ということになってくるのです。

 ところで、レズビアンの理論家でもあり作家でもあるモニカ・ウィティッグは、「ひとは女に生まれない」という言葉を、『フェミニスト・イッシュー』誌所収の同名の論考のなかで、反復して用いています。

 彼女の主な二つの主張は、ボーヴォワールを反復すると同時に、ボーヴォワールから自らを切り離してもいます。

 唯物論者でもある彼女の一つ目の主張は、セックスのカテゴリーは不変でもなければ自然でもなく、生殖のセクシュアリティという目的に寄与するためにのみ、自然というカテゴリーを利用する極めて政治的なものであるという主張です。

 つまり、人間の身体を男女のセックスに二分することは、異性愛の機構に応え、異性愛の制度に自然主義的な見せかけを与えるという以外に、どんな正当な理由もないというのです。

 それゆえ、ウィティッグにとっては、セックスとジェンダーの間に区別はありません。彼女にとって「セックス」のカテゴリーは、ジェンダー化されたカテゴリーにほかならず、完全に政治の色に染められていて、自然化されてはいても、まったく自然ではないのです。

 ウィティッグの二つ目の主張は、まったく反本能主義的な主張であり、レズビアンは女ではないというものです。

 彼女の議論によれば、女は、男との二元的で対立的な関係を安定化させ、強化させる項目として存在しているにすぎず、このような関係というか、関係不在の関係こそ、異性愛だというのです。

 彼女の主張では、異性愛を否定するレズビアンは、もはや対立的な関係で定義できるものではなく、事実、レズビアンは、女と男という二元的な対立を超越しているのであり、したがってレズビアンは女でもなければ、男でもないのです。さらには、レズビアンにはセックス(性)もないのです。なぜなら、レズビアンは、セックスのカテゴリーを超越しているからなのです。

 レズビアンは、セックスというカテゴリーを拒否するがゆえに、セックスというカテゴリーが文化によって偶発的に構築されていることや、異性愛のマトリクスという暗黙の、しかし永続的な前提があることを暴いていくのであると、ウィティッグは主張しています。

 ウィティッグにとっては、「ひとは女には生まれない、女になるのだ」というよりも、「ひとはメスには生まれない、メスになるのだ」と言ったほうが、おそらくより正確なのだと思います。さらに、彼女の極めてラディカルな議論によれば、もし選ぼうと思えば、ひとはメスにもオスにも、女にも男にもならないでいることができるのです。

 ウィティッグは、「セックス」を、女やゲイやレズビアンにとって抑圧的な意味体系が言説のなかで生み出し、流通させているものと考えています。

 そして彼女は、この意味づけの体系に参加することも、体系の内部で改革的、攪乱的な位置を取ることの有効性を信じることも、拒否しています。

 なぜかといえば、少しでもこの体系に関与すれば、体系全体に関与することになり、ひいてはそれを追認することになってしまうからなのです。

 その結果、彼女が思い描く政治的な課題は、セックスに関する言説全体を転覆させること、「ジェンダー」を、つまり、彼女が言うところの「架空のセックス」を、人間と事物の両方の本質的な属性とみなす文法そのもの(とくにフランス語の文法)を転覆させることなのです。

 コーネルやバトラーは、ウィティッグの強制的異性愛体制に対する極度にラディカルな全体的否定に対し、部分的には理解と共鳴を示しながらも、そのような否定は、究極的には自らが否定している当の異性愛の枠組みに依存することになってしまうと言って警鐘を鳴らしています。

 しかし、とりわけバトラーのウィティッグ批判には、ヘーゲル主義者バトラーの臭いが濃厚に漂っているように思われ、マルクスが言うところの言語の物質的次元としての一般的知性や、可能世界のみを唯一のリアルと考えているように私には思われるウィティッグの理論や実践は、人間の善性に対する最後の信仰を捨てきれないバトラーの理解をどこか超えているように感じられるのです。

 例えば、ウィティッグは、「セックス」という言説のカテゴリーは、社会の場に無理やり押し付けられた抽象名辞、二次的な、あるいは物象化された「現実」を生み出す抽象名辞であると考えています。

 各個人は、経験の客観的な与件と考えられているセックスの「直接的知覚」を持っているように見えているけれど、そのような客観的事象こそ、そのような与件になるように暴力的に形成されてきたものであり、それにも関わらず暴力的形成の経緯やメカニズムは、その事象に関連してもはや、決して現れ出ることはないのであると、ウィティッグは主張します。

 それゆえに、「セックス」は、その結果によって隠蔽される暴力的なプロセスの現実=結果だと言うことができるのです。

 すべて現れて出ているものは「セックス」のみであり、それゆえ「セックス」が存在の全体であると、理由もなく、ただ、その理由がどこにも見えないというだけなのですが、知覚されることになってしまうのです。

 ウィティッグにとって言語は、長い年月繰り返されることによって、ついには「事実」と誤認される現実=結果を生産、再生産する一連の行為にほかなりません。

 性的差異を名づけていく反復実践は、共同体のレベルでは、自然な区分という外見を作り上げることになります。「セックス」の名づけは、支配と強制の行為であり、性的差異の原理に添うように身体を言説/知覚によって構築するように要請し、そうすることで社会的現実を作り出し、かつそれを合法化する制度化されたパフォーマティヴィティなのです。

 というわけで、ウィティッグの言説によって描き出される「セックス」は、言語にとっての詩的言語のような、あるいは資本主義にとっての貨幣のような、一般的等価物を連想させるものがあります。

 コーネルやバトラーに決定的に欠落している視点は、『資本論』のなかの二つの重大な記述から、直ちに類推される視点です。

 二つの重大な記述とは、「労働力の所持者は死を免れない。したがって貨幣の資本への連続的転化は、労働者が市場に連続的に現れるために、労働力の売り手が、〔・・・〕生殖によって永久化されねばならないという前提に拠っている」という記述、そして「もし労働力自身が資本によって商品として生産されるものであれば、もっともそんなことになるとすでに資本そのものが、否、社会そのものが存在しないことになるが、こういう廻り道を必要としないわけである」という記述です。

 この重大極まりない二つの記述から直ちに類推される視点、すなわち資本制と強制的異性愛の難攻不落の共犯関係という視点が、不十分かもしれないのですが、反本能主義者でもあり唯物論者でもあるウィティッグの理論と実践には、確かに宿っているように思われるのです。

 ウィティッグは、一方で「セックス」はつねにすでに女であって、ここにはただ一つのセックスしかなく、それは女というセックスなのであるとも言っています。「性的な」存在であるということは、つねに特殊な存在、関係的な存在になるということであり、この体系のなかでは、男は普遍的な人間という形態に関わるものとなります。

 彼女の主張によれば、この強制的異性愛体制の社会関係においては、女は存在論的にセックスに染まっており、ゆえに女はセックスであり、逆に言えば、セックスは必ず女のものであるということになるのです。

 労働力の商品身体でしかあり得ない人間の身体を、資本による強制であるとも知らずに再生産する生殖身体としての女の身体が、生殖のセクシュアリティというテロスへの寄与を拒絶するウィティッグには、透視できているのではないかと私には思えるのです。

 セックスによるしるしづけのまえに存在していると思われている多形倒錯を、ウィティッグは、人間のセクシュアリティの最終目標(テロス)として価値づけていると、バトラーは批判しますが、この批判は、ウィティッグの理論と実践に内在する様々な潜在的可能性に対する、極めて過小評価した見方に由来するものであると思われます。

 コーネルによって「肉体性の異教徒たち」の一人と評されるウィティッグの、強制的異性愛体制に敵対する、まさにテロリスト的な理論と実践に内在する潜在的可能性について、もっと語りたいと思うのですが、残念ながら時間がありません。

 ここで、先ほどの問いに、もう一度戻りたいと思います。すなわち、セックスおよび/またはジェンダーは、一体どのようにして所与のものとなるのかという問いです。あるいは、より正確な問いは、「ジェンダーのしるし」はいかにして発生するのかという問いであることが、ここではもう明らかになったと思います。

 また、ちょっとウィティッグを引き合いに出すと、精神分析よりのフェミニズミムであれば、「ジェンダーのしるし」が発生するときの言語の意味と機能を、ウィティッグは過小評価しすぎているといって、ウィティッグの理論を批判するに違いありません。

 なぜなら、ウィティッグは、ジェンダーのしるしは偶発的で、根本的に可変的で、またそれなしでも済ませられると、一応は理解しているように思えるからです。しかし、ラカン派の精神分析にとっては、いわゆる一次禁止の位置は、はるかに強制的で、はるかに偶発性が少なく作用しているものなのです。

 ラカンにおいても、イリガライによるポスト・ラカン的なフロイトの再定義においても、性的差異は、実体の形而上学を基盤として温存している単純な二分法ではありません(ここで、ちょっと注釈を付け加えておくと、実体の形而上学に対する批判は、心理学上のひと<人格>を実体的な事物とみなす思考への批判を暗示するものです。たとえば、ミシェル・アールは、「すべての心理学上のカテゴリー(自我、個人、人格)は、実体的なアイデンティティという幻想から派生したものである」と言っています)。

 さて、そこにおいて、ラカンやフロイトの再定義において、男性的な「主体」とは、近親姦を禁止して、そして異性愛化の欲望の無限の置き換えを強制する法によって生み出される、いわば架空の構築物なのです。

 それに対して、女性的なものは、決して主体のしるしにはなりません。女性的なものは、ジェンダーの属性には決してなりえないのです。

 女性的なものとは、欠如(存在しない)の意味であり、象徴界という性的差異を有効に生み出す差異化の言語法則によって、意味づけられるものです。

 男性的な言語位置は、象徴界の法、つまり父の法の基盤をなす禁止によって要求される、固体化と異性愛化を経験することになります。

 つまり、息子を母から引き離して、それによって両者の間に親族の関係を樹立する近親姦のタブーは、「父の名のもとに」制定された法なのです。

 同じように、女児が母と父のいずれにも欲望することを禁じる法は、女児に対して、母性という符号を身につけて、親族の規則を永続化させることを求めるものです。

 このように、男性的な位置も女性的な位置も、文化的に理解可能なジェンダーを作り出す<禁止>という法によって制定されるわけですが、それが為されるのは、想像されるもののなかに再び登場してくる無意識のセクシュアリティの生産によってなのです。

 つまり、抑圧されたセクシュアリティの場所として、主体の言説の内部に、主体の首尾一貫性を不可能にさせるものとして、再登場してくるのが、無意識という重要な次元なのです(ちなみに、私がウィティッグに共鳴と可能性を感じるのは、この無意識の次元を大胆に、露骨に無視しているところです)。

 さて、それゆえ、男性性/女性性という分離軸にそって首尾一貫した性的アイデンティティを構築しようとする行為は、この無意識の干渉によって必ず失敗することになります。

 抑圧されたものが不意に姿を現すことによって、この首尾一貫性は崩壊してしまい、「アイデンティティ」が構築物であるということだけではなく、アイデンティティを構築している禁止が実は無効であることも、明らかにしてしまいます。

 したがって、父の法は、決定論的な神の意志などではなく、永続的な失敗なのであって、父への反乱の土壌を絶えず用意しているものなのです。

 以上は、先の問いへの答えをめぐる考察を、かなり圧縮して提示したものです。

 では、以上の前置きを、可能な限り敷衍していきたいと思います。

 ラカンの精神分析の樹立に大きな貢献をしたレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』によれば、親族関係を強化すると同時に差異化する役割を担う交換の対象は、女であり、女は、結婚という制度を通じて、父系的な氏族から別の父系的な氏族へと、贈与として与えられます。

 花嫁である女は、男によって構成される集団をつなぐ関係項として機能する、というか、させられるわけです。

 花嫁はまさに、アイデンティティ不在の場所となることによって、男のアイデンティティを反映します。

 つまり、ことごとく男である氏族の成員は、結婚という象徴的な差異化の反復行為によって、アイデンティティを有するという特権を行使するのです。

 族外婚は、父の名によって特定される男たちの集団を区別すると同時に、彼らを結束させるものでもあります。

 父系性は、女を儀礼的に追放することと、女を儀礼的に移入することの二つによって安定化するのです。

 女は妻として、名前の再生産を保証するだけでなく(機能的目的)、男の氏族間に象徴的なインターコース(交わり)を起こさせます。

 父の名を交換する場所として、女は父の名の記号にほかならず、女自体は記号ではありません。それというのも、女たちは、シニフィアンから、つまり自分たちが運んでいるそのまさに父の名から、排除されているからなのです。

 ところで、親族関係についてのレヴィ=ストロースの構造主義的な説明が依拠しているのは、人間関係を構造化していると思われる普遍性の論理です。

 そして、その普遍性の論理のなかで、決定的に重要な位置を占めるものこそ、近親姦タブーなのです。

 近親姦タブーは、当然のことながら族外婚の異性愛を生産していくのですが、近親姦タブーは、フロイトも述べているように、規制を受けていない自然なセクシュアリティを禁止することによってのみ得られる、非近親姦的な異性愛という、人工物なのです。

 けれども、男同士の互恵関係は、男と女の間の根本的に非互恵的な関係や、女同士の、いわば関係不在の関係を条件づけてしまうものでもあります。

 「象徴的な思考が出現するには、女が言葉と同じように、交換される事物となることが必要だったはずだ」というのは、レヴィ=ストロースの悪名高い主張です。しかし、この主張は、レヴィ=ストロース自身が、現在の視点から過去を見るという無色透明な観察者の立場に立って、想定されているだけの文化の普遍的構造から、その必然性を導き出してきたことを示しています。

 なぜなら、象徴界が出現する瞬間を、レヴィ=ストロースは目撃することができず、必ず起こったに違いない歴史を、ただ推量しているにすぎないからです。だから、彼の報告は、一つの強制命令として機能することになります。

 その報告によれば、近親姦を禁じる法は、まさに、族内婚を禁じる親族機構の場所なのです。

 レヴィ=ストロースは、近親姦は社会的な事実ではなく、広く蔓延している文化の幻想であると述べています。その近親姦の幻想と同様に、息子と母の間の異性愛を禁じる近親姦タブーも、文化の普遍的真理であるとみなしています。

 それでは、一体いかにして、異性愛の近親姦が、人為のまえに存在する自然な欲望のマトリクスと見えるものになるのでしょうか。どのようにして、欲望は、異性愛の男の特権となるのでしょうか。この大変重要な問いは、「ジェンダーのしるし」がいかにして所与のものとなるのかという問いと、完全に不可分の問いです。

 さて、ラカンがレヴィ=ストロースの理論を吸収する際に焦点としているのは、文化を再生産するときに働く近親姦の禁止と族外婚の規則です。

 ラカンにとって、息子と母の近親姦を禁止する<法>は、まさに親族構造を起動させるものです。親族構造、すなわち、言語を通じて行われる高度に規則化された一連のリビドー置換のことです。

 他方で、<法>は、あらゆる幼児が文化に参入する個別的な局面で、その<法>自身を再確認し、その<法>自身を個体化していくものでもあります。

 近親姦の禁止によって不満足が制定されるがゆえに、発話が出現するのは、不満足の条件においてのみということになります。

 「起源」にあるとされる享楽(ジュイサンス)は、主体を基盤づける一次抑圧によって喪失させられます。

 そして、この場所に記号(固有名)がとってかわり、記号(固有名)は、シニフィアンから遮断というか疎外されると同時に、すでに回復不可能となった享楽の回復を求め続けるよう、促されることとなります。

 禁止に基盤をもつ主体がたとえ語ったとしても、それは、欲望を、回復不可能な享楽のメトニミー的な代替物に、置き換えたにすぎません。

 したがって、言語は、満足させられることのない欲望の、いつまでも残り続ける残余なのであり、その別の形の成就なのです。

 ここで参照したいと思うのは、「悲哀とメランコリー」という論文のなかの、フロイトによるメランコリーについての考察です。

 フロイトによれば、自我は、自分が愛した人を喪失する経験をするとき、その他者を自我構造のなかに体内化(インコーポレイション)し、その他者の属性を自分の身に帯びて、模倣という魔法のような行為を通じてその他者を「留めておく」のだそうです。

 このようにして、自分が欲望し、愛する他者を喪失した経験は、その他者を自己の構造の内部に留めておこうとするこの同一化の行為によって、克服することができるわけです。「こうして愛は、自我のなかに逃げ込むことによって、消滅から免れるのである」と、フロイトは述べています。

 フロイトの研究が進むにつれて、メランコリーは、ジェンダー・アイデンティティ獲得のための決定的な契機となることが、次第に明らかになってきたということを、ここでまず指摘しておきたいと思います。

 『自我とエス』のなかで、「この同一化は、エスがその対象を断念するときの唯一の条件になるだろう」と言うことによって、フロイトは次のことを暗示しています。つまり、メランコリーの内面化の戦略は、悲哀の作用と対立するものではなく、他者との重要な結びつきを喪失したのちも、自我が生き長らえていくための唯一の方法である、ということです。

 続けてフロイトは、「自我の性格は、断念した対象備給の沈殿であり、対象選択のこれまでの歴史を含み込んでいる」と主張しています。

 他の何にもまして近親姦タブーが、自我にとっては愛の対象の喪失の始まりであり、そして、タブーとされているこの欲望対象を内面化することによって、自我がその喪失から立ち直ると理解されるならば、喪失した愛を内面化するこのプロセスは、ジェンダー形成の適切な要件となるのです。

 異性愛の結合が禁止される場合、否定されるのは、欲望の対象だけで、欲望そのものの様態ではないのです。つまり、欲望を反対のセックスの別の対象に屈折させる必要はないわけです。

 しかし、同性愛の結合が禁止される場合には、欲望と対象の両方を断念することが求められ、それによってメランコリーの内面化戦略がとられることになります。

 フロイトはのちに、性格とジェンダー形成のプロセスにおける複雑な因子として、一次的な両性愛というものを措定しています。

 「両親との関係に見られるこの二律背反は、その原因をおもに両性愛に求めるべきであり、〔・・・〕母をめぐる抗争の結果としての同一化から展開したものではない、と言ったほうが良いだろう」と述べています。

 ここでフロイトが明らかに示唆しようとしているのは、男児が選択しなくてはならないのは、父か母のいずれかの対象ではなく、二つの性的な気質、つまり男性気質と女性気質のいずれかであるということです。

 したがって、男児が多くの場合異性愛を選ぶのは、父による去勢に怯える結果ではなく、去勢不安の結果である、つまり、異性愛文化のなかで男の同性愛に対して連想される「女性化」を恐怖する結果である、ということになるのです。

 それゆえ、罰せられるのは、母に対する異性愛の欲情ではないのです。

 文化の認可を受けている異性愛に道を譲るのは、まさしく同性愛のリビドー備給なのです。

 男児が母を断念する原因が何か、ということとは無関係に、母に対するこの断念は、フロイトがジェンダーの「強化」と呼んだものを基礎づける契機となるものです。

 強化というメタファーが示しているように、心的風景や、気質や、性傾向や、性目的のなかには、男性性の様々な断片が存在しているけれども、もし、異性愛の対象選択が排除されることになれば、そのような断片はバラバラになり、混乱し、解体してしまう可能性があります。

 実際に、もしも男児が、欲望の目標と対象の両方を断念し、それによって異性愛のリビドー備給も断念することになれば、その男児は、母を内面化することによって、彼のなかにあった男性性を解体し、混乱させ、男性性の場所に、女性的なリビドー気質を強化する女性的な超自我を打ち立てることになるでしょう。

 しかし、実のところ、フロイトが一次気質と呼ぶところの男性気質や女性気質とは一体何なのか、ということについてのフロイトの説明は、それほど明確ではありません。

 例えば、どんなものが「女性」気質で、どんなものが「男性」気質であるのかを、なぜ、まず、最初に、同定ないし特定することができるのでしょうか。

 どんな痕跡によって、その痕跡ゆえに、そのことがわかるのでしょうか。

 結局、男性気質とか女性気質とか言われているものは、双方を意図的に関連づける異性愛という目標をもっているために、この枠組みで両性愛を概念化したフロイトは、両性愛を、一つの精神のなかの二つの異性愛欲望の同時発生とみなしたと、考えるよりほかはなくなってきます。

 そうすれば、男性気質は、性愛の対象として父に向かうことは決してなく、女性気質も、母に向かうことは決してないと、考えることができるからです。

 ここでもう一度、「悲哀とメランコリー」を参照してみたいと思います。

 そこで、フロイトは、メランコリーの自己批判的な姿勢を、喪失した愛の対象を内面化した結果であると解釈しています。

 その対象は、喪失されたがゆえに、たとえその対象との関係が二律背反的で未解決のものであったとしても、その対象は、自我の「内側に取り込まれ」、かつての葛藤は、精神の二つの部分が行う内的対話として、魔法のように立ち戻ってくると、フロイトは述べています。

 この初期の論文のなかでは、リビドー備給を当初の対象から引き上げて、新しい対象へ上手くふりむけた転移が、悲哀であると考えていたのですが、しかし、『自我とエス』では、フロイトは悲哀とメランコリーの区分を修正します。

 そして、メランコリーに関連した同一化のプロセスは、「エスが対象を諦める唯一の条件」であると述べます。

 したがって、メランコリーの特徴である喪失した愛との同一化は、悲哀のはたらきの前提条件ということになってくるのです。

 その結果、本来対立的であると考えられていた悲哀とメランコリーの二つのプロセスが、ここで、最終的には、悲哀のプロセスに統合される同系列の事柄として、理解されるようになります。

 喪失の内面化は、一種の代償行為になると、フロイトは述べています。

 対象を諦めることは、厳密に言うと、リビドー備給をやめることではなく、対象を内面化することであり、その結果として対象を保存することなのです。

 それでは、喪失した愛と自我が、永遠に共生する精神のトポスとは、正確には何なのでしょうか。

 自我を概念化した際に、フロイトは、自我は様々な道徳的な作用(エイジェンシー)として働く自我の理想像を、つねに伴うものであると述べています。

 そうすると、自我のなかに内面化された喪失は、道徳的な監視という作用の一部となって、再び確立されることになります。

 つまり、もともと外部の対象に向けられていた怒りや非難が、内面化されるわけです。

 この内面化においては、喪失によって必然的に高められていた怒りや非難は、内側に向けられて、保持されていくこととなります。

 自我は、内面化した対象に場所を譲って、その内面化された外部に、道徳的な作用と力を与えるのです。

 そして、自我によって保持されているにも関わらず、自我と対立するこの自我理想に、自我はその怒りやはたらきを吸収させていきます。

 別の言い方をすれば、自我は、自我自身に対立する道を構築していくことになるわけです。

 フロイトは、この自我理想が超道徳となる可能性もあると警告しており、極端な場合には、自殺を引き起こすこともあり得ると述べています。

 そういうわけで、自我の理想像は、一連の認可とタブーの内的作用(エイジェンシー)として機能し、それは、フロイトによれば、欲望の適切な再誘導をと昇華を通して、ジェンダー・アイデンティティを強化させるものなのです。

 つまり、自我の理想像は、男への同一化や女への同一化を規定し、決定するものなのです。

 ジェンダーの同一化は、自己と対象の関係を代償したものであり、また、対象喪失の結果でもあるために、ジェンダーの同一化は、禁じられた対象のセックスを、禁止として内面化する一種のメランコリーとなります。

 この禁止が、明確に区分されたジェンダー・アイデンティティや異性愛欲望という法を、認可し、規定していくのです。

 とにかく、エディプス・ジレンマを「解決」するジェンダーのメランコリックな同一化は、外から強いられるタブーによってその構造とエネルギーを得ている道徳命令の内面化であると、理解しておくことが必要です。

 ジェンダーの同一化が行われるのは、もちろん近親姦タブーを通してだけではありません。

 近親姦タブーに先立つ同性愛タブーを通じても、ジェンダーの同一化は行われます。

 フロイトは、明確には断言していないのですが、同性愛タブーが、異性愛の近親姦タブーに先立つものであるはずだと、おそらくは思っているのです。

 つまり、フロイトは、同性愛タブーこそが、異性愛「気質」を作り出し、この異性愛気質によって、エディプス抗争が可能になると、考えているのです。

 そうすると、異性愛の近親姦を目標とするエディプス・ドラマに参与する男児や女児は、明確に区分されたセックスの方向へと彼ら彼女らを「定置していく」(ディスポーズ)禁止に、すでに隷属させられているということになります。

 いずれにせよ、フロイトが男性気質や女性気質と言っていたものは、精神の一次的な性的事実などではなくて、自我の理想像によって内面化されている法、つまり二つのジェンダー・アイデンティティと異性愛を生産し、規定していく法が、生み出した結果に過ぎないということは明らかだと思います。

 近親姦タブー、および同性愛タブーは、「気質」という概念のなかに、「起源」としての欲望(フーコー的に言えば「抑圧された欲望」、ラカン的に言えば「享楽」)を措定する抑圧的な命令であり、その結果、欲望は、「起源」としての同性愛リビドーを抑圧せざるを得なくなり、同時に、それに置き換わった異性愛欲望という現象を生み出すものとなるのです。

 幼児発達における、相当入り組んだこの特殊なメタ物語のなかに、先に提起した問いに対する答えを、暫定的であるとしても微かに、仄かに、明滅的に、聴き取ることができるように思うのですが、いかがでしょうか。

 この物語を、もう少し変奏してみたいと思います。

 ジェンダー・アイデンティティが確立されるのは、喪失の否定を通じてであり、喪失の否定は、それを身体のなかに秘匿するものであるために、生きている部分と死んでいる部分という分割を行うものとなります。

 反隠喩的(反メタファー的)な活動である体内化は、喪失を身体のうえに、あるいは身体のなかに、字義通りに表現し、それによって身体の事実性として、つまり身体が字義通りの真実として「セックス」をもつときの手段として立ち現れてきます。

 つまり、所与の「性感」帯に快楽や欲望を位置づけ、そして/あるいは、禁じることは、まさしくジェンダーの差異を生み出すメランコリーの所業なのであり、これは、身体の表面をすべて覆うものなのです。

 快楽を得られるはずの対象を喪失したことは、まさにその快楽の体内化によって解決され、その結果、その快楽は、ジェンダーの差異を生み出す法の強制的な効果によって、決定づけられると同時に、禁止されることになります。

 しかし、体内化というのは、結局のところ、幻想なのです。体内化が幻想であるということは、ジェンダーの同一化が行われる際の体内化は、<字義通り>と錯覚させる幻想、あるいは字義通り化する幻想であるということです。

 まさにメランコリーの構造のせいで、身体の字義通り化のプロセスは、その系譜を隠蔽してしまい、「自然な事実」というカテゴリーのなかに自らを位置づけるのです。

 それでは、字義通り化する幻想を保持しているということは、どういうことなのでしょうか。

 もしもジェンダーの差異化が、近親姦タブーと同性愛に関する一次タブーの結果であるならば、ジェンダーに「なる」ことは、自然なものになるための、非常に骨の折れる、厄介なプロセスということになります。

 なぜかというと、そうするためには、身体の快楽と身体の各部位を、ジェンダー化された意味に基づいて、差異化していく必要があるからです。

 快楽は、ペニスやクリトリスや胸に宿っていて、そこから発散すると思われていますが、そのような記述は、そのジェンダー特有のものとしてすでに構築され、自然化されている身体に呼応させたものにすぎないのです。

 つまり、身体のそういう部分は、ジェンダー特有の身体の標準的理想と呼応しているがゆえに、快楽の震源と考えられるわけです。

 例えば、トランスセクシュアル(性転換者)は、自分の性的快楽と身体の部分に、根本的な不整合や不一致があると主張する場合が多いのです。

 もちろん、欲望が仮想地点(ヴァーチャルな地点)で発生するということは、トランスセクシュアルのアイデンティティのみに限られるものではありません。

 欲望の幻影的な性質は、身体が欲望の基盤や原因ではなく、欲望の契機であり対象であることを、明らかにするものです。

 したがって、欲望の戦略は、ある意味で、身体を、欲望する(欲望できる)身体に変えていくことなのです。

 事実、ともかくも欲望するためには、想像上のジェンダー規則に照らして、欲望を持ちうる身体要件を満たすように変えられた、身体自我を信じることが必要となります。

 このように、欲望が想像上のものであるということは、欲望が働く手段であり場所である物質的な身体を、つねにすでに越えているものなのです。

 身体は、つねにすでに文化の記号であるので、身体が引き起こす想像上の意味の境界を定めるものであるわけですが、しかし、身体自身が想像上の構成物であることからは、身体は決して自由にはなれないのです。

 幻想でしかない身体を、現実との関連で理解することは、決してできないのです。

 身体は、文化によって制定されたもう一つの幻想、すなわち、「字義通り」で「現実的な」ものが住まう場所であると主張する幻想との関連でのみ、理解可能なものとなるのです。

 いわゆる「現実」との境界が作られていくのは、物質的な事実を原因と見なし、欲望をその物質性の動かしえない結果とみなす、身体を自然化し異性愛化する枠組みのなかなのです。

 もう一度言っておけば、欲望と現実の混同、すなわち、快楽と欲望の原因は、身体のある部分、つまり「字義通りの」ペニスであり「字義通りの」クリトリスであるという信仰は、メランコリックな異性愛症状を特徴づける<字義通り化」という幻想なのです。

 それゆえ、字義通りに見なすという普遍的な戦略は、徹底して忘却の形態を取っていることがわかります。

 字義通り化された性の解剖学的事柄において、その戦略は、すべてが想像物に過ぎないことを「忘却」させ、それとともに、想像することができるはずの同性愛も「忘却」させるのです。

 性的差異「以前」という残余への扉は、すでに開きかけているのではないでしょうか。

 なぜなら、現在のポストフォーディズムの資本主義社会における前代未聞の歴史的状況においては、このような字義通り化する幻想を保持していくことが確実に困難になってきており、身体を、欲望する身体に変えていくという欲望の戦略が、その有効性を決定的に喪失しつつあると思われるからです。

 このことについての考えをさらに推し進める前に、母への異性愛欲望に対する禁止という一次抑圧をもたらす近親姦タブーを、批判する言説をちょっと参照してみたいと思います。

 例えば、近親姦タブーを、禁止と認可の両方であるとして述べる、ゲイル・ルービンの次のような言説です(ハンドアウト15を参照)。

15.

近親姦タブーは族外婚と同盟という社会目的を、セックスと出産という生物学的事象に押し付けるものである。近親姦タブーは、性対象の選択領域を、容認される性パートナーと禁止される性パートナーという、この二つのカテゴリーに分割する。

 あらゆる文化は、それ自身を再生産しようとするので、また個々の親族集団の社会的アイデンティティは保持されなくてはならないので、族外婚が制定され、またその前提として族外婚の異性愛が制定されるわけです。

 それゆえ、近親姦タブーは、同族の成員間の性的結合を禁止しているだけではなく、同性愛タブーをも包摂するものでもあることを、さらにルービンは次のように述べています(ハンドアウト16を参照)。

16.

近親姦タブーが前提とするのは、それに先立ち、それよりも分節化されていない同性愛タブーである。いくつかの異性愛の結合の禁止は、非異性愛の結合に対するタブーという形をとる。ジェンダーは、ひとつのセックスに自己同一化しているというだけでなく、性的欲望がべつのセックスに向けられることも、当然ながら意味している。性の分業は、ジェンダーの両面に関与し――男と女を作り出し――異性愛者を作り出す。

 フーコーが『性の歴史』の第一巻で批判したのは、抑圧的な法に関して、存在論的な全一性と時間的なまえを温存する、「起源としての欲望」を想定する抑圧仮説でした。

 フーコーの批判通り、「法のまえ」のセクシュアリティを、一次的な両性愛や、抑圧されていない理想的な多形性欲と位置づけて、そのように語ることは、逆説的に、法がセクシュアリティに先行していることを暗示するものです。

 「起源」の完全さを制限する法は、懲罰以前に存在していた性の可能性を禁じ、それ以外のものを認可していきます。

 しかし、抑圧の法がパラダイムとして機能するという、抑圧仮説に対するフーコーの批判を近親姦タブーに応用するならば、その法は、認可される異性愛と、境界侵犯的な同性愛の両方を、生み出すものと考えられます。

 事実、異性愛も同性愛も、時間的にも、存在論的にも、法よりあとに起こる結果であり、法のまえのセクシュアリティという幻想それ自体が、その法によって作り出されたものであることがわかるのです。

 そういうわけで、ジェンダー獲得の物語は、法のまえとあとの両方にあるものを「知る」位置に、語り手を置く時間秩序を必要とします(ルービンの論文にも、この時間秩序に依存することの不可避性が示されています)。

 もちろん、このジェンダー獲得の物語は、他のあらゆる物語や現前的歴史と同様に、法のあと、法の結果なのであり、それよりあとの地点から遡及的に眺められる言語の内部で語られています。

 したがって、物語は、定義上(その言語性のために)、あらかじめ締め出されているはずの「まえ」にアクセスできると主張するだけでなく、「まえ」についての記述が「あと」の次元で語られるために、法そのものをその不在の位置につけて、法を見えなくさせているのです。

 さらにフーコーの批判を援用して考えれば、永遠に抑圧され禁じられる「始原的な」(オリジナルな)セクシュアリティという概念は、続いてそれを禁じるという機能を持つ法によって、生産されるものであるということがわかります。

 したがって、始原的な欲望の対象としての母との結合を禁じる法は、それを招く法と同じものなのであり、法制的な近親姦タブーのなかの抑圧機能と生産機能を分離することは、もはやまったく不可能なのです。

 もしも、近親姦タブーが、明確に区分されたジェンダー・アイデンティティの生産を規定していくのであれば、そして、その生産が異性愛の禁止と認可を要求するものであるなら、同性愛は、抑圧されるためには生産されなければならない欲望として現れることになります。

 つまり、異性愛がはっきりとした社会形態として無傷でいるためには、同性愛という認知可能な概念が必要となり、また同時に、それを文化のレベルでは認知不可能とすることによって、その概念を禁じる必要があるのです。

 では、両性愛はどうでしょうか。

 <象徴界>の「外部」と言われ、攪乱地点として働く両性愛は、実際には、やはり言説によって「外部」として構築されているものにすぎません。

 それは、完全に「内部」であるにも関わらず、「外部」として構築されるもの、すなわち、文化の彼方にある可能性ではなく、不可能として否定され記述しなおされている具体的な文化の可能性なのです。

 現在の文化の形態のなかで、「思考不能」で「語りえない」ものは、必ずしも、その文化の理解可能性のマトリクスから、排除されているのではありません。

 排除されているのではなく、それは、ホモ・サケルのように周縁化されているのであり、恐怖や、それに類する認可の欠如を呼び起こすような文化の可能性なのです。

 社会に通用する異性愛者という社会的認知を得ていないということは、可能な社会的アイデンティティは持っていないけれど、社会的に認可されていないアイデンティティは持っているということです。

 したがって、「思考不能」なものは、文化のなかに完全に含みこまれているけれども、支配的な文化からは、完全に排除されているものなのです。

 <象徴界>のなかの「理解可能」な存在は、欲望の制度化とその不満足の両方を、求めるよう絶えず促されています。

 決して得られないものとして欲望のなかに出没するこの完全な快楽は、法のまえの、回復不可能な快楽の記憶です(ラカンだとそうなります)。

 法のまえの十全な快楽など幻にすぎないこと、それが、欲望の無限の幻のなかに反復されることについては、ラカンは非常に明快です。

 けれども、その幻が、「始原性」(オリジナリティ)という幻想の構築物の、文字通りの回復となることを禁じられているのは、どのような意味においてなのでしょうか。

 この「起源」、推論的な「起源」は、つねに回顧的な地点からのみ思考されるものであり、その地点から眺められて、理想的という性質を身にまとうのです。

 快楽に溢れた「かなた」を認めることは、本質的に変化しえない<象徴界>の秩序を引き合いに出して、初めて可能となります。

 したがって、<象徴界>や欲望や性的差異というドラマは、文化的な理解可能性の内部で、<思考できるもの>と<思考できないもの>をしるしづけて分類するときに、権力を行使している自己支持的な意味機構であると、解釈することが必要です。

 文化の「まえ」にあるものと、文化の「なか」にあるものを区別することは、文化の様々な可能性を、あらかじめ締め出しておく方法なのです。

 「現象の順序」とか、記述の基盤にある時間性は、語る主体のなかに分裂を導き入れ、そして欲望のなかに不満足を導き入れることで、語りの首尾一貫性に疑義をつきつけています。しかし、そうすることで、逆に、時間的な説明のレベルでの首尾一貫性を、再制定してしまうことになるのです。

 そんなふうにして、「回復不可能な起源」と「永遠に置換される現在」との区分にいつまでも拘泥し続けることによって、この語りの戦略は、攪乱の名でその「起源」を回復しようとするあらゆる試みを、つねに遅延させてしまうのです。

 しかし、私たちはもう、「回復不可能な起源」と「永遠に置換される現在」との区別に、どんなに拘泥したくても拘泥することができなくなりました。

 なぜなら、ヴィルノが指摘するように、ポストフォーディズムの資本主義社会においては、メタ歴史(つまり起源)と歴史的時間(つまり永遠に置換される現在)という両極が完全に混合され、統一され、一致してしまったからなのです。

 粉々に砕けた「聖なる時間」としての「起源」は、無数のバラバラの破片となって、歴史的時間のあらゆる傷跡や裂け目に突き刺さっています。

 言い換えれば、語りの戦略がかつて引き起こそうとしていた攪乱が、「起源」に回帰するための攪乱が、わざわざ引き起こそうとしなくても、もはやいたるところで日常的に引き起こされているのです。 

 語りの戦略を可能にしていたものは、去勢、象徴的去勢ですから、象徴的去勢が無効になってしまった現在において、語りの戦略を組織しようとする欲望から、私たちはもうすっかり見放されてしまった、というか、解き放たれてしまったと言っていいと思います。

 いや、デリダが『弔鐘』のなかで暗示しているように、去勢は、そもそも一度も存在したことがなかったのかもしれません(ハンドアウト17、18を参照)。

17.

否認不可能なものは去勢不可能なものである。

このことが意味するのは、去勢が存在しないということではなく、この存在する(il y a)ということが場をもたない、ということである。フェティッシュに認められる相反する二つの機能を分断することができず、また事物そのものとその代補物とを分断できない、という事態が存在するのだ。また両性を分断することも同様にできない。(下線――井上)

18.

私が二つのテクストを書けば、あなた方は私を去勢する〔=私の一部を切除する〕ことはできなくなる。私が脱・単線化すれ=輪郭を描けば(delinearize)、私は勃起=創設(erect)することになる。しかし、それは同時に、私の行為〔=現実態〕と欲望を分割することでもある。私が分割を刻印すると同時に、分割が私を刻印する。そして常にあなた方から逃れながら、私は止むことなく偽装し、いかなる場所においても享受することがない。私は自分自身を去勢し〔=自分自身を一部切除し〕――そのようにして私は私に留まる――そして私は「享受の真似事をする」。

(下線――井上)

 さらに、デリダは、存在論の水準では、性的差異は居場所を持たない、あるいは生じないということを、はっきりと述べています(ハンドアウト19を参照)。

19.

したがって、性的差異自体の真理自体などは存在せず、すなわち男性自体や女性自体の真理自体などは存在せず、逆に、存在論全体は決定不可能性を前提とし、それを内に隠し持っているのである。つまり、存在論は決定不可能性を理性化し、我有化し、同定し、またそれの同一性を確証することの効果〔=結果〕なのだ。

 ところで、ハイデガーにとっては、性的刻印とは、現存在の分析論の「後に」現れ、人間学のなかにその研究の基礎を持たなければならない諸規定のことです。現存在は、二つのセックスの間に存在するかのごとく中性であり、また中性でなくてはならないのです。

 両性の性的刻印に対して現存在が脱性的であることは、セクシュアリティの欠如を意味するのではなく、セックスやジェンダーによる規定の欠如を意味するに過ぎないと、デリダは的確に指摘しています。

 つまり、現存在は、本性的に両性の対立によって傷つけられてはいないけれど、翻って言えば、ジェンダー化された主体の現実を通す以外の仕方では、分析論が存在しえないということになります。

 ハイデガーに限らず、諸々の根本的な哲学的問いは、性的差異を思考することから、決して切り離されるべきではないということを、デリダは明白に主張しています。

 また、そのように主張することで、現存在の分析論の内部における問題の中性性が何に帰着するのかを、デリダは私たちに思い出させようとしているのです(ハンドアウト20を参照)。

20.

それは、現存在が、事実的にあるいは存在的に、一つのセックスに属していないということではなく、また、現存在がセクシュアリティを欠いているということでもなくて、現存在として、という限りでは、両性のどちらかであるという対立あるいは二者択一の諸刻印をもっていないということなのだ。これらの刻印は、少なくともそれらが対立的かつ二項的である限り、実存論的構造ではない。その点で、原初的であれ付加的であれ、なんらかの両性性への言及は一切ない。・・・それ〔=現存在の分析論〕は、性的差異とその二項対立づけ以前へ(セクシュアリティそのもの以前へではないにせよ)立ち返るくだんの中性化の賭け金を推し量ることである。ここでは名指すことで満足せざるを得ない巨大な問題のタイトルは、したがって、存在論的差異と性的差異、となるだろう。(下線、井上)

 性的差異「以前」の贈与を、あるいは性的差異「以前」という残余を、デリダは、例えば『絵葉書』のなかの次のような記述によって、私たちに開示して見せてくれているのです(ハンドアウト21、22、23、24、25、26を参照)。

21.

私はこう言いたかっただけだ、すべての女性は(とはいえ、私はひとりしか知らない)、「はい(ウイ)」と言って美しいとき、君なのだ、と――そして君は男だ。

22.

この暗号化された手紙は何を意味しうるだろうか、私のとても優しい、贈り与えられた運命の女性、途方もなく、すぐ近くにいる、未知なる女性よ? たぶん、このことだ、つまり、たとえそれがよりいっそう神秘に満ちたものだとしても、私が同性愛を発見できたのは君のおかげだ、そして私たちの同性愛は壊れない。私はすべてを君に負っている、また私は君にまったく何も負っていない。私たちは同じ(セックス)である、このことは、二足す二が四、あるいは、SがPであることと同じくらい真理である。

23.

しかし、絶対的対立のなかで私たちの両性的性格がいかにはっきりと表面化し、荒れ狂っているとはいえ、私たちの一人が両性具有者だと言っているのではなく、私たちがヘルマフロディトス本人、本来の意味でのヘルマフロディトスだと言っているのだ。

24.

私は一定の国語をもたないし、ジェンダーをもたない((セックス)も、ということだ)、・・・君は私を助けてくれる、私たちは死ぬのをお互いに助けあう、そうだろう? きみはそこにいるだろう

   

25.

doom〔運命、破滅、世の終わり〕、つねに子どもをより愛すること。自己の内の子ども。

26.

「すべての天使はおそろしい」〔リルケ『ドゥイノの非歌』〕第一の非歌〕、・・・

 ハンドアウト25の、doom「運命、破滅、世の終わり」と結び付けられている、より愛するべき自己の内の子どもとは、何なのでしょうか。

 この子どもは、アガンベンによって「歴史に初めてその空間を開くもの」と定義されているインファンティアを、直ちに想起させます。

 「その空間」、すなわち収容所空間としての例外状態が、世界全体に拡大してしまいました。世界におけるあらゆる事象から、幻想の必然性の感覚をことごとく洗い流してしまう空間、それが世界そのものである収容所空間です。

 「運命、破滅、世の終わり」と結び付けられている、より愛するべき自己の内の子どもこそ、おそらく性的差異「以前」という残余なのです。

 この子どもには、文化の残骸という透明な皮膜に覆われていて、「人間」という名の非‐人間には決して見えない収容所空間が、永遠回帰するアウシュヴィッツが見えるのです。収容所空間で毎日死んでいく、この子ども自身である夥しい死者たちの一人一人が見えるのです。

 文化の残骸という何度でも蘇生する透明な皮膜を、何度でも引き裂いて、剥き出しの世界に目を凝らし、身を晒し続ける「おそろしい天使」であるこの子どもは、つねにすでに死んでいて、自分の内にいるそんな子どもをつねに愛し続けるすでに人間ではない者を、非‐人間たちは無気味なものと呼ぶことでしょう。

 この子どもは、非‐人間であるあらゆる人間たちの目に、お互いの姿が無気味なものとしか映らなくなる日が到来することを願っています。

 自己の内にいるこの「おそろしい天使」をつねに愛し続ける人間ではない者は、資本主義社会に生きる非‐人間たちの一切の営みが、つねにすでにお互いに対する最終解決であることを知っているのです。

 というわけで、ハンドアウト冒頭の黒い四角の後に書かれてある二つの恐ろしいエクリチュールも、性的差異「以前」の贈与を私たちに与えてくれる、デリダの『絵葉書』からの引用です。

 以上です。