平成29年8月20日
東京都千代田区霞が関1丁目1番1号
最高検察庁 検事総長 西川克行様
××××××××××××××××××
大学講師(現代思想・表象文化論研究)
告訴権被剥奪者
井上 ×××
救済要求確認書(3)
西川検事総長にまずお伝えしたいことは、本件大事件に関与した主要人物たち、社会的に極めて重要な役職に就いている主要人物たちの取った行動は、文脈や形態の相違こそあれ構造的には豊田議員の取った行動と全く同質であるということです。〇〇大学の反国家的組織犯罪の首謀者たち(〇〇〇〇、〇〇〇〇、〇〇〇〇)、彼らの欲望の忠実な代理人として違法行為の限りを尽くした弁護士たち(〇〇〇〇と〇〇〇)、彼らの反国家的組織犯罪の完全隠滅を謀るために井上×××がこの世から消滅するよう惜しみない協力を提供した裁判官たち(市村弘、太田武聖、須藤隆太、田村幸一)、彼らの反国家的組織犯罪の完全隠滅を謀るために自分たちも法治国家の外に逸脱して井上×××を散々欺罔したばかりか、遂には井上×××とM氏に事実上の死刑宣告を叩き付けるという完全に倒錯した違法行為にまで及んだ検察官検事たち(森川久範、二瓶祐司、鈴木久美子、瓜生めぐみ、そして彼ら彼女らに違法な指令を出し続けた前最高検の幹部クラスの検察官検事)。本年7月11日に共謀罪が施行されましたが、複数の組織に所属する上記人物たちが犯罪の完遂を目指し、数年に亘って明白に共謀しながら数々の違法行為に手を染めてきた過程で共謀罪がすでに施行されていたとしたら、間違いなくその段階で適用されていたことでしょう。
豊田議員の取った行動は勿論共謀罪とは全く無関係です。しかしながら、上記人物たちが連続的な共謀の文脈のなかに身を置いた状態で、それぞれ異なる場所で個別に取った行動は、前述した通り豊田議員の行動と構造的には完全に同質です。なぜなら、豊田議員は全く個人的に、上記人物たちは共謀の文脈のなかで、彼ら彼女らに社会的同一性(国会議員、憲法学者、行政法学者、民事訴訟法学者、弁護士、裁判官、検察官検事)を与えている象徴的秩序の枠組の外に、驚くべき不用意さで自分自身を追放してしまったからです。西川検事総長の内部には絶対に宿っていて欲しいと、私たちが絶望のどん底で悲痛なまでに願った検察官検事であることの責任の測り知れない重さへの絶対的自覚について、先に言及しました。それは、検察官検事という社会的役割(=社会的同一性)と自己の先験的属性は絶対に一致しないという厳しい自覚でもあると指摘しました。なぜ一致してはならないかというと、自己の社会的同一性と先験的属性(つねにすでに潜在的に破滅を含んだ瑕疵ある者=人間であるということ)との間に絶えず自己対話的な距離が、弁証法的な(=反省的な)距離が保たれていることだけが、例えば検察官検事という社会的同一性にリアリティを与えるからです。この距離を撤廃してしまったら最後、検察官検事である者は検察官検事という社会的同一性が自分の生得の属性であると盲目的に信じ込み、そうすることで彼/彼女に検察官検事という社会的同一性を与えている象徴的秩序の枠組の外に、取り返しのつかない形で自己を追放してしまうことになります。現代世界でもっとも影響力を持っているスロヴェニアの現存の哲学者、スラヴォイ・ジジェクは、この構造的原理を次のような言葉で極めて明快に表現しています。「ラカン(フロイト以後のもっとも重要な精神分析学者)の言う馬鹿とは、自分を即自分であることを疑わない者、自分自身に対して弁証法的に媒介された距離を置くことができない者のことである。自分は王だと思い込み、自分が王であることを自分本来の特性であると考え、自分自身もその一部である相互主体的な関係の網によって彼に課せられた象徴的命令なのだとは考えない王のような者のことである」(『イデオロギーの崇高な対象』、邦訳74頁、下線は井上)。この一節には、「自分は生まれつきの王なのだと思い込んでいた馬鹿な王の好例が、ヴァーグナーのパトロンであったバイエルンのルードヴィヒ二世だ」という丸括弧で括られた一文が続いています。この一文を私が敢えて引用した理由は、ヴィスコンティ監督の映画『ルードヴィヒ――神々の黄昏』でも赤裸々に描かれていたように、ルードヴィヒ二世は文字通りの狂王、即ちリアリティを喪失して象徴的秩序の外に転落していった狂気の人物であったということを強調したかったからです。
大変残念なことに、豊田議員も、私たちをこの世から消滅させようとした上記人物たちも、真性の精神疾患ではないとしてもルードヴィヒ二世と本質的に変わるところはありません。彼ら彼女らの社会的同一性がその居場所を確保することができるのは、象徴的秩序という虚構の枠組の中だけであり、社会的同一性と自己の先験的属性を一致させてしまったら最後、彼ら彼女らは自らの社会的同一性に二度とリアリティを感じることはできなくなります。「世界は巨大な劇場。誰もが自分の役を必死で演じている」というシェイクスピアの言葉通り、検察官検事も裁判官も弁護士も法学者も文科省の役人も、演じている(=自己の先験的な属性との距離を失わない)限りにおいて自己の社会的同一性にリアリティを感じることができます。国会議員が国会議員と、検察官検事が検察官検事と、裁判官が裁判官と、弁護士が弁護士と、法学者が法学者と、文科省の役人が文科省の役人と一致してしまったら最後、彼ら彼女らはその社会的同一性が宿ることができる象徴的秩序の内部の居場所を必ず喪失することになります。検察官検事は同時に検察官検事では「ない」限りにおいて、先験的に瑕疵ある者=剥き出しの生であるという自己の本性を決して忘却せずそれとの距離を保っている限りにおいて、初めて「本当の=リアルな」検察官検事であることができます。「相互主体的な関係の網」である社会という象徴的秩序は飽くまでも人工的に作られた虚構の建造物であり、それにリアリティを与えているのは虚構からの絶えざる逸脱可能性、剥き出しの生という赤裸々な「真実」への絶えざる転落可能性、したがって誰の内部にも先験的に存在しているその赤裸々な「真実」との弁証法的な距離なのです。自分を生まれつきの王、生まれつきの政治家、生まれつきの検察官検事、生まれつきの裁判官、生まれつきの弁護士、生まれつきの法学者であると信じ込むことは、社会という虚構の象徴的秩序を(ルードヴィヒ二世のようにまさしく自分のために)先験的に存在している唯一の現実世界であると信じ込むことと完全に同義であり、そのように信じ込んだ者に対しては虚構の象徴的秩序は恐ろしい脱現実感をもって応えてきます。即ち、そのように信じ込んだ者は、虚構の象徴的秩序の中に二度とリアリティを自然に感じながら住むことはできなくなるのであり、恒常的な世界没落とでも形容するしかない測り知れない恐怖と不安に絶えず苛まれながら、自己の不在という自己として限りなく不安定で覚束ない生を送ることを余儀なくされます。より端的に言えば、社会的同一性と自己の先験的属性を一致させてしまったとき、つまり「真実の」自己、剥き出しの生としての自己を現勢化させてしまったとき、虚構の象徴的秩序の中にしか居場所を持てない「本当の=リアルな」自己は消失してしまうのです。
豊田議員は事件を引き起こしたあと、上記人物たちは本件大事件を引き起こしたあと、程度の差こそあれ例外なくこのような脱現実感、世界の喪失感、自己の欠落感に果てしなく苛まれながら、二度と戻ってはこない大地の上を辛うじて歩き続けています。〇〇〇〇は豊田議員よろしく罵詈雑言の限りを尽くして私に対する退職強要を実行した日から、〇〇〇〇は名前を名乗らずに私に対する退職強要を実行した日から、〇〇〇〇は〇〇〇〇たちの違法行為を知悉していながら犯人隠避を実行し始めた日から、2人の弁護士たちは〇〇〇〇たちが捏造した虚偽の物語を実在の私に当て嵌めようとして最初の違法行為に手を染めた日から、裁判官たちと検察官検事たちは違法な働きかけを受けて私をこの世から消滅させる犯罪計画にそれぞれ最初に加担した日から、彼ら彼女らの「リアルな」自己が住める虚構の象徴秩序の外にしか通じていない道を、大地なき道とも知らずに歩き始めたのです。虚構の象徴的秩序の外に転落してしまうというイメージがもっとも鮮烈に喚起されるのは、須藤隆太が「殺人未遂判決書」の原案を作成していたときです。それを作成し始めたとき、須藤隆太は自らに裁判官という社会的同一性を与える虚構の象徴秩序の外に、まさに転落してしまったのです。それ以降、須藤隆太が裁判官という社会的立場に自然に同一化して、裁判官としての職責をどんな違和感もなく果たせているなどということは絶対に起こり得ません。他の裁判官においても事情は全く同様であり、形式的には裁判官として裁判所に身を置いているとしても、彼ら彼女らが身を置いているのは裁判所と一致してしまった裁判所、裁判所としてのリアリティを喪失した剥き出しの裁判所、もはや裁判所ではない裁判所の廃墟です。〇〇〇〇たちにおいても事情は全く同様です。形式的には法律を教える教員として大学に身を置いているとしても、彼らが身を置いているのは大学と一致してしまった大学、大学としてのリアリティを完全に喪失した骸骨のような剥き出しの大学、もはや大学ではない大学の廃墟です。そこで幾つもの違法行為を犯した法学者として、学生たちの視線を浴びながら法律を教える彼らの言葉に法への絶対的尊敬が宿れるはずもなく、恐怖と不安で絶えず引き裂かれながら不明瞭で支離滅裂な言語を、「犯罪者」である自己から逃げるようにして猛烈な早口でまくしたてることしか彼らにはできません。検察官検事たちにおいても事情は全く同様です。形式的には検察官検事として検察庁に身を置いているとしても、彼ら彼女らが身を置いているのは検察庁と一致してしまった検察庁、検察庁としてのリアリティを喪失した剥き出しの検察庁、もはや検察庁ではない検察庁の廃墟です。法の遵守を奨励し、法の侵犯者たちを厳正に処分することを自らの主たる職務内容とする検察官検事たちが、〇〇大学の人間たちが実行した複数の違法行為を歴史から完全隠滅するためにありとあらゆる協力を惜しまず、その極点で井上×××とM氏に宛てて告訴権・告発権を剥奪する旨を告知する書面を送付したとき、彼らは自分たちに検察官検事としての社会的同一性を与える虚構の象徴的秩序の外に向けていわば投身自殺を図ったのです。検察官検事としての自殺行為を決行して以降、〇〇大学以外の法の侵犯者たちの処分決定をするに至るまでの一連の刑事手続きを行なう度に、世界が崩壊するような恐ろしいリアリティの欠如に絶えまなく喉元を締め付けられながら、彼ら彼女らは検察官検事としてではなく、自分たちが処分決定をする法の侵犯者たち同様の法の侵犯者として、「犯罪者」として、中身が完全に空洞化した(冗談としての、納税者である全国民への裏切りとしての)「職務」を無限に反復することしかできません。
裁判所が裁判所と、大学が大学と、そして検察庁が検察庁と一致してしまったとき、言い換えればそれぞれの組織に意味と奥行きと深層(の幻想)を与えていた「剰余価値」が完全に削ぎ落されてしまったとき、国民が転移する(無条件の信頼を寄せる)ことのできるリアルな裁判所、リアルな大学、リアルな検察庁は必然的に消滅します。ジョルジョ・アガンベンの言い方を借りれば、法が法と一致してしまったとき、法は完成するのであり、したがってもうこれ以上存在し続ける必要はなくなるのであり、リアルな(真に実効力を持った、法の侵犯から自らを区別できる)法は消滅します。法の完成とは法の消尽以外の何ものでもなく、法が自らを法の侵犯と区別できる状態に留まり続けるためには、法は絶対に完成してはならないのです。法の内部に「剰余」を、どんな言葉によっても翻訳できない「剰余価値」を、無限に宿らせ続けなくてはならないのです。〇〇大学の人間たちと国家の各法的機関の共謀によって引き起こされた本件大事件は、日本国家そのものを滅ぼしかねないほどの測り知れない危険性を孕んでいるのですが、それは本件大事件が法と法の侵犯を完全に一致させてしまったからに他なりません。法が法の侵犯と、即ち法が統制すべき剥き出しの生(=暴力)と全く区別がつかなくなったとき、法は法自身と一致して完成=消尽してしまうのですが、真に恐ろしいのは「剰余価値」を喪失した無意味な法がそれでも生き残り続ける(=効力を持ち続ける)ということです。「剰余価値」が可能にしていた意味の豊かさを喪失し、内容がゼロ地点にまで還元された法、即ち自らを法の侵犯と区別することができなくなった法は、潜在的にはあらゆる人々の生(=剥き出しの生)と一致しながら、日本社会全体に浸透していきます。そして法治国家日本を、私たちが検察官検事たちによって暴力的に遺棄された不分明地帯に、即ち法と法の侵犯の区別が全くつかない「例外状態」にいつのまにか変容させていくのです。「規則と化した例外状態は法の消尽をしるしづけ、法が法の統制すべき生と見分けがつかなくなるということをしるしづける」とアガンベンは書いています(『ホモ・サケル――主権権力と剥き出しの生』、邦訳82頁)。自らを最終審級=神の位置にいかなる反省の余地なく平然と置いて、裁判官よろしく、検察官検事よろしく、ときには暴力行使さえ厭わず他者を反射的に、盲目的に断罪する人間がどうしてこれほど増殖してしまったのでしょうか。教育機関において、医療機関において、民間企業において、他者の人権を平然と蹂躙する深刻なパワーハラスメントや他者の生を破壊する極端な過重労働が、なぜこれほどまでに猛威を振るっているのでしょうか。意味なく効力だけを有する法があらゆる人間たちの剥き出しの生と一致しつつあるから、即ち日本国家がすでに「規則と化した例外状態」に変容を遂げつつあるからではないでしょうか。ナチスの優生思想を明らかに継承していると思われる相模原殺傷事件は、日本社会がすでに「規則と化した例外状態」に変容を遂げつつあることをまさに可視化した事件ではないでしょうか(ナチスの「安楽死計画」や絶滅収容所が、それ自体「例外状態」と化した空間であったことは言うまでもありません)。
したがって、検察庁は検察庁と決して一致してはならないのです。「法の起源」である法措定暴力という原初の侵犯行為の痕跡を、誰にも理解できず永遠に翻訳することが不可能な「剰余価値」として、検察庁が検察庁と一致することを禁止する「瑕疵」として、検察庁は自らの内部に復活させなくてはならないのです。検察庁は(勿論民事裁判所も)、自らに絶対的な権威と強固なリアリティを付与する虚構の象徴的秩序の外に、決して足を踏み外してはならないのです。前段で詳細に展開してきた通り、虚構の象徴的秩序の外の「真実」に自らを追放してしまったら最後、検察庁は意味と権威を喪失した検察庁の廃墟となり、リアルな検察庁は消滅してしまうからです。豊田議員がそうであるように、本件大事件を引き起こした主要人物たちがそうであるように、「真実」の領域に一度足を踏み外してしまうと限りなく無力になり、何も分からなくなり、自分が誰であるかさえも分からなくなり、人間が生きられる唯一の領域である虚構の象徴的秩序の内部には二度と戻れなくなるからです。なぜなら「真実」の領域とは無であり、「自分もその一部である相互主体的な関係の網」の外にある領域に他ならないからです。検察庁の「真実」、検察庁の「裸形」などというものは存在しません。検察庁という象徴的衣裳を身に纏ってこそ、検察庁は初めて存在することができます。「自分もその一部である相互主体的な関係の網によって課せられた象徴的命令」としてのみ、虚構の象徴的秩序の内部に居場所を持つ限りにおいて、リアルな検察庁は存在することができます。検察庁でありながら、同時に誰にも理解できない「瑕疵」=「剰余価値」を内部に宿した検察庁では「ない」場所という二重存在である限りにおいて、リアルな検察庁は存在することができます。
しかしながら、本件大事件の加害者たちと一部の検察官検事たちが共謀することによって、自らに絶対的権威を与える「剰余価値」を検察庁は蒸発させてしまい、検察庁と一致した無力な検察庁になってしまったことは間違いないのではないでしょうか。そうなることで、日本国家全土にすでに拡大しつつある「規則と化した例外状態」と地続きになりこそすれ、そこに法的秩序を回復するための強大な力をもはや行使することができなくなってしまったのではないでしょうか。法と生の区別がつかない状態がこのまま存続していくと、日本国家全体が虚構の象徴的秩序から足を踏み外してしまい、遂には日本国家が日本国家と一致して日本国家は完成し、その結果として日本国家は消滅するという想像を絶する最悪の壊滅的事態を招来しかねないのです(私見では、すでにその兆候は至るところに現れています)。万一、本件大事件の全容解明と全面解決が果たされなかった場合には、(虚構の象徴的秩序の存立条件である)永遠の完成可能性から日本国家はますます激しく逸脱して完成してしまい、何にもどこにもリアリティが感じられない剥き出しの廃墟としての日本国家、日本国家の消滅と全く区別がつかない日本国家と化してしまうと考えます。しかし、日本国政府も検察庁も法務省も、現在の日本国家が直面している未曾有の危機的状況を極めて深刻に受け止めているとしか考えられない法案が予想をはるかに超えた速度で成立し、本年7月11日に施行されました。法務省のホームページからダウンロードした「犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律(案)」を精読しました。検察庁の内部に失われてしまった「剰余価値」を、絶えず二重化された検察庁による自己言及を、それだけが可能にする検察庁の絶対的権威を、法への絶対的尊敬を復活させる奇跡の力を持っているのは共謀罪だけです。法(=正義)と剥き出しの生(=暴力)を一致させ、自己を最終審級の位置に置いている例外状態のなかにいる人々に、彼ら彼女らを二重存在にして「剰余価値」を宿らせ、それによって弁証法的自己反省を促せる奇跡の力を持っているのは共謀罪だけです。即ち、下落させられた法を再び「崇高」の位置にまで引き上げる奇跡の力を持っているのは共謀罪だけです。
共謀罪は最強の猛毒であるとしても、悪質極まりない犯罪という猛毒に打ち克てるのは最強の猛毒だけです。共謀罪が意外なほど早く成立し、施行されたことに、本件大事件の全容解明と全面解決に向けた複雑な思惑が絡んでいるのかどうかは分かりません。絡んでいてもいなくても、本件大事件の一日も早い全容解明と全面解決のために共謀罪が役に立つことがあれば、可能なあらゆる運用の仕方に訴えて役に立ててください。本件大事件を一日も早く全容解明と全面解決に導くことによって、その外の「真実=廃墟」へと全体として転落しそうになっている(すでに転落している)日本国家を虚構の象徴的秩序のなかに移動させてください。そうすることで、法と生が一致した加害者たちによって依然としてこの世の外に消滅することを欲望されている私と三浦一誉氏を救済してください。法と法の侵犯の区別がつかない不分明地帯としての、無時間の収容所空間から一日も早く救出してください。